孔雀の雄はなぜ美しいのか?

 記事の中で、オカマやオネエやホモなどの言葉を使っています。この言葉に不快な気持ちを持つ人はご注意ください。





 不思議だな、なんでやろ?と思っていたことのひとつに、動物には雄のほうが派手な姿をしている種がいること。
 孔雀が雄だと初めて知ったとき、わたしは孔雀の雄はオカマなのかと思いました。どう見ても男性だけど派手な女装をしてにこやかに踊っているオネエの人たちとイメージがかぶってしまったのです。ちょうど、当時はホモスナックと呼ばれるところでバイトをしていた時期だったので。

 あの派手な身なりは、雌に対する性的なアピールであるのは間違いないようです。
 そこで、男性だって孔雀みたいに、女性と同じような派手なおしゃれをしていいんだという根拠にされたりしますが、わたしはどうも釈然としないまま、今に至っていました。
 最近、YouTube動画のゆっくり解説を見て「なるほど」と思いました。

 それによると、孔雀の雄が派手なほど雌から魅力的であるのは、派手な孔雀ほど個体として優秀である、つまりは「強い」からだということでした。
 派手だと目立つ、動きにくい、当然、敵に狙われやく、生活するうえでも無駄なエルギーを消費する。従って、自然界では生き残りが困難になる。それでも華美な羽を広げている雄は、自然淘汰をたくましく或いはしたたかに生き延びられる優秀な個体だということになる。
 これは仮説のひとつらしく、ほんとうにそうかはまだわかっていないそうです。

 もし、この説が正しいとすると、孔雀の雄は、人の感じる「美しさ」ではなく、「強さ」を、あの羽の形と色によって、雌に示しているのかもしれません。
 男性にとって魅力的な女性の身体のスリーサイズのプロポーション(割合、比率)は人類男性共通らしいですが、あれはあれで、美を通して、多産な母体になるという「強さ」を示していると言えるかもしれません。
 その「強さ」が、男性の脳に入ると、女性の性的魅力として解釈されるのかもしれません。

 では、美とは強さのか?強さが美しいのか?

 わたしは美のことを考えると、いつも、悪について思いを巡らすことを避けられません。なぜ、道徳的な悪が、悪であればあるほど美しく見えるのか。
 美はいたるところにある。
 汚いものが必ずしも汚いとは限らず、美しく見えることもある。
 弱さ、怯懦、さらに卑劣ですら、それが美しく見えることもある。残虐や冷酷が美には欠かせないのかもしれないと錯覚したことも何度もあります。

 このような美と道徳、美と強さ、美と清廉との対立と混在と混乱が、近代になって、小説という形式によって芸術を作ろうとした人間たちの疑問であり悩みでした。
 この入り組んだ疑問と悩みは、これまでの正統な芸術の形式、絵画や彫刻や音楽や定型詩や物語といったものでは解消できない。

 わたしも、やはり若いというよりやっと性に目覚めた少年になった頃からこの疑問に悩み、やがてよせばいいのに、苦しまぎれに下手な小説を書き始めました。
 ジャイアンみたいに下手というより有害な歌を歌っていると、自分でも気が滅入ってくるのではないでしょうか?それで、ジャイアンは何かというと無理やり人を集めてリサイタルをやる。そして、不満を隠した子供たちの拍手を浴びて、よけいに惨めになってのび太やスネ夫を殴っている。
 わたしも人に読ませるにはあまりに下手な小説を書いていると自己嫌悪がひどくなり、ほどなくして、やめてしまいました。

 けれども、悪と美に関する疑問は今でも消えていません。
 また、苦しまぎれに妙な小説を書き始めるかもしれません。そして、やはりまた、自己嫌悪に苦しむのかもしれません。

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