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散歩カメラ Leica M Monochrom(typ246)
ライカの正しい使い方、それは散歩カメラである。
小難しいレンジファインダーのピント合わせ、手に馴染むけどズッシリくる質感、もちろんマニュアルフォーカス、いつもの見慣れた景色ですら「写真」となってやってくる。
個人的にはライカが特別なのではなく、レンジファインダーがそうさせると思っている。
経済合理性と身体性を極力排除することが是とされる現代において、これほど無駄の多い行為というのはなかなかない。
カメラを持って散歩に行こう
急な休みの日、昔ならほうぼう出かけていたが年齢的な達観なのか、特段やる気がわかない。
そもそも休みの日の過ごし方は、スターリン時代からさほど変わっておらず、イデオロギーの垣根を超えた生産性向上のための休養と供給を凌駕するためだけの消費を無理矢理強いられている状況である。
このままでよいのか?
そんな浅知恵遊戯をしている時間はもったいない。
かといって無為に虚無的消費行動に走るのは生来天邪鬼な僕にと
一旦写真とは何かを整理しよう
昨今、写真界隈が荒れている・・・ように感じる。
写真界隈とは、プロ・アマ問わず、主にカメラを使って写真を撮っている人間が属しているとされる架空の空間である。
写真とはなにかを語ることが最早不可能なくらい写真の定義は広がり、深度は増し、細い抜け道がいくらでもある。
故に写真界隈は大航海時代の体である。
例えばライカが荒れるのはなぜか?
それは各々が根ざしている写真界隈の一角からライカを見ているがため
このご時世、不便すぎるフィルムカメラで写真を撮ることの意味とは?
ライカM3、もう半世紀以上前のカメラだ。
スマホ世代には意味がわからないだろうが、フィルムカメラでただ景色を撮ることはかなり面倒である。
まずフィルムを入れる。そのフィルムのISOとやらを念頭に置き、景色の光量を鑑み、シャッタースピードとレンズの絞りを調整してシャッターボタンを押す。
もちろんピント合わせはマニュアルフォーカス、全部自分で行うこととなる。
そして撮れた写真がこれだ。
ざらっざらで
「モノクローム考」 Leica M Monochrom(typ246)で廃校を撮る。
モノクローム専用カメラだからって、モノクロームに合う景色を求めがちになるのは、こりゃあ人間の業というものじゃよ。
ジブリキャラっぽいセリフのままに、モノクロームらしい景色を求めてヤックルと共にアシタカせっ記。
モノクロームしか撮れない糞変態カメラは、撮るものをそれはそれはよく選ぶのである。
もちろん何を撮っても良い。
しかし、カラーの失せた暗い写真を見ると、それは間違いであったと気づくのである。
SIGMA fpを買って3年経ったのでレビュー「いつも傍らには君がいる」
SIGMA fpを迎えて3年目の今年、それでもfpへの愛は深まるばかり。
というか、黒澤明でいう橋本忍、深作欣二でいう菅原文太、天山広吉でいう小島聡のような関係になったと思う。
fpのコンセプトが「あなた色に染めて」であるという確信に至ったのはつい最近であり、昭和の演歌の謳う悲哀の先にある真実の愛、これぞfpなのである。
冬の日本海、遠い想い人を慕う明け方のスナックのママの涙、これぞfpなのである
紅葉を撮りにPENTAX 645DとSIGMA fp携えて〜「撮らされる写真」
紅葉を撮りに行こうよう、桜や紅葉は以前書いた通り「撮らされる写真」であり、正直好きではない。
なぜならあるシーズンしか機会がなく、しかし毎年恒例であり、歴史的文化的価値を含み、そして大挙して人々が押し寄せ大量の写真データで埋め尽くされる景観、それが「撮らされる写真」である。
だがしかししかし、運よく撮れた平日有給、これは行かずにはおれないのが写真趣味者の哀しき性。気づけば島根県出雲市は鰐淵寺に舞い
写真と唯物史観とこれからの写真
図書館で借りてきた美術手帖(2020年10月号)に面白い記事が書いてあった。
白井聡氏の「アートと資本主義の関係」である。
何でもかんでも商品化されてしまう現代においてのアートとは?というスタンスでの資本主義批判である。
シンプルに労働意欲皆無が故に反資本主義の立場である僕は、しかしカメラという資本主義の権化ともいうべき趣味性の高い不要不急の商品を愛でている。要するに典型的な現代大衆である。
白井