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日本を救った英雄たち(元寇編)

「おかあちゃん、家に入れておくれよ~!!」

「こんバカ息子が、ムクリコクリにやられてしまえ!!」

「ひっ  おかあちゃん、入れて、入れて~~!!!」

ムクリコクリは、蒙古と高麗のことを指すといわれ、各地の民間伝承で怖いオバケとして語り継がれているが、元寇の凄惨な戦いはこのような民間伝承にも影響を与えているのだ。

青森の子守歌にもある「もっこ」も、蒙古のことを指すらしい。元寇がいかに日本中を震撼させたかがわかりますね。
「寝ろじゃ 寝ろじゃ 寝ろでばよ 泣ぐ子は藪さ捨てでまる
寝ろじゃ 寝ろじゃ 寝ろでばよ 寝ねば山がら モッコ来るど」

今日は、この妖怪よりも恐ろしい蒙古軍と戦った日本人を何人か紹介します。元寇合戦記ですね。
詳しくは、↓「アンゴルモア 元寇合戦記」(たかぎ七彦先生)、対馬編と博多編で、対馬編はアニメ化され、現在博多編の連載中です!

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宗助国

「なんだ、あの数は!?」
対馬の佐須浦にたどり着いた対馬の地頭・宗助国、以下80余騎。
宗氏は対馬を勢力下にし地頭代として君臨していた
1274年文永11年10月5日。対馬の島民が国府に蒙古の船が来襲してきた報告を受け、夜通しの行軍を経て佐須浦を目指していく。

翌朝、佐須浦の蒙古軍を見てその数に驚く。船の数は450隻、3万の軍がひしめきあっていた。
「ここがわれら生涯の戦なり。一所懸命によって、われらの名を残すべし!!」 「えいえい、おぉおおおおおおお!!!」

「われこそぉおおはああああ!!
新中納言が平知盛の後裔、宗(そう)右馬允(うまのじょう)助国(すけくに)ぃいいい!!!」 鏑矢が放たれ、宗助国の軍が突撃した。

蒙古軍は一斉に矢を放つ。「なんだ!? 矢が雨のように降りかかる!」
「殿、お下がりください!!」 矢で大半の軍が失われてしまった。
子の右馬次郎(うまじろう)は聞く。「下がり、立て直しますか?」
助国は、ふり返る。
「ひるむか。腹を決めよ。」
「他に道はありませぬか。」
助国はふと黙り、一呼吸したあと、
「右馬次郎、鬼となれ。」
右馬次郎は父の顔を見て、普段の顔ではない、まさに鬼神の如しと思った。この父とともに、鬼になりたいとも思った。
「よいかぁあああ!!われらはこれより、鬼となる!!
対馬は鬼の国であることを、ヤツらに見せつけてやるのだあああ!!」
弥次郎が吠える。「鬼は死なぬ!矢など吹き飛ばすのだ!」
「おおおお!!」

再び矢の雨が降りだした。徒歩は盾を被り矢を食い止める。騎馬は一斉に散り、そのまま突撃していく。覚悟を決めた右馬次郎は流れるように動けた。
「可ぁあああ!!」皆はとにかく叫んだ。
たとえ馬が射抜かれても、右馬次郎は馬の如く走れると思った。
あと数10m。距離を詰められたことに幸運を感じた右馬次郎は弓矢をつがえた。
すると、これまで鎧や兜で弾いてきた矢が、ついに足に刺さる。
たいした痛みじゃない、と思ったがすぐ胸にも刺さってきた。
「キィエエエエ!!」鬼になった右馬次郎は確信した。まだ戦える!
逃げるヤツらもいる! さあ、まだはじまったばかりだ!

一方、蒙古軍。この少年は蒙古が占領した国から徴兵され、はじめて船に乗り日本進軍に参加させられた。「気持ち悪い船をやっと降りたら、戦だぜ」人生に絶望していた。父や兄は戦で死に母は蒙古に連れ去られ、自分は蒙古の人間の監視下、奴隷のように働かされた。そして兵として連れていかれ、何度も戦場で死にきれなかった。
「よいか! わが軍はこの島の民の数倍の人数である! 簡単に制圧できるので、わが軍の命令に忠実であれ! 島をとれば、その富はわが軍のものである!!」 (この大将はどこの国の者かわからないが、蒙古に媚びて蒙古の足までなめそうだが、俺たちの前には酷く偉そうにする。腹が立つぜ。)

「はっはっは!! 見てみろ、あの人数!! 蹴散らしてくれようぞ!」
しかし少年は目を見張った。われらと違う、きらめくような鎧や兜。黄金色の兜の細工、黒と赤に塗られた鎧は光輝いている。なんだ、あの華美ないでたちは。凛として目の前に迫る彼らに、美しさすら感じた。
鬼だ。矢を受けても受けても叫びながら突進してくる!!

右馬次郎は太刀を抜き、がむしゃらに振りまくる。父は討たれ、首をとられたようだ。弥次郎は外から弓を撃っていくが、やはり多勢に無勢か。
「がぁあああ!!」めまいがしてきた。俺は父とともにこの対馬の土となる。そして永久に蒙古どもを滅ぼしてやる。永久にだ。

…宗助国は対馬の民からの懇願により、明治時代に従三位の叙勲を受け、現在も祭神となった小茂田浜神社にて海に向かい弓を射る「鳴弦の儀」が神事として行われている。2020年には騎馬像も作られ、対馬の歴史と平和のシンボルとなっている。

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日蓮上人の書状によれば、対馬の民は蒙古の殺戮に会い、女性は手に穴をあけられ、縄を通して船壁に並べられたという。
「一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)」
また、捕虜として捕らえられたものは奴隷としてモンゴル王侯や将兵に献上されたという。

菊池武房

対馬の敗戦と惨状は大宰府を通じ、京都や鎌倉に伝えられた。
大宰府に集まった御家人を指揮する少弐景資は博多湾に攻めてくる蒙古軍を迎撃するように命令を出した。この周辺の干潟は、騎馬による弓戦が中心の鎌倉武士にとって行動しにくい。ぬかるみに馬が動きにくいと、進軍する間もなく蒙古に討たれ兵力が削減される。ならば息の浜で集結し迎え撃つのが良かろう。
しかし菊池武房は考えた。「赤坂山が取られるのをただ指をくわえて見ているだけなのか!?」
赤坂は博多湾の西にある小高い丘で、かつて刀伊の入寇などの大陸の侵略があったときも重要な拠点だった。菊池武房は地元の武将として赤坂山が重要な拠点であることがわかっていた。
そして、幕府による菊池氏の冷遇。かつて刀伊の入寇をおさめた藤原隆家の孫といわれ九州で勢力をもった菊池氏だが、承久の乱で朝廷側で活躍したため所領が減ったうえ、幕府から送られた御家人・少弐氏や大友氏や島津氏などが九州で力を持つようになった。
ここで菊池の武名を高めていくチャンスだとも思った。

「上陸した蒙古どもを蹴散らしてくれるわ。」赤坂周辺に肥後の御家人・菊池武房の軍勢約100騎が布陣。

「ものども、蒙古との戦いの一番乗りだ!! わが武名をとどろかせてくれようぞ!!」
布陣したばかり、かつ早朝。まさかの奇襲で蒙古軍は混乱するもの多数。
蒙古の士気は高くない。この進軍がうまくいくかとも思っておらず、赤坂山に上陸してすぐに陣をつくり疲れていた。その矢先、突如として目の前に恐ろしき敵がいる。「って、敵だぁああ!!」という間もなくなだれ込む菊池軍。だが、弓で射られるもの、元軍が投げる「てつはう(手榴弾)」におどろくもの、馬がおびえその場で撃たれるものも。

「兄上!!」弟の赤星有隆は菊池武房が馬から落ちて倒れているのに気付いた。多くの屍が並ぶ中、兄は討ち死にしたのかと思った。
蒙古軍が引き返してくる!赤星有隆は退くことも考えた。
屍の中から、菊池武房は立ち上がった。蒙古軍はいっせいにおびえる。
近寄る蒙古を斬り、刺し、首をとる。
唖然とする蒙古軍を一瞥(いちべつ)し、菊池武房はニヤリと笑う。
その姿を見るや、蒙古軍は撤退した。

菊池武房軍は打ち取った首を太刀と長刀に突き刺し、帰陣。
竹崎季長は先駆けの途中でその姿と遭遇した。「誰にてわたらせ給い候ぞ、涼しくこそ見え候らえ(どなたですか、とても凛々しく見えますが)」と、先駆けの証人となってくれるよう菊池武房に頼み込む。

のち、菊池武房は幕府の恩賞が少なく、冷遇されたと反幕府に転じ、後醍醐天皇について南朝の武将となっていく。

菊池一族は、熊本県菊池市のシンボルとして現在も愛されている。

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(熊本県菊池市によるHP「菊池一族」より。)

竹崎季長

元寇の一級資料で、学生時代に誰もが見たことある「蒙古襲来絵詞」を描かせた、肥後の御家人「竹崎季長」の家はつぶれかけていた。
もとは菊池氏の一族であったが、権力争いに敗れて没落。
ほとんどの所領(財産)を失い、借金も抱え、いつ破産してもおかしくなく、ごく一部の土地からとれる米を食い、時には飢え、借金に方々駆け回っていて人生に失望していた。
「結局俺は、何の生きがいもなく、野垂れ死にするのだろう。」
そんな竹崎季長20代も終わりを迎えたとき。蒙古軍が襲来し、全国の武将たちが大宰府に集まっているのを聞く。

竹崎季長は一族郎党に声をかけ、「われら一族の武威を全国に示すのだ!」と意気込んだ。結局集まったのは5人。姉婿の三井三郎などは「まあかわいい弟に付き合ってやるか」と思って参陣した。

多くの有名な武家たちが集まっている。少弐、大友、島津… 有名人が多い中、竹崎季長はひるんだ。「本当に俺が活躍でき、恩賞がもらえるのか?」
どうすれば、自分が活躍できるか。必死に考える。
どうせ帰っても飢えて死ぬ。ならばここで死んでもいい。自分はふつうの武将たちよりも数百人の敵を倒さねば、報われないだろう。早く、一刻も早く戦うのだ。覚悟は故郷から来るまでに固めてきたつもりだ。

ん? いつになったら攻め入るのだ?
武将たちの話は、蒙古がいかに野蛮か、いかに自分の祖先の戦が秀麗だったか。悪口と自慢ばかりで具体的な作戦や戦法の話がなかなか見えてこない。
話をまとめると、どうやら指揮をする少弐景資は「この息の浜で蒙古軍を迎え撃つ」らしい。
竹崎季長は決断した。俺は、突っ込んでくる。そうだ「先駆け」だ。
武家の誉は、まず先に攻撃をしかける先駆けだ。自分が先鋒として突っ込み、その姿を皆に見せて後に続かせるのだ。

少弐景資の本陣に駆け付け、先駆けを願い出る。
少弐景資はあきれてしまった。たったの5人。何ができるか。
まあ、偉そうに口ばかりの御家人や武将どもに見せつける、良いコマかもしれない。「よかろう、やりたまえ。」

竹崎季長は、チャンスを得たのと同時に決死の覚悟をした。なりふり構わない。
「みなのものぉおお! ご覧あれぇえええ!! 
われこそは、肥後の御家人、竹崎季長なりぃいいい!!
これより、われが先駆けいたすぅううう!!!
ぜひ、ご覧あれぇえええ!!」
たった5人。一同、呆然と見るものや、失笑するものもいた。

竹崎季長の不安は、蒙古軍にどうすれば戦えるか未知数なことだ。
名乗りもあげるのか。鏑矢を放つのか。突撃するものか。
化け物かもしれぬ。体躯はどれほどか。巨人なのか。妖術など使うのか。
赤坂山にいると聞く。どのような地形なのか。蒙古軍の陣まで行けるのか。
すると、目の前に人影が…! ついに蒙古軍?

いや、御家人か。旗があるな。「ならび鷹の羽」、菊池氏か!!
太刀の先にあるは、蒙古の首級! すでに一戦交えたのか!

「そのゆゆしき姿! 誰にございましょうか、涼しく凛々しく見えますな!!」
「われは菊池武房なり。貴殿は何者か。」竹崎季長は蒙古の首級をまじまじと見た。ただの人間、ちゃんと戦え、勝てるのだ。
「肥後の御家人、竹崎季長なり。息の浜から先駆けに参ったもの。
ぜひ、わが姿、ご覧あれ。」
「ほう。ご武運を祈る。ぜひ見届させてもらおう。」

竹崎季長は勢いづいた。無勢ながら、武功をあげるかもしれぬ。
「いくぞぉ! みなのもの!!」一気に駆け出し、赤坂山を目の前にした。
しかし、どうやら赤坂から奥へ退いているようだ。鳥飼潟を駆けている。
菊池武房が攻め込み、それを追撃する形になるか。チャンス!
竹崎季長は蒙古軍の小勢に攻め込もうとした。しかし砂浜に馬が転倒。
態勢を立て直したときは蒙古を逃がしてしまった。

赤坂山の西にある麁原山に陣を敷いているようだ。
蒙古軍の数々。銅鑼や太鼓を鳴らしまくり、吠えまくっている。
「殿! 先駆けをしようとしても、見届けるものがいなくてはいけません。味方が来るのを待ちましょう!」と家来がたしなめた。
「いや、先駆けの賞をとられてはならぬ。突撃するのだ!!」
竹崎季長はすでに何人か後ろから駆けつけているのに気づいていた。遅れをとってはならぬ。

「われこそはぁあああ!! 肥後の御家人! 竹崎季長であぁあある!!」
この名乗りは蒙古よりも、後続の御家人たちに伝えるものだった。
突撃!!

いっせい射撃の矢が迫りくる。兜や大袖(肩当て)で跳ね返すも、馬に矢が刺さる。ひるむな!
すると、突如、空に雷鳴が響いたと思いきや、馬が倒れた!
何が起きた!?晴れだったはずだ。突如の轟音。
空を見ると快晴のはず。すぐさま立ち上がるが、また雷鳴。
そしていっせいの矢。刀でかえすも、いくつかが体の各所に刺さる。
「おのれぇえええ!!」
すると「われこそはぁあああ! 肥前の御家人、白石通泰なりぃいい!!」
後続の白石勢100余騎が到着し、いっせい射撃をする。
蒙古軍はやがて退きはじめ、白石勢は追撃しようとした。
「待て、待て!! 先駆けはこの、肥後の竹崎季長なり!! われもこれより馳せ参ぜよう!!」
「否、貴殿らは馬もふくめ多く射られておる。先駆けのことは伝えておくゆえ、いったん帰陣し態勢を整えられよ。」

白石通泰や福田兼重らが追撃をはじめ、あっという間に向こうへ行った。
季長らの損害も大きく、辛うじて皆は生きていたものの、前線を駆けていた季長は馬を失い、いたるところに刺さった矢の傷が痛み始めた。

あくる日、蒙古軍が撤退したと聞く。季長はすかさず先駆けのことを小弐景資に申し出た。しかし「見届けたものがおらぬ。本当に先駆けをいたしたのか?」と言われたため、何度も食い下がった。白石通泰や福田兼重らからも証文を書かせた。しかし少弐景資は「ただ負傷しただけでは戦効とは言えぬ」と言った。「先駆けは、先駆けであろう!!」と怒鳴ったが、まったく相手にされなかった。

季長は残った馬を売り、鎌倉に乗り込み直訴する決心をした。肥後から長い旅、身なりも乞食のようになり、鬼気迫る思いで鎌倉に着き、肥後の守護であり恩賞奉行でもある安逹泰盛との面会に成功する。地元の奮戦と、蒙古軍と戦ったものに対する恩賞について熱心に食い下がり説いた。
結果、肥後の海東地区の地頭に就任される。
弘安の役では安達泰盛の子・盛宗の指揮下、志賀島の戦いや御厨海上合戦で敵の船に乗り込み、蒙古の兵を打ち取るなどの活躍。

戦後の永仁元年に、後世まで元寇の資料として日本国民誰もが知ることとなる「蒙古襲来絵詞」を描かせ、自分を中心とした元寇について残した。

死後、1894年(明治27年)に竹崎季長とされる墓が熊本県宇城市で発見され、平原公園として整備され、1916年(大正5年)には、熊本出身の総理大臣・清浦奎吾や東郷平八郎の碑文が納められた。

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北条時宗

以前書いた、記事の最後に北条時宗がいます。

まとめ 国土を守る

神風という言葉は、この元寇から名付けられ、おもに特攻隊のアメリカ艦隊に対する突撃と自爆行為のことを指し、あまり良い言葉として思われてないのかもしれない。

しかし、かの太平洋戦争で命を懸けて、わが国土を守るために突撃した人々がいたのも事実。
たしかに、政府が当たり前のようにこの神風特攻隊を強制した、そういう制度を確立してしまったのは良くない。さらに「桜花」や「伏龍」など「人々を弾薬のように使うのは当然だ」という発想の飛躍。これらを推進した黒島亀人らの罪は、もっと認知されるべきだと思う。

ただ、彼らへの敬意は無くて良いのか。確かに、「自分の命よりも、守るべきものがある!」と立ち上がった、彼ら一人一人の成果があって、アメリカは日本をおそれ、またはソ連の侵攻を食い止め、今の平和な日本につながったのはあるだろう。

日本は過去、何度も「国土侵略からの脅威」と戦った。
平安時代の刀伊の入寇。鎌倉時代の元寇。日露戦争でのロシアの南下政策。太平洋戦争における、アメリカの本土攻撃とソ連の日本侵攻。

もし、彼らがあきらめて、「どうぞどうぞ」と外国の侵略に無抵抗に抗わず、国土を明け渡していればどうなっていたか。
日本は消滅するか「日本地区」という遺跡となり、外国人にとらわれ奴隷や虐殺などの被害を受け、言葉や文化、先祖や家族をすべて失い、支配者の奴隷となったものだけ、鞭を打たれながら生きることになるだろう。

確かに、鎌倉武士らの多くは、この戦いを利用して利益を得ようとするものもいただろう。
しかし「自分の命を懸けてでも、戦わねばならぬときがある!」という思いなくば、みな逃げていたろう。事実として、彼らの奮戦があり蒙古軍に九州を奪われなかった。蒙古が攻めこみ、コテンパンにされていた日本軍はたまたま台風に救われたと思われた元寇なのだが、近年はそれを否定し、多くの御家人たちが戦い蒙古軍の侵入を防いだような事実が発見されている。
僕は、この元寇という未曽有の危機において、鎌倉幕府があったことに奇跡を感じている。平安貴族や、平氏政権では防衛に厳しかった面が強い。
さて、今や日本には軍人もいなければ、武士もいない。ウクライナ危機を見ての通り、ある国は理不尽をもって侵攻することがある。

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