潜水艦の中で民主主義について考へた

 新幹線って高いなと思ひました。
 飛行機に乗ったはうが安かったかも。


 といふ話ではなくて、広島県の呉市にある海軍史料館館に行って、展示してある実物の潜水艦の中で、民主主義のことを考へてしまったといふ話です。

 民主主義については、わたしは、貶める方向で語るので(賞賛する人は他にいっぱいゐるだらうから)、不快な人は、気をつけてください。






 本物の潜水艦の中に入れる。
 さう聞いて呉市に行きました。

 

 中に入ると、先ず、乗員の部屋の一部を見ることができます。三段ベッドがあります。このベッドは三段ベッドが地震か何かで押しつぶされたんぢゃないかと思ふくらゐ、縦の寸法が、狭い。その三段ベッドが奥にある部屋も、その部屋を与へられた三人の男が立ったらもう身動きできそうもないくらゐ、狭い。

 通路を進むと、士官室といふ表示がありました。さっきの三段ベッドを見た後では「広々としてる」と思ってしまふ三人部屋でした。
 もちろん、学校や会社から寮としてこんな部屋を与へられたら、憲法で保障されてゐる人権が無視されたと訴へて裁判にできると思ひます。

 その斜め前に、艦長室がありました。
 ここで初めて「部屋」と呼べるドアを見ました。
 乗員の「部屋」も士官の「部屋」もドアがありません。

 部屋の奥に寝台があります。
 その前には小さくて狭いですが、机があり、椅子が添へてありました。
 奥の寝台の上の壁には、ソナーらしい計器盤をはじめいくつかの精密機器が架けてあります。
 艦長は個室を持ってゐるとはいへ、そこで仕事のことは忘れて休むといふわけではなかったやうです。個室に潜水艦の中や外の状況一切をすべて持ち込んで、そこで睡眠をとったり食事をしたりするやうです。

 史料館のホームページには、次のやうに書かれてゐます。

・・・・・・・・・
 生活の一部が見学でき、潜航中の環境や生活を疑似体験できるほか、潜水艦の構造を実際に見て、体感する貴重な体験ができます。
・・・・・・・・

 わたしは、物理的な「潜水艦の構造」だけでなく、潜水艦内の社会の構造を体感したやうな気がしました。

 つねづね思ってゐたこと。
 それは、「民主的でなければならない」と教へられたものの、民主的な生活といふものが、実際の社会でどれくらゐ、あるのかといふことです。
 民主的とは、
みんなで話し合って決めること
と教はりました。

 誰か一人や、少数の集団が、他の多数の人たちの意見を聞かず、
勝手にものごとを決めてしまふ
あるひは、他の人たちの意見も聞かず、
頭ごなしに指図するのは、独裁である。

みんなの話し合ひで決めなければ、それは民主主義ではない、と習ひました。誰ひとり除外されず全員、「みんな」で、とことん話し合って決めるのが直接民主主義。
 ところが、「みんな」の数が多いと、全員が集まる場所すら確保できない。だから、代表を決めて、その人たちに代議(他人に代はって合議)してもらふ。もちろん、代表を決めるときは、「みんな」で決める。
 ただし、代表を決めるとなると、誰を代表とするのかに関して「みんな全員意見が一致する」といふことは難しい。だから、投票する。
 たくさん票を得た人を、「みんな代表」とする。
 そんな代表が代議士となって日本各地から国会に集まって、主権者の国民の「みんな」に代はって、合議する。
 これが日本の政治の民主主義、つまり間接民主主義だと習ひました。

 日本では、民主主義といふと、たいていは間接民主主義、代議士制のことだと習ひました。
 代議士は「みんな」の意見を言ふだけど、自分の意見はありません。もし、代議士その人の意見を言ふとしたら、それは民主主義に反します。


 さて、潜水艦の話に戻りますが、
艦長に選出される方法は民主主義かもしれませんが、艦長が乗り込んだ潜水艦の中の社会構造は、民主主義ではありません。
 艦長は、乗組員みんなの意見を代表して采配を振るふわけではないからです。総理大臣は国民みんなの意見を無視して勝手なことはできません。やれば独裁といふことになります。
 潜水艦の中の社会構造は、極端に言へば、王制だらうと思ひます。

 王様の艦長が一人ゐて、貴族の士官が三人、他の多数の乗員は、指示されたとほりに動きます。
 潜水艦内でのすべての指示の淵源は、艦長です。

 「そんなことはできません」と乗員が言っても、「これは艦長命令だ」と言はれたら逆らへない。
 戦前の日本では、上官の命令は、ずっと源を辿ると、大元帥の天皇陛下の命令といふことになり、天皇陛下のご命令には誰も逆らへないといふ構造になってゐた。それで、軍人は部下に威張り放題。

 どうして、そんな艦長みたいなものを頭に据へて、命令系統を造り出すのでせうか?
 潜水艦の中にゐると、その答へはすぐ出ました。
 敵と遭遇して、そのときに、乗員みんなで話し合ってゐたら、やられてしまふ。
 「魚雷がこちらにむかってゐます」
とソナー係が告げたら、
 「艦長、どうしたらいいですか?」
と、士官も含めて、乗員はみんな思ふでせう。
 艦長を無視して、乗員がひとりひとり一生懸命に考へたら、艦長なんかの判断より、もっと良いアイデアが出るかもしれない。残念なことに、合議して、まとめる時間が無い。もうすぐ着弾。
 「あの時、かうすりゃよかったのに」といふ後知恵の陳列は、歴史家にまかせて、乗員たちは、艦長の命令に従ふ。

 艦長には権威があります。
 権威。
 これも、民主的でない。

 権威があるとしたら、主権を持つ国民ひとりひとり、みんなに等しくある、とするのが民主的でせうね。

 誰かひとり、潜水艦なら艦長に権威がある。
 これは民主主義を無視した態度です。

 権威はなぜ必要か?
 艦長には権力があるのですが、権力をふりかざすだけでは、ヒトは動かないからです。
 権力だけで動かせるのは、奴隷だけです。

 ヒトは、自らの意志で動きたい。

 民主主義のメッカといへば、古代ギリシアですが、民主制のもとでも、権威は必要だった。
 
 いや、正確には、「市民を主権者とする民主制のもとでは」、といふべきでせう。

 その権威はどこから来たか?
 誰か一人の人間に権威を与へると、民主主義と矛盾するのは古代ギリシア人もわかってゐた。
 だから、デルフォイの神託、に権威を求めた。

 この権威があればこそ、古代ギリシアの民主制は機能したのです。


 日本といふ・アメリカン民主主義教の社会で、いまだに天皇制といふものを残してゐるのは、なにか権威が欲しいといふ未練によるものだと思ひます。
 なんで天皇に敬語を使ふのですか?
 サヨク系のマスコミは、天皇家の人々に対する尊敬語・謙譲語をじわじわと減らしていっていますが、同じ人間に、天皇や貴族に対して使ってゐた階級言語を使ふのがおかしいことは、民主主義の国では当然です。

 陛下がお出でになられた。→天皇が来ました。
 陛下にお返事いたしました。→天皇に返事をしました。

 丁寧語への転換が、民主的です。

 尊敬語や謙譲語は、封建的です。
 すくなくとも、宮廷社会的です。
 みやびな存在がなければ、こちらから上に見たり、あちらから見て自分は下だと思ったりして、文体を使ひ分けたりしない。

 権威とは、上下関係を内包してゐます。
 何であれ、権威を求める人は、民主的でなくなってゐます。

 民主主義もけっこうですが、日本を民主化するとか、そんな大きな話にしてほしくないです。
 それは、日本をイスラム化して、だれもがアラーの慈悲に感謝して生きる社会にしたいと願ふのと同じです。

 民主主義を信奉してゐる人は、ちょっとカルト信者的になってゐます。
 民主主義をけなす人を見ると、カッとなる。
 悲しくなる、哀れになる。
 民主主義がどんなに素晴らしく、わたしたちがかうして幸福で安全に暮らせるのも、民主主義のおかげなのに。
 と嘆いてゐるのが、民主カルト信者です。
 わたしも含めて、戦後の属国日本に生きる日本人は、みんなアメリカン民主主義の信者です。そのアメリカン民主主義はフランス革命やアメリカ革命に必要だった・ひとつのイデオロギーに過ぎません。
 真理や人類救済の最後の原理とかではないのです。

 真理ではなく、多くのイデオロギーのひとつでしかない、
とさう思へないなら、民主主義を信じてゐるのです。制度として利用するのではなく、何か素晴らしい、人としてさうあるべき真理(民主的人間など)だと信じてゐるのです。
 民主といふシステムの使用者ではなく、民主主義といふイズムの信徒です。

 その自覚が無いのが、今の日本人だと思ひます。




 

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