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経済学批判

1、資本の生産過程
1)序文
カールマルクスは1867年頃から、資本論を出版し始めたとされる。
文章はとても読みづらい。
また、19世紀のロンドンの経済分析が、現代の日本にどれほど当てはまるのだろうか。
基本的な疑問が満載である。
私は編集形態においてマルクスの案を踏襲し、現代日本が抱えている資本主義の苦悩の本質を分析しようと試みた。
物理化学など自然科学は自然の現実を常に観察、観測しながら、そこから得られたデータを基に普遍的な理論を導出するものである。
科学的社会主義と言う立場があるならば、常に現実世界を自らの目で観察し、世界を自らの足で歩き、プロパガンダに惑わされない思考理論を組み立てねばならない。
科学においては新たな知見があり新たな謎の解明があれば常にその内容が更新されるべきものなのだ。
ニュートン力学もニュートンが書いたまま継承されるべきものではない。
ニュートンに敬意をもち彼の研究を歴史的になぞらえるのも一興ではあるが、物理学の進化は、彼が解決できなかった謎をひとつずつ解き明かし新たなページを書き加え、改訂していくことで輝きをさらに与えていく仕事でもある。
経済学も同様であろう。
現代日本の資本主義経済は独占資本化が進み、もはや行き詰まっている。
なんとかしなければこの国は滅びてしまう。
だから資本主義分析は単に趣味的に思考を遊ぶのではなく、実際に日本が直面している問題の本質を解明し、その解決への道筋を見出すことに現実的価値と目的があるのだ。
マルクス以降、さまざまな経済学が出現した。その全てを網羅するつもりはない。
まさに現代の日本が病んでいる、その経済病理を解明し、新たな提案に結び付けてこそ、経済学を思考する価値があると思う。
現代社会では経済と政治は切り離せない。
どちらも約束事と実行から成り立っている。
マルクス主義を経済思考の基本に据え、政策を提案する政治勢力を現代では一般に共産党と称するのであろう。
一方反共勢力と呼ばれる一群の者もある。しかし彼らに共通する現象は共産と言う用語の内容を全く理解していないように見えることだ。なぜなら彼らに
「共産主義のどこに反対なのですか。」
と問えばその答えは全く的外れなものしか返ってこないという特徴がある。
反共なのではなく共産の内容が理解できないだけである。彼らは決まって英米傀儡主義者でもある。民族主義者のふりをする者もあるが、日本には本当の意味での日本族と言う民族がなく、また多民族間の相互尊重や歴史的な交渉と相剋の蓄積も見当たらないから民族主義がそもそも育っていない。民族主義を装う者が反共を叫んでも、その多くは対米従属のカムフラージュのような浅薄な内容しか確認できない。
これは日本のマルクス主義研究の担い手が、その内容を現実的な例えと、人々に理解できることばで説明し、現実に即した政策立案をしてこなかったことの反映かもしれない。
また20世紀には独占資本主義、帝国主義が世界を覆った。英米覇権主義とも言う。これに対抗する思考としてマルクス主義を唱える共産党がロシアに登場して英米覇権と対峙した。
この構図から資本主義と対立する思考を共産主義と錯覚して認識する短絡化が起きてしまったのかもしれない。
これらの用語は定義を明示して述べるのが妥当だと思われる。定義を示さずに述べ合ったところで、意味はない。例えば、さしている事物が異なる概念によるものなのに同じ用語で言い合っても時間の無駄だ。
マルクス主義には大変誤解されている、あるいは理解されてもいない部分が大きいのだが、それを解きほぐして大衆理解に持ち込む勢力も見当たらない。そんなに小難しい思考が現実にあるわけではない。
現実は見た通りの現実である。
マルクス主義は資本主義を現実的、合理的に修正してゆくプログラムでもある。
そのために資本の本質を分析するのである。
マルクスは19世紀のロンドンを中心とした経済を分析した。
私はこの日本の置かれている、もはや衰退というより滅亡に近い独占資本主義の終末像を分析しなければならない。今や世界の製造業の中心は中国であり、マルクスの時代とは全く様変わりした。
この変遷に関しても述べなければならない。
私の著すものがこの国に暮らす者の生活向上に役立つ時代がくれば幸甚である。
2024年4月15日     今野哲夫

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