今野哲夫

伊豆市の内科、小児科開業医です。 物理学、化学、数学を中心に自分のオリジナル新説や考え…

今野哲夫

伊豆市の内科、小児科開業医です。 物理学、化学、数学を中心に自分のオリジナル新説や考えを書いています。 筆者へのご意見を是非お寄せください。

マガジン

  • 今野の新資本論

    19世紀半ば、マルクスはロンドンの資本主義を分析した。これは画期的な研究だった。しかし非常に難解な文章でもあった。またこの大研究が現代の東京に当てはまるものなのか。私は無関心ではいられない。21世紀の日本を見つめつつ資本主義のあり方と今後の行く末を考察してみたものである。

  • 高句麗地名考

    三国史記などに出てくる高句麗地名と日本語の関係について考える

  • 私の物理学

    実験設備がないので紙と鉛筆の世界。物理学の仮説集です。

  • 私の経済学

  • 私の物理学 基礎編

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  • 固定された記事

波と粒の二重性を解くモデルは面である

波は同時に同一座標を占める(干渉)ことができ、粒は同時に同一座標に存在しようとすれば衝突してしまいそれができない。この矛盾する特徴を同時に成り立たせるモデルが面である。(二次元現象) 面Aと面Bは交線(一次元)を共有できる。この交線はAとBの性質を併せ持つことができる。一方面と面は衝突(反発)もできる。おそらく面どうしが共存できる場合と反発する場合の違いというのは面のスピンの方向性と大きさの問題だろう。 面上の波動は当然足し算できる。 ガウスの法則型のモデルは半径rの地点での

    • 民主主義批判

      民主主義という用語は具体的には定義できない  民主主義:抽象概念としての用語、幻想、幻覚を利用する政治支配。  少なくとも私が日常観るこの国の現実社会には民主主義という思考は実在しない。その確たる定義もない。民主主義ということばとそれによって想起される個人個人のイメージが存在するだけだ。選挙となると突然演説の中で、「民主主義を守る」なんていうことばが飛び出す。実際には一体何を守っているのだろうか。それが具体的に示されたことはない。  古代から民主主義と翻訳されるような政治上

      • 経済学は流体物理学で近似説明可能だ。

        経済という人の世の現象も物理化学の法則と似たような法則に従う。ー唯物史観 ヒト、モノは現物である。現物を塩(溶質という)、カネを水(溶媒という)に例える。塩水を血液に例えよう。これが身体の血管を流れて塩という栄養成分を身体の隅々の細胞へ送り届ける場面をイメージをしよう。 塩(溶質)だけでは流れが起きない。それを水(溶媒)で溶かしてやれば、血管のような管を流れる。金融というのはうまい訳語だと思う。(カネという溶媒で物資や労働力を溶かして流れやすくする操作) 水が足りないと塩は溶

        • 産業別に労働ポテンシャルがあり、労働者の転業には不可逆的な方向性がある

          農業→工業→金融サービス業 つまり第一次産業→第二次産業→第三次産業 という方向に労働者は転業することはある。しかしこの逆方向の転業は実際には困難だ。 それは労働のきつさだったり全身的な熟練を要する専門職性において農業が筆頭となるからである。剰余労働の程度順という見方もできよう。 農業を行うのは簡単なことではない。 しかも単位時間あたりの収入が不当に低く抑えられている。 これでは農村から若者が都会へ出て行ってしまうのである。 ひとたび都会へ出た者が田舎へ帰ってきて農業を継ぐこ

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          26本
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          25本
        • 私の医学
          5本

        記事

          剰余労働依存から社会主義へ

          剰余労働とは規定の労働によって生産可能な量を超えたより多くの生産を行うための労働である。超過分の労働は超過分の価値を産む。 これが資本主義的生産の利潤となる。 昔は労働者が肉体を使い、長時間作業をして生産を上げた。 現代では自動化が進化して無人化も進んでいる。従って昔ほどは大勢の労働者は必要なくなり、長時間労働も求められなくなった。 今や企業にとって必要なのは先進的な設備投資の方である。現代の工場の設備は複雑である。ロボット、人工知能が利用されている。 危険な作業もロボットが

          剰余労働依存から社会主義へ

          労働者の日によせて

          2024年4月26日、日銀総裁は記者会見で国債をどのような速度で買うか、米国債をどうするのか、政策金利をどうするのか、どうすれば円/ドル為替レートの下落を止められるのか、明確な答えを出せなかった。 つまり、金融市場の国家レベルの操作は不能になったのだ。 かくして日本の独占資本主義経済は終わった。 独占資本へと一方的に資金を流して集中させるしくみは壊れたのだ。 これは一体どういうことなのだろうか。 建前上、日銀は通貨(円)の価値をコントロールしていた。 通貨が価値を持つためには

          労働者の日によせて

          社会主義をひと言で定義するとすれば、剰余価値に依存しない経済体制ということだろう。 それは資本を必要なところへ必要なだけまわすという計画的、政策的なシステムを必要とする。 共産主義をひと言で定義するならば、剰余価値=0の状態だと言えよう。

          社会主義をひと言で定義するとすれば、剰余価値に依存しない経済体制ということだろう。 それは資本を必要なところへ必要なだけまわすという計画的、政策的なシステムを必要とする。 共産主義をひと言で定義するならば、剰余価値=0の状態だと言えよう。

          マルクス資本論の概略

          若い頃欧州を転々とし政治的に共産主義運動をしていたマルクスは31歳ころイギリスにわたり32歳~40歳ころまでに経済学批判著した。さらに1866年、48歳ころ彼の経済学理論を資本論としてまとめて編集され、第一巻が出版された。 そのあらましは以下のようなものである。 物Aと物Bが取引される場合、AとBは同一物ということはほぼ考えられない。取引というのはAとBとの使用目的が異なるから行われることである。 この時Aを作るのに必要とした労働力とBを作るのに必要とした労働力が均衡してい

          マルクス資本論の概略

          資本主義とは

          資本主義を論ずる前に資本主義とは何かをまず考えておきたい。 1.資本主義の基本 資本主義は一般的には資本家と労働者が別々であって、資本家が労働者に賃金払って働いてもらい、製品を造り、それを売って稼ぐ生産形態のことをさす。 つまり生産のための組織が資本によって造られている経済体制とされる。(現代ではそんなこと当たり前だ) では資本家が個人経営で、自分で仕事して自分で売ればどうなのか? 中小企業では必ずしも資本家と労働者は分離できるものでもない。 では資本主義ではないと通念的

          資本主義とは

          商品と通貨1

          商品生産における労働価値には質的な価値と量的な価値がある。 質的な価値とはその労働の専門性などの様々レベルを含む。 量的価値はどれだけそれを生産したかということである。 商品の価値はそれ単独で評価することはできないから、それとは異なる他の製品と比較して表現することになる。 現代の市場では物々交換ということは、ほぼないだろうからその交換価値を表示する役割を果たすものが通貨ということになる。 私は通貨(カネ)を「約束事を数値で表現するための証文」と定義したい。通貨に表示されている

          商品と通貨1

          資本の生産過程 

          商品 マルクスは資本主義的生産社会では社会の富は巨大な商品の集合の形をとると言う。 ここでは商品価値について述べる。 商品価値と言うのは相対的なものである。 ある物と別のある物を比べて、どちらがどれだけの交換比率を持つか、というように考えるものである。 価値とは物と物あるいは物と通貨の交換関係により定義されるスカラー値である。スカラーとは数量である。 物の価値というのには需給バランスによって決まるもので、その依存性において分類ができる。 1.希少価値、基準価値:供給量依存価値

          資本の生産過程 

          経済学批判

          1、資本の生産過程 1)序文 カールマルクスは1867年頃から、資本論を出版し始めたとされる。 文章はとても読みづらい。 また、19世紀のロンドンの経済分析が、現代の日本にどれほど当てはまるのだろうか。 基本的な疑問が満載である。 私は編集形態においてマルクスの案を踏襲し、現代日本が抱えている資本主義の苦悩の本質を分析しようと試みた。 物理化学など自然科学は自然の現実を常に観察、観測しながら、そこから得られたデータを基に普遍的な理論を導出するものである。 科学的社会主義と言う

          経済学批判

          邪馬台国の所在

          これは長年議論のある話題なのであまり書く気もないのだが一応私見を述べておく。 魏志倭人伝の記述を当て嵌めれば、築後川と矢部川に挟まれた八女市から柳川市あたりの領域を邪馬台国に比定するのがピッタリしていると思う。 その南にあるとされた狗奴国は菊池川下流の平野領域のことではないだろうか。 女王国の範囲というのは築後川や矢部川流域に広がっていた諸地域のことだろう。 投馬国は八女市の北にある三潴に比定したい。 先住民と渡来系住民が共存していた印象が倭人伝から読み取れる。 農耕を豊かに

          邪馬台国の所在

          漢字による音写に関するひとつの考え方

          漢字による音写に関するひとつの考え方 日本を含め古代中国周辺民族の歴史を考える時、中国文献は非常に重要だ。しかし、その周辺民族の手による文書資料は極めて乏しい。中国周辺各民族が固有の文字を書き残すようになったのは9〜10世紀以降のことだ。 それ以前の古代史に関しては中国の文献資料に依存する。 問題は地名、人名、民族部族などの固有名などだ。また歌を音写した資料もあるが解読に苦慮する。 それらは漢字の音を借りて表記してある。しかし発音記号ではないからどう読むのかはかなり問題だ。

          漢字による音写に関するひとつの考え方

          電子を左巻き運動量をもつN単極子というのも、右巻き運動量をもつS単極子というのも同値のようである。

          電子を左巻き運動量をもつN単極子というのも、右巻き運動量をもつS単極子というのも同値のようである。

          アンペールの法則を簡単に言えば 「仮に右巻き運動量が接近してくれば空間は左巻き運動量で中和しようとし、右巻き運動量が遠ざかれば空間は右巻き運動でまた中和しようとする。」 電子を右巻きと言うか左巻きというかは人間の定義のし方による。

          アンペールの法則を簡単に言えば 「仮に右巻き運動量が接近してくれば空間は左巻き運動量で中和しようとし、右巻き運動量が遠ざかれば空間は右巻き運動でまた中和しようとする。」 電子を右巻きと言うか左巻きというかは人間の定義のし方による。