「見られる→見せる」で女になる


 引用した記事の著者、きいろさんは、わたしが↓に書いた記事の主旨を読み取ってくれた方です。
 この記事に関心を向けるのはジェンダーの問題を抱へてゐる人だと思ひます。

 『三島由紀夫はホモではない』の記事のコメント欄の中で、きいろさんは、次のやうな文を書いてゐらっしゃいます。

>ジェンダーを否定された傷の深さ鋭さが、黒澤氏をタナトスへと駆り立て、筆を走らせるのではないかと。
>ジェンダーは取り外しの効かない属性ですから、否定されること自体が「死」に直結するのだと思います。
>彼らの救いは、どこにあるのか。

 わたしは、これを読んで、感動した。
 いはゆる性自認については、性別の縛りから「自由になる」とか、性別は「自由に選んでよい」とかいふ話がある。
 さういふ流行には、わたしは、まったく乗れない。

 きいろさんのコメントを読んで、ジェンダーが、生きるにあたって壁となって立ちはだかり、それにぶつかって先に行けなくなってゐる人たちもゐるのだとわかった。
 それで、感動したのだ。わたしは、独りでは無かった。

 ジェンダー(男らしさ・女らしさ)といふ言葉自体が、生物学的性別とは違って、一定の社会体制や伝統的常識などが、恣意的に与へたものにすぎないといふことを示唆してゐる。

 けれども、さうであっても、むしろ、だからこそ(文化伝統の外で人間は存在できない)、わたしは、
ジェンダーは取り外しの効かない属性
といふ認識だ。

 だから、性別にとらはれず軽やかに生きる、のではなく、
否定されること自体が「死」に直結する
といふ・(ビッグワードを使へば)極限状況で生きてきた。

 ジェンダーの問題を抱へながら、それを軽やかに扱はうとする人たちは、必ず、群れを求める。
 そこに安住しようとする。
 LGBTQが政治運動と化すのは、群れを成した人たちがゐるからだ。
 本来は、個人の実存的な問題であって、社会制度をいぢくれば消えるものではない。


 さて、冒頭に引用したきいろさんの記事。
 それには、「見せるための」といふことが考察されてゐる。

 わたしは、女性といふ性は、
女性に性欲を抱く男性から「見られる」こと、
そして、それを受け入れて
見せる」やうになる存在だと思ってゐる。
 それは、↓の記事にも書いたこと。

 男性が、女性の身体を見る、乳房やお尻を見るから、女性のファッションは、ことさらにそれを強調したものとなる。
 男性の性的な特徴である股間に関しては、女性が性欲の目で見ないから、それは男性のファッションの中では「無いもの」とされる。さうしないと、お洒落な服装にならないからだ。
 ホモは、男性の股間を性欲の目で見るから、下半身用の男性下着は、女性のエロ下着を凌駕するくらゐ、多様でファッショナブルだ。
 (アダルトサイトなどを検索したら見られるけど、誰も見たくないよね)

 ヘテロの世界では、他がどんなにかっこよく決まってゐても、股間の形態が露はな男性ファッションは滑稽や醜悪となってしまふ。
 逆に、女性のファッションなら、身体のどこを、どこまで露出しても、セクシーといふことになる。

 ↓ジュリア・フォックスのノーパンツルック。

下品とも言へるが、それは「とてもセクシーだ」といふことに過ぎない。

 これと同じやうなファッション、たとへばズボンをつけず褌一丁の男性が上半身背広で半長靴をはいて歩いてゐたら、みんな笑ふか怒るかのどっちかだ。
 おまわりさんも走って来るだらう。


 つまり、女性が女に生まれて、女になるには、
「見られる」こと、そして、
「見せる」ことを喜びとする必要がある。

①男性から性欲の目を向けられない女性
②男性の性欲の目に自分の身体をさらすのが恐ろしかったり、プライドを傷つけられたりすると感じる女性

 ①や②、または①と②の女性は、女性であること、つまりそのジェンダーについて苦しむと思ふ。

 「フェミニストはブスだ」などと言ふ人たちがゐるが、①の女性がフェミニストになってゐると言ひたいのだと思ふ。
 けれども、フェミニストの中には男性の性欲の目を十分に惹きつける身体をしながら、その男性の目を嫌悪してゐる人たちもゐる。
 そして、或る人たちは、生理の来る女性の身体を呪ひつつ、自分の身体に惹きつけられる男性を嘲り傷つけるために様々な工夫をする。
 わたしが直接知ってゐる人としては、SMの女王様として働いてゐる人がゐた。男嫌ひを公言してゐて、いろんなことでムカッとくるらしく、わたしも時々地雷を踏んで問ひ詰められた。院卒、論争では絶対に負けない。

 自分の身体に欲情する男性を心の底から軽蔑して憎んでゐる。その憎しみと軽蔑を思ひ切り、といっても殺さない程度に軽減して、男性を痛めつけることで解消してゐた。
 さらには、当人としては、男に屈辱を与へ痛めつけることに、女の喜びを感じゐると言ってゐた。

 わたしとしては、「喜びを感じてゐた」のは本人の頭であり、はたから見てゐると、彼女の女の身体は、自分を支配してくれる男性を求めて苦しんでゐるやうに見えた。

 

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