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幸せと信じる先に

(引用画像:東京夜景ナビ)

成功とは一体何なんだろう?

私は自分でもよく分からないが、やたら顔が広いとよく言われる。
そのお陰か、知人、友人を繋いで事業、仕事になったり色々である。

私個人に振られた仕事でも、場所などの物理的条件から知人にそのままお願いする事もある。それが億単位の仕事でも。

金というものに頓着が無いからか、手数料なども個人として貰った事は無い。

あとはよろしく~

法人として請負い、下請けに出すなら、幾らかでも手数料をいただかないといけないのだが。

基本的に金に興味はない。
新たな価値を生み出す事になら興味はある。
もしそこに金が必要ならば、それぐらいかな。

唸るほど儲けて、莫大な資産を築いて、地位、名声を得て、その先に何があるの?
夢は叶えた瞬間から次の時間が流れ始める。何かを手に入れても「こんなものか」と感じたり。

人の欲望は果てしない。

その先には何かあるはず。自分を満たしてくれるものが。

けど、そこには何もない。

人が皆抱える「さみしさ」

本当に欲していたものは何だったのだろう?そこに行き着く人は多くない気もする。亡くなる前に気づいたならいい方かもしれない。(若い頃から色んな方々にお世話になったのだが)

人は孤独な生き物と言えるのかもしれない。結局のところ「さみしさ」を紛らわすための手段でしかないのかもしれない。金儲けでも名声を得るでも何でも。何かで飾らないと満たされない。だがそれも心の底から満たされているわけでもない。

「さみしさ」を紛らわす手段。

実は非常に多種多様である。金はあるぞと豪奢に遊ぶ。異性を囲う、買う。ところが、このような御仁も心が満たされて落ち着いているようなものが感じられない。

地位、名声、名誉のある方ならば違う方策を取るだろう。立ち居振る舞いから特別な人間である事を装う。必ずしもとも言いきれないが、そのように振る舞わないと自信が持てない。立場と心のギャップを埋めることができない。そんな方なら高慢に映ることもあるだろう。
だが人が相応の泰然とした心境に至るのはいささか難しい。

マウントを取る。なども自信の無さ。満たされない心が現れる行動と言えるだろう。

生い立ち、家庭環境などの理由からグレてしまった子供たちも実は根っこは同じである。
頼るべき親から、DV、育児放棄、浮気等の理由で敬遠されてきた子供たち。それが「さみしさ」のあまりに「俺を!私を見て!!」という心理が暴走行為の根源にある。

放っておけば、やがて黒い大人として成長してしまうのも自明なのかもしれない。社会悪ですら「さみしさ」を紛らわせる手段なのである。
「ゴルァ!!」とばかりに恫喝する人。それもまた「さみしさの発露」なのである。
(数年ばかり、そのような人達が更生するための支援をしていた)

どうだろう。まるで社会の対極にあるような人達が行う行動原理。実は根源は全く同じなのだ。

地位、名誉、財産のある人であれば、階層の違う人達を、ある種蔑んだ目で見るかもしれない。しかし、それは「生まれの幸運」であって大半が努力の結果ではない。この点についてはマイケル・サンデルが著書の中で言及している※1。

蔑みの目で見られる人達とて、立派な感情を持った人間なのである。逆に自分達の姿はどう映っているのだろう?少し考えてみるのが良いかもしれない。

まして、まるで違う行動、生活様式に思えたものの根源は全く同じであるなら、他人事と捨ておくことも出来ないなのではなかろうか。

人は儚く、さみしい存在。

さみしさを埋めるもの。こころを満たすもの。それを壮大な夢の先に求める人。夢を現実の目標として邁進する事自体は素晴らしいものである。ただ、その原動力が単なる欲望に突き動かされているなら、それは早晩長くは続かないだろう。
全ては...うたかたの夢...

「さみしさ」から心を満たすもの

あらゆる自らを飾る要素を取り除いて、自らが本当に欲するものは何だろうか?
考えてみたことはあるだろうか?

社会を構成するシステムの中に身を置いていると、周囲への対応に追われてそんな事をいちいち考えられない。それも一理ある。

ただ、一つ考えて欲しい。
私達は一人一人が立派な感情を持った人間である事を。

社会的地位、或いは職能などから、「人物の価値」を推し量るものとして金銭での対価で表現される。だが、人の命の重さを金銭を指標として全てを肯定する事は果たして人間的に正しいものなのだろうか?

このような観点も含めて共産主義は生まれたとも言えるが、構造的な腐敗を生み、結果として富と不幸も平等に民衆に配分する仕組みとなったのは滑稽であり、歴史上で行われた壮大な実験は失敗に終わったと断言できる。

幸せとは何か?
これは個人個人が考える価値観に拠るところも大きいので一概には言いにくいところもある。ただ、現代的な「成功」が必ずしも人の心を満たすものでないとしたら、考える余地は大いにある。

案外と身近なところにあった。「青い鳥」のようではあるし、ゲーテの「ファウスト」では、悪魔メフィストとの契約のもと、あらゆる人生を体験し表面的な幸福は享受したものの、最期の場面で亡くなった妻に天に導かれる。
全ては内なる宇宙に存在したのだ。
およそ200年前、ゲーテによって20代から死の直前にまで渡って書かれた大作。そこに現代人を重ね合わせてみると、まるでメフィストに操られ無限の欲望を追い求めているように映るのは、何とも滑稽である。

ここまで、何か満たされない心、こころのさみしさ、に焦点を当ててみた。
ではそれを埋めることはできるのだろうか?

金銭欲、物欲、享楽的な性欲では決して満たされない。それらを謳歌している人達の心はとても乾いているのだから。

大きな成功を追い求め、身近にある貴重な宝物が視野に全く入っていない。そんな事はないだろうか?

本当にこころを満たすものは、限りない欲望の先には存在しない。探し求めながら自らを虚飾し続けねばならない。
まるで砂漠の中に金鉱脈があると聞いて、目もくれずに砂漠の中に入っていく人のようである。

虚飾を捨て去り、それでもなお身近にある「こころを満たしてくれるもの」
生涯をかけた大作でゲーテが伝えたかったのは、まさにこの事ではないだろうか?

もし、それを見つけられた人がいたなら
とても幸せな人生を送る人なのかもしれない。

私は?ささやかながら、見つけられたかもしれない。

2024年2月14日 奥津哲雄

※1
「人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。いったいなぜ、成功者が社会の恵ま恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか? その問いに答えるためには、われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。」

運も実力のうち 能力主義は正義か?
     マイケル・サンデル 著

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