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時間しか撮れないのがカメラなのか?

SIGMA fpとLEICA summilux-M 35mm f1.4 2ndにて、ひたすら波を撮る。
ただ撮るのではなく、波の移ろいを時間的表現を変えて捉えてみる。
現代のカメラであれば、長時間露光撮影も簡単になり、(葛飾北斎のような超人ではない)人間の目では追いきれない瞬間を切り取ることも可能である。
こうしてみると、改めて写真とは時間を意識的に操作し、一枚の写真にしてしまう機械なのだと思うのである。
だがその時間の意識的な操作も、ある法則により拘束されているという話をしてみたい。


時間とは過去から現在に至り、そしておそらく未来へと進んでいく。
この一方通行の時間的感覚の中に生きる我々は、だからこそ写真を必要としている。
いずれ過去になる現在を、未来の過去のために写真にするのだ。
写真は記録である。入学式に写真を撮るのは、それを忘れないためではなく、未来の自分や未だ見ぬ子孫のために残しておきたいという気持ちが強いからであろう。
現在を記録することで、この現在は確固たる過去として未来でも確認できる。


現在を時間的拘束下に置き、記録という名で閉じ込めてしまうのだ。
こうした現在の記録は、過去ー現在ー未来という時間感覚があるからこそ成立する。
しかし「ピダハン」で示されたとおり、この時間感覚は数ある時間感覚の一つでしか無い。
たしかに物理学等でいわれる時間の存在(最近は時間が存在しない?)は数式によって示されるが、それも時間感覚の一つでしか無い。
アマゾンの奥地に住むピダハンという少数民族は、閉鎖的だが狩猟採集生活でも十分やっていけるほどの豊かな環境に暮らすことで「将来を悲観する」という感覚がない。要するに我々のような過去ー現在ー未来という時間感覚ではないのだ。よってうつ病もない。
農耕を教えても有用性を理解できず、物を与えても所有の概念が無いので子供が川に投げ捨てようが気にしない。


ピダハンは写真を必要とするのだろうか?
ピダハン的時間感覚において、写真という技術は発明されることはなかったであろう。
なぜなら彼らの時間感覚はいまその時だけが「時間」であり、死者やあったことのない人間について言及することすら無いのだ。
※ピダハンの著者はキリスト教の伝道師であるのだが、イエスに会ったこともないのに布教活動をしている著者をピダハンがからかう場面がある。
仏教的な輪廻転生や、中国の列伝体の記録方式のように、過去ー現在ー未来という一神教的な時間感覚ではない世界は多様にあったのだ。
引用元:時間の比較社会学


では写真自体の持つ時間感覚は?
ロバート・キャパの撃たれる兵士やアンリ・カルティエ・ブレッソンの決定的瞬間のような、「その現在」を撮ったという事実に価値を見出すことがある。
動物写真や報道写真やスポーツ写真も同じことが言える。
それはその瞬間にそこで撮影者が出くわし、ちょっとピンボケしようがしまいがとにかくシャッターボタンを押したという事実こそが価値となっている。
写真の持つ時間感覚は、まさにその時撮影者がそこにおり、かつ偶然でも良いのでその決定的瞬間を逃さなかったという事実が価値とみなされる。
だからこそ、絶景や鉄道や桜や紅葉にカメラマンは集まるのである。
瞳AFや高速連写の技術がフラッグシップ機にこれでもかと搭載されることこそ、カメラの有用性と価値を表している。写真とは、記録であり、時間の中に価値を見出すものなのだ。
ここに表現方法としての長時間露光撮影や高速シャッターのような技術も加わる。
こうしてみると、写真とは「ある時間を記録するためにあるもの」であり、そこを土台として商業的な価値や表現方法が派生しているように思える。


今回の写真は、同じ景観で時間を操作しながら撮り続けた。
あるときは5秒、あるときは数百分の一秒で。
結局、写真は過去ー現在ー未来という時間感覚でしか表現できないものだと痛感した。
写真は収斂されていく時間感覚により強制されている。
ピダハンの時間感覚を写真で表現するには、どうしたらよいのだろうか?
だが、ある程度の法則の中に押し込められているからこそ、これほどの人たちに愛されているのも写真なのだ。
完全に無軌道の自由空間に放り出されると、人はアイデンティティを失ってしまう。
写真の持つ時間の絶対性は、決められたルールの中で試行錯誤を促すスポーツのようなものなのかもしれない。
だからこそ、大衆に選ばれ、人々のライフスタイルに食い込んでいる。
まあこんなあたり前のことなんか、ジャン=ウジェーヌ・アジェ辺りからは自覚されていたのだろう。
だからこそ、写真は窮屈で、そして面白いのだ。

ピダハンにカメラを渡したら何というのだろうか?


サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・