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快楽主義|エピクロス【君のための哲学#4】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。


快楽主義


エピクロス(紀元前341年 – 紀元前270年)は「快楽」を前提にして理想の生について考えた。彼は「人生における行為は、すべて快楽を追求するために行われるべきだ」と主張した。しかしこの主張は、気持ちの良いことだけを追求しよう・欲望を満たそうという刹那的な生き方を推奨するものではない。むしろ、エピクロスは肉体的な快楽を(その後にもっと大きな苦痛がやってくるという意味で)苦痛であると考え、快楽と苦痛を差し引いた際の快楽の総量を最大化する生き方を推奨した。
エピクロスは徹底した唯物論者である。彼は2000年以上も前に原子論的なロジックに辿り着き、それを信奉していた。彼の唯物論的な性向は死に対する解釈によく現れている。
エピクロスは「死を恐れる必要はない」と言う。死が存在するとき。つまり、実際に死んでしまったら私たちは何も感じない。無である。そのとき、死に対してなんらかの恐怖を感じることも苦痛を感じることもない。逆に、生きているときは死んでいない。死は存在していない。私たちは原理的に自分の死を認知することはないのである。だから、死を怖がるのは道理から外れている。
エピクロスは、上に挙げた死についての話のように、必要のないことで心の平静を乱すことを徹底的に否定した。精神的快楽を最大化するためには「心の平静(アタラクシア)」が必要なのだ。


君のための「快楽主義」

では、どのように「心の平静(アタラクシア)」を実現すれば良いのか。
エピクロスは以下のように人間の欲求を分類する。

①自然で必要な欲求
→衣食住、健康、友情

②自然だが不必要な欲求
→豪華な食事、大豪邸

③自然でも必要でもない欲求
→富、名声、権力

彼は①以外の欲求の実現を否定する。確かに②や③の欲求を実現すれば大きな快楽を得られるだろう。しかし、その快楽には必ず反動が付きまとう。それによる精神的な負担は、むしろ「心の平静」とは真逆にあるものなのだ。真に快楽を追求したとき、採用すべきは①の実現のみである。
エピクロスは、彼が考える理想の生を実現するための施設(庭園)をつくり、そこで彼の信奉者たちと慎ましい生活をおこなった。この生活はとても閉鎖的で非政治的なものだったので(そもそも彼は「隠れて生きよ」と言い、政治への参加を否定した)同時代の哲学学派であるストア派から強い批判を受けた。
とは言え、エピクロスとストア派の思想には「必要最小限の生活を送る」という共通点がある。しかし、両者は根本の部分でその目的意識を異にしている。ストア派の論者は「人生の目的は徳の達成で、幸福はそのおまけ」とするが、エピクロスは「幸福こそが人生の最大目的である」と考える。
私たちは自分の人生において、何を目指せば良いのだろうか。何を目指して良いのだろうか。
エピクロスは「自分のために、ただただ自分の幸せのために生きてよい」という。私たちの人生は他の誰かの人生ではない。
ともすれば「わがまま」とされ、後ろめたいと感じてしまう幸福追求の欲求を、エピクロスは堂々と提示してくれるのである。

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