東 京一郎

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維新とカネ

「維新とカネ」といっても、ウラ金の話を聞ける環境でもなし、オモテ金の流れなどから、「注目点」調べるだけのお粗末。順不同で、書き留める。 〇馬場伸幸の場合。  日本維新の会の代表。1965年1月生まれ、大阪堺市出身。地元の府立鳳高卒業後、ロイヤルフードサービスに就職するも、21歳の時、86年、地元の自民党中山太郎参議院議員の秘書となる。93年、堺市議補選で初当選。以来、2012年、辞職するまで堺市議6期19年務める。12年総選挙、地元大阪17区で初当選。以来4期連続当選。  

    • 慰安婦 戦記1000冊の証言47 『ピー』の語源

      戦記を読むと、当時、慰安婦のことを「ピー」、慰安所のことを「ピー屋」と呼んだ日本軍将兵が目につく。その「ピー」「ピー屋」という言葉の由来を探ってみたい。  昭和17年2月、徳島143連隊に入隊し、その後、235連隊に転属。敗戦まで中国各地を転戦した兵長の証言にも、「ピイ」が出てくる。 「殺気立っている集団は何をするか判らないから、これほど危険なことはない」 「通行中の住民を呼び寄せては絞殺し、毎日5、6人殺さんと飯が美味くないといい、実行していた兵もいる。また、ある兵は強

      • 慰安婦 戦記1000冊の証言46 『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』下

        「彼は、結局ここに(ラングーン)に安着できず、ペグー市に故郷の友人の金川栄周氏がいるという消息を聞き、金川氏のところへ行くことにした」 「ビルマ人の乗合自動車でペグーに到着した。文楽館という慰安所の新井氏の家で少し休んで、慰安所を経営している同郷人、金川氏を訪ねて行った」(p58)  ペグー行きは、43年2月から5月にかけてのようだが、同年1月ごろのペグーの慰安所状況は、以下のようだった。第55師団大尉の証言である。 「今日(18年1月1日)は師団長閣下の招宴に招待されてい

        • 慰安婦 戦記1000冊の証言45 『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』上

          『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』(ハート出版・2017年発行)という本がある。著者は、韓国の東亜大学人間科学部の崔吉城教授だ。  2013年、韓国で『日本軍慰安所管理人の日記』が出版されたのを契機に、この日記全文を調査し、検討を加え、感想を記している。  この日記を書いたのは、韓国・金浦出身の朴。1905年生まれで、1942年から44年にかけて、ビルマ・シンガポールの慰安所管理人(帳場人・主に会計担当のようだ)を務める。この間、43年から44年にかけての日記が紹介されて

        維新とカネ

          慰安婦 戦記1000冊の証言44 帰還

           陸軍58師団将校の証言を聞いてみよう。 「第58師団が『九江』(中国江西省)周辺の農村に分宿を完了したのは、昭和20年10月の初旬であった。或る日の午後のことである。  一人の朝鮮人元従軍慰安婦が私たちの将校宿舎にどなり込んできた。元慰安婦の言葉はひどく乱暴であり、その態度はひどく横柄だった。そして言うのである。 『お前ら、日本の将校よ。お前らの国日本は戦争に敗けて四等国だ。そして、朝鮮は一等国だ。もうわしらは、お前らの自由にはならんぞ!』と」「私たちはだまって聞いているだ

          慰安婦 戦記1000冊の証言44 帰還

          慰安婦 戦記1000冊の証言43 郵便貯金2万円

           ビルマの慰安所にいた元朝鮮人慰安婦が、2万円を超える郵便貯金をしていたという話から、「慰安婦が性奴隷のわけがない」と批判する声がある。  昭和13年初頭、陸軍省の要請で、東京・玉の井などの私娼の一団が、中国・上海に設置された慰安所で働き始める。  朝9時から営業開始して「12時から1時までが食事休店、それからまた5時まで営業、そのあと2時間が入浴と夕食、夜の9時までが将校用」 「2日3日と日を重ねるにつれ、女たちはだんだん要領をおぼえ、20人、30人の客を取っても、最小

          慰安婦 戦記1000冊の証言43 郵便貯金2万円

          慰安婦 戦記1000冊の証言42 天皇の大御心

          「慰安所設置は主計将校の任務のひとつ」「ピー屋設置要綱もあった」などという証言は多い。  しかし、疑問を持って、上官を問い詰めた主計将校もいた。  南京の予備経理学校を卒業した見習士官の証言。昭和20年ごろか、中国での出来事。 「亭里村にあった<椿>の第216連隊長室は、その一隅に四帖半の日本間をしつらえてあった。日本風の障子で仕切ってだ。連隊長が専属の女を抱いていたのは、その四帖半においてである。 『戦死はしてもよいが、タタミの上で、も一度寝てからにしたい』とは兵士たちが

          慰安婦 戦記1000冊の証言42 天皇の大御心

          慰安婦 戦記1000冊の証言41 臨時看護婦

           インドネシア・スマトラ島の中部、「軽井沢」とも称された、高原の街ブキチンギ(ブキティンギ)にも、もちろん、慰安所があった。  近衛歩兵第四連隊兵士の証言。  昭和17年、「フォルトデコック(現地名ブキチンギ)で、私は、海外の軍隊には『ピー屋』と呼ぶ慰安所(倶楽部とも呼ばれていた)のあることを初めて知った」「スマトラへ来るマラッカ海峡の輸送船の中で、先輩、戦友たちにその話を聞いたという方が本当かもしれない」 「ある日曜外出の時、私はその道のベテラン戦友に誘われて、このピー屋

          慰安婦 戦記1000冊の証言41 臨時看護婦

          慰安婦 戦記1000冊の証言40 靖国の英霊

          「英霊として、靖国に祀られたい」という願いを、慰安婦の口から聞いた人もいる。  南洋・ラバウルにいた朝鮮人の慰安婦は、米軍機の空襲の際、相手の軍人にこう語ったそうだ。 「監督の説明では、もし万一ここで戦死するような事があれば、身分を1階級進めて特旨看護婦として公報され、靖国神社に祭ってもらえるとの事です。私は(前借金を返済し、貯金をして)店開くより、靖国神社に祭ってもらい、立派に軍属として父母に公報を届けて貰った方が良いのです」(1)  中国・海南島では、日本人慰安婦が親し

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          慰安婦 戦記1000冊の証言39 援護法適用

           昭和43年4月26日、国会の衆議院で、社会労働委員会が開かれた。議題は「戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部を改正する法律案」で、社会党の後藤俊男議員が次のような質問をした。会議録から紹介しよう。  後藤委員「大東亜戦争当時、第一線なり、いわゆる戦場へ慰安婦がかなり派遣されておったと思うのです」 「聞くところによりますと、無給軍属ということで派遣しておる。さらにこの派遣につきましては、それらの業者と軍との間で、おまえのところでは何名派遣せよというようなことで、半強制的なような

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          慰安婦 戦記1000冊の証言38 寺内元帥豆絞り

           元陸軍大臣の元帥寺内寿一は、元首相寺内正毅元帥の長男。「若い頃はずいぶん放蕩もされたらしい」「法衣を着て吉原を練り歩くくらいは、平気であった」 「筆者は昭和13年北京に出張の節、寺内方面軍司令官から『ちょうど大阪から飛行機でうまい鮨が到来しているから』とて馳走になった覚えがある」「戦地での品行を云々する者もあるがこれは大間違いで、北京以来絶対に、私行を慎んでいられた。  昭和18年マニラ出張の際、筆者が偕行社に招待された時、わざと皆の前で老女中の手を握って『手を握るくらいは

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          慰安婦 戦記1000冊の証言37 ジャワ白馬会

           いわゆる文化人と呼ばれた人たちにも「慰安婦体験」がある。  作家井上靖は、毎日新聞記者時代、昭和12年8月から13年3月まで、名古屋の第四兵站輜重兵として、中国・北支に従軍した。  その時の日記に、こんなことも記してある。 「(昭和12年)10月13日」「今日は午後鉄道の沿線(平漢線烏馬庄・新村間?)を通る。手を繋れてる支那の十七八の若年の屍甚だ多し」  捕虜も殺したという意味だろうか。それから10日以上過ぎて、「10月25日」東常寿で「今日サック9枚支給さる。女が4人来る

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          慰安婦 戦記1000冊の証言36 東寧馬鹿野郎

           中国・満州のソ連との国境に面する東寧にも、当然のことながら、慰安所があった。  昭和17年、陸軍に入隊し、満州の部隊を転々とした陸軍兵長の東寧に関する証言。  昭和17年5月1日「入隊いらい初の普通外出」「町に出て片っ端から食い歩く。カツ丼、シュウマイ、大福……。この旺盛な食欲はわれながら悲しくなる。古年兵はピー屋(公営の女郎屋)に直行する、眼の色を変えて……。  軍人クラブで飲み、酔ってその1軒を覗く。お粗末な掘建て小屋で、筵敷きのうえにせんべい布団。これじゃ激情が沈んで

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          慰安婦 戦記1000冊の証言35 撃沈

           俳優の加東大介は、昭和18年、10年ぶりに召集され、衛生伍長として西部ニューギニアのマノクワリに向い、同年12月、現地に到着する。 「めぼしい建物は、わたしたちより半年ばかり前に上陸した海軍さんが手に入れていたのだ。それでも、司令部だけは、ラワンかなにかのまっ白い木でつくった本建築をさぐりあてていた。 『おっ、いいところがあったんだな』。そこにいた建築班の兵隊に、そう話しかけたら、かれはムッとして、『わたしたちが腕にヨリをかけて建てたんですからね。でも、軍司令部なんかに使っ

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          慰安婦 戦記1000冊の証言24 女の要求

          女郎屋の主人 「国府軍から女の要求」には、俳優の森繁久弥。敗戦時、満州の新京放送局に勤務していたが、引揚途中の錦州引揚者収容所に入り、「渉外班」を引き受ける。 「さしあたっては、錦州からコロ島までの鉄道を指揮する、蒋介石軍のごきげんをとり結ぶことです」 「まず、(収容所の人たちで)演芸班を組織しました」「簡単な練習をして、馬車2、3台を仕立てて、ぼくが駅近くにあった中国軍部隊へ連れていって慰問演劇をやるんです」 「終ると、将校連中の酒席に呼ばれて酌をして行けという段取りにな

          慰安婦 戦記1000冊の証言24 女の要求

          慰安婦 戦記1000冊の証言17 天皇陛下のため

           満州・孫呉の慰安婦について、日本人か朝鮮人かはっきりしないが、孫呉の戦車隊の主計中尉は、こんなことを弟に話したそうだ。昭和18年12月ごろの出来事。 「孫呉の慰安婦で可愛がっていた女がいて、たまたま日本に休暇で帰国することを話したら、その女の実家が京城市にあるので両親宛の手紙を実家に立寄って渡してくれと頼まれた」 「彼女からの手紙を託され、京城で途中下車してその家を訪れた。娘を慰安婦にまでしている家庭だから貧しい家の娘と思い込んで家を探したが、その住所周辺は京城でも高級な

          慰安婦 戦記1000冊の証言17 天皇陛下のため