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上野国と下野国 群馬と栃木の昔と今①

ぶんぶんぶん、国府国分寺♪
こんにちわ、その辺を飛んでいてすぐにでも潰されそうな羽虫です。
生々流転、「虫魚禽獣死ねばどれもみんな同じ」(火の鳥「鳳凰編」より)!!
偉そうなタイトルなのですが、僕なんて、火の鳥鳳凰編で世の中のしくみを知ったぐらいの漫画脳で脳足りんなアホで。(漫画やアニメの表現多いです!)
有名スポットどころか、どこに行くかもおぼつかない羽虫のような気まぐれさと目立たず無視されそうなモブ感で。(マニアックかつ無知蒙昧な独断偏見で描きます!)
脳みそに一本毛が生えたような知識で、「関東の昔と今」が描ければと思います。

今回から、シリーズ「国府国分寺」です。
なぜかというと、国府があった場所は今で言うと都道府県庁所在地、都道府県の代表的大都市なんです。
群馬に栃木、茨城埼玉東京神奈川に千葉。1都6県はかつては関八州、国というのが置かれまして、同順に上野に下野、常陸武蔵(埼玉東京一部神奈川)相模に下総上総安房。それぞれの国を治めるために日本初の政府・大和政権は国府という国を支配する役所を置き、天皇の役人である国司を派遣した。
どやさ、落語の黄金餅のような流暢な地名暗唱!
…教科書に載ってるレベルの簡単なことでドヤ顔してスミマセンでした。

これまで関東を描いてきた僕ですが、今回からは国府とその国府を護るためにつくられた国分寺に実際に訪問して描きます。同時に、今の県庁所在地など大都市と比較し、関東の歴史をちょっとでも描写できたらと思っています。
さあ、見ていこう! 関東の国府国分寺をめぐろう! 国府国分寺祭りだ!!ぶんぶんぶ~ん♪


上野の毛よ、再起せよ!

さあ、さっそく問題です!
上野国。これは何と読むでしょうか?


「うえのこく」ではありません。上野動物公園のパンダ様が鎮座まします東京都江東区上野は独立国ではありませんし。
「こうずけのくに」と読みます。
代表的古典・赤穂浪士の「吉良上野介(きら☆こうずけの・すけ)」ですね、吉良さんは上野の役人という意味で、小栗上野介(おぐり🌰こうずけの・すけ)もいますね。
それはともかく、昔は「毛野」と呼ばれ、日本最初の統一的法令である大宝律令により、今の栃木と分割され、「上毛野」となり、その後改められて毛が抜けて「上野」となり、読みはそのまま「かみつ・けの」から「こうず・けの」となった。読みは毛が一本残ったままなのですね。
栃木は「下(毛)野」で「しもつ・けの」国となりました。

前橋市の総社歴史資料館へ。総社とは今の県知事こと国司が、国内の神々がいる神社を国府の近くに勧請する社のこと。

群馬には古墳という、昔の支配者や権力者の墓があります。
なんと大型の古墳の数が日本第4位(東日本最大の太田天神古墳をはじめ1万3000基も設置されていた)、関東最大の古墳数。古墳に、その権力者の支配の様子や力を見せつけるために設置される「埴輪」という人形の数も日本一です。

かつて、巨大な古墳をつくるほどに強い力を持った有力者が多く現れただろう、おそるべき毛野。

ここにはかつて、毛野氏という勢力が存在していた。日本書紀では崇神天皇の皇子・豊城入彦命が関東に入り毛野氏の祖先となったとされている。
毛野の由来は、①穀物豊穣の肥沃さを「御食みけ」または草木・五穀を毛と表現した。
群馬は地図を見ての通り、北部は急峻の越後山脈から続く山地であり、平野部は南部であり、ここに現在の大都市である高崎・前橋・太田がある。
特に国府が置かれた高崎~前橋は、周辺を急峻な山々に囲まれ守りやすく、かつ平野部にあり山地から大小さまざまな河川が流れ、弥生時代から農業開発が進み、なおかつ東北や中部地方への交通の拠点として発達した。

国土交通省関東地方整備局・利根川水系砂防事務所ホームページより。
地形がわかりやすいと思います。
わずかな平野に人口が集まる、というより山地を背にした要害でもあり交通の要衝。
北東は関東最高峰の日光白根山(2578m)、北は谷川岳など越後山脈、西は2568mの浅間山などの山に囲まれ、南は妙義山など関東山地の北が突き出て、山に囲まれている。
平野部はふもとの前橋~藤岡や伊勢崎~館林で、これより南は埼玉の中川や利根川の分流である江戸川の低地が東京の方(葛飾区を経て三角州地帯)に続いていく。
当時は東京の三角州地帯はほぼ海だったため人が住みづらく、この山から平地を見下ろす場所である前橋が関東の拠点だったのは合点がいく。
すばらしい場所だった、毛野!!

②毛人つまり東国の蝦夷を表す言葉(宋書倭国伝の倭王武の上表文にある「東に毛人を征すること五十五国」という記述とつながる説)から来た。
蝦夷とは大和政権が東北など東国ことを指しており隣国の中華にならい蛮族(体毛が多いイメージ?)のことを指している。
ひょっとして、東国きっての豪族である毛野氏の強さに朝廷が恐れた?
③豊城入彦命の出身が紀伊だったため、「紀の国」が転じて「けの」となった。毛野は朝廷のプリンスの土地でもあるのだ。

毛野は渡良瀬川にて上毛野と下毛野に分かれたようで、713年頃に好字二字(地名をめでたい字の二字にする)に改める際に毛は卑しいとして字としての毛が抜けてしまったよう。
しかし読みとしては「上(毛)野こうず・ケ・の」「下(毛)野しもつ・ケ・の」という音が残り、現在でも「上毛線」「両毛線」など鉄道名、そして毛野河から「鬼怒川」という名前に転じ、至る所で毛は残されている。果たして「毛」は卑しい、下品だろうか。実りと豊かさと逞しさがあるのでは。少なくとも、筆者にとり中年妖怪チビデブハゲ毛が遺されるのは微笑ましい限りだ。

国府の様子

さて、そんな昔の群馬の中心地、どころか関東の中心地でもあった上野(かみつけのくに読み方に毛を残せ!)の村々の様子です。
古来から農業がさかんだったと思われますね。

これまで各地で古墳を作るほどの勢力をもった豪族たちと、天皇中心の大和政権との連合政権だった政府は、645年に蘇我氏をほろぼす乙巳の変ののち大化の改新という全国を天皇とその家来である国司が支配する改革を進め、最終的に大宝律令に集約される。
我が日本全国は66余国に分割され、それぞれに国府が置かれる。
上野国の国府は、今の群馬県の前橋市に設置された。
のち日本の首都となる平城京にならい、中国のしくみなど最新の制度や文明が地方にも広がる拠点になる。

国府には、その国の政治を行う現在の県庁のような国庁こくちょう、そしてさまざまな行政施設である曹司ぞうし、国司たち役人が住む国司館こくしのたち、徴収した税を保管する正倉しょうそう、官人の食事を作るくりや、そして交通の拠点となる駅家うまやがあった。
また、周辺には市が開かれ賑わっていたようだ。

左が上野国府の市。
紙が貴重なため、木簡という木の札を書類としてまとめる。
木簡は消しゴム代わりに刀で削って修正する。そのため、官人たちは筆と刀を常備していたため「刀筆の吏とうひつのり」と言われた。
器にはその役所のロゴを入れるように「墨書」が描かれた。また、墨書はサインではなく人面のようなキャラも描かれ、さらには木簡を削り人形にすることもあり。
穢れや恐れを払う儀式だったり、めでたいイベントに使うためのキャラだったと思われる。

こちらは、千葉県佐倉市の歴史民俗博物館という日本の歴史(通史)研究のためにつくられた博物館における「平城京」の展示品。
市、木簡、人形、墨書土器、儀式イベントなど国府との共通点が見えてくる。おそらくこれは、今の「東京→地方中心都市→周辺へ」という文化の広がり方と同じことだと考えている。

国府は県庁・市役所のようなもので、いろんな儀式イベントもあり、住民も参加していたのかも。市もお祭りみたいに賑わって。なんだか現在とも共通したイメージ。
これも佐倉市歴史民俗博物館のものだが、このベルトと身分を示す装飾も、
国府付近でよく発見されるもの。
当時の日本が、腰紐こしひもや布の帯ではなく、西洋風の「ベルト」であったのが、
大陸文化が地方都市に広がっているようで面白い。

さて、外に出よう。他の展示品もあるのだが、実際の現地に行きながら紹介していこう。
展示室外に、博物館の端を飾っているもの。書籍に歴史系の漫画が置かれていた。

「漫画日本の歴史」ではなく、普通の商業漫画が置かれているのが漫画好きとして微笑ましい。
僕が小中学生のとき歴史好きになったきっかけといえる「お~い!竜馬」と、最近の歴史漫画でオススメの「不思議の国のバード」が並んでいる奇跡。

目指すは、上野国の国分寺と国分尼寺。歩いて40分ほどで溜め息が出るが、「ダイエットと散策のため!」と喜んで歩くこととしますよ!

国分寺へ

以下、国分寺に着くまでのハイライト。ゆる~く散歩記事としてお読みください。

山に囲まれた平野部の前橋を歩きます。
全国的に有名な山々は、群馬のシンボルでもあるでしょう。

左が榛名山、右が浅間山。
漫画「山と食欲と私」いわく、浅間山は「サイズを間違えた黒ごまプリン!」(117話)。
左上、ブロッコリー。
右上は桑の木でしょうか。蚕のエサは桑の葉で、富岡製糸場がつくられた群馬でさかんな養蚕業を支えたのは女性で、上州名物「カカア天下とからっ風」という言葉を思い出します。
下仁田ネギに、浅間山の嬬恋キャベツ♪
ウメは和歌山についで全国2位♪
焼きまんじゅう、オッキリコミにヒモカワウドン♪

かつての豪族で大和政権から国造にも任じられた上毛野氏の氏寺で、関東最古級かつ群馬初の寺のあと、山王廃寺跡(記録にある放光寺と思われる)に寄ります。先程の総社歴史資料館にも展示がありました。
上毛野氏は白村江の戦いなど、大和政権内で外交のような役目で度々活躍していたようです。

山王廃寺あと。
総社歴史博物館の展示品。

おっ! 幕末の幕臣で、僕も司馬遼太郎の小説で知りました「小栗上野介」の旧宅が近いらしいです。
司馬遼太郎は、坂本龍馬や大久保利通とともに、これからの日本の青写真を描いて活動していた偉人としてか、かなり評価していましたね。乃木希典とか気にくわない人物を容赦なく酷評していた司馬先生が。
しかし調べてもやはり、小栗上野介は偉大だと思います。寄らねば!

小栗上野介忠順は、日米修好通商条約の批准のためポーハタン号でアメリカに渡り地球を一周。
日本の富国強兵のビジョンを持ち、洋式軍隊の増強と、横須賀製鉄所の設立を進めていく。
大政奉還後、大阪から逃げて上野寛永寺に蟄居しようとする徳川慶喜を諫め戊辰戦争での旧幕府軍の旗頭にしようとするが、拒絶される。
群馬の高崎に隠居するが、新政府軍に捕まりよくわからぬ罪状で斬首される。
横須賀製鉄所はのち造船所にも拡張し、横須賀は軍港として日露戦争の勝利だけでなく、今でも自衛隊や米軍基地により日本の安全保障を支えている。
はいどーん。
なにもありませんでした!

徒歩40分、東に歩き続け、ついに国分寺へ!
…ってこれは後に立てられた寺のようで、ここからさらに南に下ります。

土蔵を持つ家がいくつか見られる。火事など危機を知らせるためか半鐘も設置されてる。

やっと着きました! 敷地内中央に、国分寺の建物の基礎跡が見られます。

さて、この上野国分寺。もちろん、奈良時代に全国が疫病やらで苦しんでいる際に、聖武天皇が743年に「奈良の大仏を作ろうぞ!」という総国分寺たる東大寺の大仏建立の詔を出す2年前に「全国を鎮護するためにも国ごとに国分寺と国分寺を作ります!」て国分寺建立の詔も出します。
しかし、その後ですが。平将門の乱が起き武士が台頭してくると廃れはじめ、1180年の鎌倉時代の数年前には下野国に荘園を持つ足利俊綱が上野国府の焼き払いなどがあり。14世紀ごろには廃絶し墓地となっていたようです。

総社歴史資料館より。
上野国分寺館に資料が展示されてましたが、撮影は禁止でした。
映像が見られます。東山道と前橋の交通についての説明が興味深かったです。
東山道の拠点で、中部山岳地帯と近畿の都を結び、しかも東北や武蔵国(東海道)ともつながる前橋。前橋という地名も総社の辺りにあった「馬屋橋」から来たとか。
右上、遠くに浅間山黒ごまプリンが。
左下は国分寺館。右下は上の写真でも存在感が強い七重の塔。
塔は国の平和を祈るための経が納められたもの。
高さ60mの最大級で、前橋市役所と同じ高さらしい。

一周し、国分尼寺の方へ向かいます。尼寺は女性の僧のことですね。
しかし、この国分尼寺、見つけにくい…
(あとここ、実は何気に高崎市です! おのれ、ここまで高崎が迫ってきやがる…!)

国分寺のすぐそば…
と思いきや徒歩15分くらいか。畑の中の道なきような道を歩き続けます。

畑の中から見つけ、地元の人々が石碑を建てたようです!

やがて上野国も、武士の時代となり諸国乱れカオスな状況中世は戦乱で記録が残らん!、大胡氏などの武士が活躍したとか。
前橋は、今の前橋駅近くの県庁あたりに在原業平の子孫と言われる上州長野氏がつくったとされる「前橋城」が置かれ、江戸時代は将軍徳川の家来である酒井氏による前橋藩の城下町になった。
しかし諸事情により、埼玉の川越藩の一部となり川越藩分領として陣屋による支配城は建築中に度々利根川に壊されていたとなった。
領民の願いにより、ペリー来航後の横浜開港により利益を得た生糸商人の上納金もあり、ついに1863年に前橋城の再建が決定、領主の川越藩主・松平直克もイン! そしてついに城が完成する! 面積53万km2の広大な広さ!

WIKIより、のちに群馬県庁となる前橋市。

しかし半年後に廃藩置県!!前橋藩終了のお知らせです!
城は県庁となり本丸御殿以外の多くは取り壊しとなった。

おまけ。前橋市総社町

前橋藩は川越藩の一部となりましたが、前橋駅から利根川を越えた先に総社藩というのもかつてありまして。国府の総社のまわりは、のち総社郷と呼ばれ、関東管領山内上杉氏の家宰であった長尾忠政ら総社長尾氏が支配した。拠点は蒼海城。
しかし関東管領山内上杉家の衰退後、総社は越後の上杉と甲斐の武田や関東の北条などとの抗争の地となり、のち豊臣秀吉に、そして徳川家康に下る。

総社神社に向かいます。

総社領を家康から与えられ、総社藩をつくったのが秋元氏。
もとは千葉県君津市の秋元に由来し、のち埼玉県深谷にて関東管領上杉氏や北条氏や徳川氏に仕え、秋元長朝が総社領を手に入れる。

秋元長朝は関ヶ原の戦いにて会津の上杉景勝と戦い、降伏を勧めた功績で総社領が与えられる。
しかし、33年の秋元治世が子の泰朝が甲斐に移ることで終わる。
以上、2つは総社歴史資料館の展示品。
町づくりに治水工事に。しっかり地元のための政治を行っていたためか、秋元と領民の縁はその後も良かったようで。
利根川から天狗岩用水を引く工事。ジオラマの人々の顔が良いですね。

総社領は秋元治世終了後、高崎藩に移ったようです。おのれ、高崎ィ!
しかし総社町は幕末に前橋藩に戻りましたため、国分寺と国分尼寺は高崎市ですが、今でも前橋市のままですね。

国府があった場所は、この小学校の敷地内だと推測されてます。

前橋市(v.s.高崎市)

前述で前橋城の話をしちゃいましたが、前橋城が完成し藩主が戻り前橋藩が再建された半年後に廃藩置県となり前橋藩は終了した。
その直後に前橋県が置かれるが、群馬県となり県庁は高崎に移る。
まあ翌年、再建された前橋城を県庁にしたので、県庁は前橋になりまして。
ここから「前橋 V.S. 高崎」の熾烈な対立関係がはじまります。
首都圏と埼玉につながる交通の拠点・高崎、そこからわざわざ外れの方にある政治の中心地の前橋。

ところで群馬という名は、前橋や高崎や渋川などこの辺りの郡名が車郡くるまぐんだったことで、713年の好字二字にするとき馬の産地のため「群馬郡」と書いて「くるまぐん」と江戸時代まで読んでいた。
明治になって、「グンマかクルマか」で「グンマ」と呼ぶようになり、県庁も「西群馬郡の高崎町か、西群馬郡の前橋町か」でもめるほどだったので、県の名は郡の名を付けることになったよう。グンマ―!!
(※このあたりの経緯は、第一次群馬県に前橋県に熊谷県に第二次群馬県に変遷が複雑のようです…)

群馬県と県民についての教科書は、漫画「お前はまだグンマを知らない」がオススメ。
多少の誇張はありますが…
前橋市をご案内。総社歴史資料館へのバスにて。
県庁周辺。グンマの中心と言わんばかりの歴史の風格を感じる立派な建物!
利根川を通るとき、周辺の山々が美しく見えました。
群馬県民はこれらの山に囲まれて育ってきたのでしょうか。
帰りは両毛線の新前橋駅で高崎に戻ります。

高崎市(v.s.前橋市)

群馬県の政治の中心が前橋なら、経済と交通の中心は高崎であろう。
もと高崎藩があったこの町は、以前から交通が発達していたが江戸時代には中山道の宿場町としても69次のうち4番目に栄えており物資の集散と商業の町としてにぎわっていた。
現在もオーケストラのある地方都市として音楽の町、映像分野でも高崎フィルムコミッションから映画やドラマ・PVを誘致しており、アニメでもPAワークスという人気制作社が2024年に「菜なれ花なれ」の舞台として放送予定であり、前橋より賑わいと勢いがある町で、さらには政令指定都市も目指していたという(ただし人口が足りぬため、いっそ周辺の前橋を合併し)さらにその利便性から新幹線の駅もつくられ交通的にも前橋は高崎のおまけ!?、北関東最大の都市圏へと成長した。

…とまあ、僕も高崎には何度も訪れましたヨ。
しかし、あくまで交通の通過点です。高崎なんて素通りするだけでショ。
降りたことあるかな。
…いや、何度かあったか。アニメイトで漫画を求めたり、呑み屋でほろ酔いになったり。あーけど、一度がっつり観光に、高崎観音を見に行ったか。
高崎市をがっつりまとめたいのだけど、群馬県立歴史博物館(高崎市)と高崎市立民俗資料館は高崎駅から遠いのダヨナ…

チアリーディング部の話と聞いています。
キャラデザが、「花咲くいろは」「サクラクエスト」「パリピ孔明」そして僕の聖書「Shirobako」の関口さんなので楽しみです!
後光が…!
観音山から見る高崎の町。
高崎はダルマの町でもあります。
ダルマといえば、埼玉の越谷に東京の調布(深大寺ダルマ市)、我らが東京青梅や瑞穂町(僕の地元の飯能~入間の近所)の東京ダルマ(多摩ダルマ)がなじみ深いですね。
峠の釜飯もおいしいが、高崎駅内で名物ダルマ弁当を。
高崎線で3駅前の「新町」近くにある於菊稲荷も何度も訪問しました。
お菊さんはじめ、これらのキャラで癒されます。

まだまだ散策したい高崎市。
いっそ、高崎前橋ともに仲良く合併し、もとの「毛野」市とかに戻ればとも思いますが、地元の人々は怒るでしょうね。

太田市(そびえたつスバル)

群馬は以下の12市がある。190万人の人口のうち、高崎が約37万人、前橋が約33万人であり、3位の太田市が22万人。(次ぐ伊勢崎市が21万人で、4位の桐生は11万人程度である)

群馬県は、「何かのクリーチャー鶴に見えない(生命体)に両手がついている形」と呼んでますが、
むかって右側の細長い職種の「肩」の位置に太田市があります。

最後にこの太田市を描こうと思う。
以前は新田義重が開発した新田荘と言われており、鎌倉幕府をほろぼした新田義貞の拠点であった(のちその後裔の岩松氏が太田駅から数キロ北の金山城にて支配)。
うちの近所の所沢には小手指原合戦跡、はるばる義貞公が鎌倉滅ぼしにココまでやってきまして。さらに南下し分倍河原の戦いは東京の府中の博物館にも義貞公の銅像があり。鎌倉の稲村ケ崎や化粧坂など南の方にも存在感を示しています。
で、太田という地名の由来は太田宿、江戸時代に日光例幣使街道(高崎線・高崎駅1つ前の倉賀野あたりから中山道と日光をつなぐ道として整備された)の宿場町として栄える。

しかし、何と言っても太田を群馬第三の都市に育てたのが、中島飛行機の創立者である中島知久平ちくへいである。
もと軍人であった中島は、群馬県新田郡尾島町(今の太田市)に民営の飛行機研究所を設立し、日本の軍需産業を支える。
のち政治家となるが、戦後、公職追放となり、中島飛行機も財閥解体により富士産業と改名。非軍需品の生産をせまられ、糊口を凌ぐため自動車の生産や修理・リヤカーや鍋や釜に乳母車などの金属産業にまで手を出す。
これが、のちの富士重工、現在の株式会社SUBARUスバルであった。

中島知久平と太田市のようす。
おそらく昔は、東西に伸びた日光例幣使街道に人家が集まり広大な田畑だったろう。
右の楕円形施設がスバルの車両テストコース。
スバルができることで労働者が集まり大きな町になった。

太田駅は、東武伊勢崎線で館林から、東武小泉線がショートカットですが、本数が少ない。東武伊勢崎線で北へ遠回りしても着けますが、群馬の細長い触手のため、館林を触手の先抜けるとしばらくずっと栃木です。(足利市駅を通り、太田市の「韮川駅」から群馬へ)
僕は足利市駅に降りて、渡良瀬川や足利の町を散策したい気持ちに駆られましたが、ちょっとでも太田を描いてココに記すためにスルーします。
(森高千里の渡良瀬橋の歌碑を見たかった…)
さあ、太田駅が見えてきました! やはりスバルがそびえ立ちます!!

左下は新田義貞像。
義貞公の館跡や新田荘歴史資料館のある世良田駅(伊勢崎線で3駅となり)は、
もうすでに時遅しのため行きません。
(自宅から3時間以上かかりました)
意を決して、太田駅周辺散歩に集中します!

駅周辺を散策。駅前の「スバル通り」は、シャッター街が多い。
スバル敷地内は「スバル町」という町名であり、この企業に関する施設が集中している。北口はあとは古くからある住宅街という感じ。
南口は、飲み屋関係が多く、労働者の憩いの町として発達したのだろう。
(南口は次の予定地への電車がギリギリで、眺め見た程度で撮影できてません、これを逃すと30分ぐらい待ちます。なのですべて北口の写真です。)
僕の目的は、町を散歩することと、「スバル町」と書かれた標識を探すのと、御当地お菓子の「スバル最中」を買うことです。
なので、御当地グルメの「太田焼きそば」は食べませんでした。

wikipediaより。統一したものでなく店によって様々だが、キャベツや豚肉以外にコンニャクやジャガイモなどが入り、目玉焼きや唐揚げなどがトッピングされるとか。富士宮焼きそばや横手焼きそばとともに有名のようです。
スバル最中と、スバル本社。

駅前をウロウロして、次の目的地へ。
スバル労働者により成立した、あの異質な町です!!

右上、太田宿の本陣(大名宿で宿場町の中心)の跡。
北口駅まわりは宿場町の名残りを残すためか、レトロな建物が並んでいます。

太田駅から東武小泉線で、大泉町の「西小泉」駅へ。ここは、自動車工場に働きに来た、ブラジル人たちの町でもあります。
最近、埼玉県川口市のクルド人と地元住民の軋轢が話題になっていますが、この町は1990年の入管法改正により労働力として期待され誘致された、ブラジルやペルーなど日系人などの受け入れを進め、人口の2割近くを占めるようになりました。
サンバのカーニバルでも賑わう大泉町は、日本におけるブラジル文化の発信地でもあるが、反面、日本人との「共生」の問題を挙げる声も多いようだ。
治安、教育、生活保護、ゴミなどなど…

電車の車両に入ると、もうブラジル人を見かけることができる。
駅を出ると、すぐにブラジル人向けの言語(ポルトガル語)や店などの施設がある。
左上は何らかの施設か。左下、日本のコンビニやファミレスなども見られ、ブラジル料理の店は普通の民家で、ブラっと来た観光客は入りづらい。
地元のスーパーで、「ブラジルのソウルフード(日本で言うと味噌汁)」の缶詰と、ジャンクフード(タラとチーズのコロッケらしきもの)を購入。
ブラジルも米食のようで、米とこのフェイジョンという豆や肉などを煮たシチュ―とともに食べるようだ。
あと、牛肉の種類が豊富だったり、ソーセージなど加工品も多かったが、僕は肉を控えているため買いません。

コミュ障なので、ブラジル人たちとラテンで陽気なハートフルなコミュニケーションはできません。
羽虫のように、ひっそりとブンブン飛んできただけです。
しかし、けっこう楽しかったです。

いつか川口市も散策したいところですが、最近のニュースを見ると恐怖を感じざるをえません。さまざまな事件どころか、暴動や反日本人の集会もあったようで…
大泉町は散歩するだけなら良いのですが、これから政府による「異文化共生」の強制と「無制限の受け入れと日本人より外国人の方を尊重する」実態を考えると、川口市のような場面ケースがこれから日本各地の日常風景になるのが怖いものです。

ということで、群馬の町の一端を描きました。何か得るものありましたでしょうか? 僕はまだグンマをほとんど知りませんが、これからいろんなテーマで観察できたらと思います。

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