自分のために生きる

 ヒトといふ動物は、おそらく「みんな」のために自分を犠牲にするときに最高の機能快感を得るやうに出来てゐる、のだとわたしは思ふ。
 わたしが、個人主義や自由を否定的にみるのは、それがヒトの根っこにある「全体との帰一を切望するこころ」を、あるのにないことにしようとする試みに支へられてゐるやうに見えるからだ。

 二言目には「日本人の同調圧力」とか言ふ人は、西洋人がどんなに「みんな」に溺れて生きてゐるかが見えてゐないと思ふ。彼ら彼女らは個人主義と自由を、戦争を正当化するためのイデオロギーとして掲げた手前、今さら、一人だと寂しいと本音を吐けない。だから、かえって無意識から生まれる言動としてはおそろしく全体主義的なのだ。
 具体例として、何か社会問題、たとへばLGBTだとすると、それに賛成と反対に分かれて徒党を組む。そして、集団と集団がぶつかり合ふ。
 その時、西洋人たちは個人や自由から一瞬解放されて「みんな」の中に入ってヒトらしい生き甲斐を感じる。

 西洋人に比べると、日本人はひとりひとり自分の我をかなり強く持って生きてゐる。とわたしは思ふ。


 機能快感は、カタカナにするとオルガスムスだ。
 オルガはオルガンの語源でもあるさうだ。元々は膨張、そして感情の高まりなどといった意味になったらしい。
 語源は仮説だから、都合のいいやうに解釈できるので、ここでは、
 オルガ(器官)のスムス(快感)、といふことにする。

 オルガスムスは、ふつうは性的絶頂感のことだ。
 人は性器といふ器官があるので、その器官による快感を得る。

 けれども、性器に限らず、人は様々な器官に、それ特有の快感を持つのだと思ふ。胃といふ器官がもたらす快感を求めて、わたしたちはものを食べる。
 快感が無いと、脳を持った生物は機能しないのかもしれない。

 そんな次第で、ヒトには、さまざまな器官に特有の快感があり、中でも心には多くの複雑な快感がある。
 といふのも、心/脳は、構成的には、モジュールになってゐるらしいからだ。
 利己主義に限りなく発動する快感もあるし、利他行為に対して爆発する快感もあるのだらう。

 蟻にもあるやうな、自己犠牲といふ心のシステムが生まれながらにプログラムされてゐることでヒトは社会を維持できる。

 もちろん、
自分だけの利益の追求、
自分だけの苦痛の回避、
自分だけの安全の確保、
これらは個体の維持のために必要だから、これらもヒトにはプログラミングされてゐるはずだ。ヒトは限りなく利己主義なのだ。

 それと同時に、自己犠牲が性的快感などをはるかに越える恍惚をもたらすやうにヒトの心は造られている。


 自己犠牲の対象となる「みんな」は、時代によって地域によって違ってくる。

①戦前の日本。天皇国家が「みんな」の表象だった。

②参政党員。子供たちが「みんな」の表象。子供たちの未来のためなら、自分の時間や収入を削ることは厭はないし、厭はない自分が燦然と輝いてくる。

③山本太郎氏。貧困や病気や不当な差別で苦しんでゐる弱者が「みんな」。
 氏は、弱者の苦しみを語ると涙を流す。

 あんなに権力者や支配層をぼろくそに言ってゐると、いつ殺されるかわからない。
 あんなふうに全国を飛び回ってゐると、自分を救ってくれそうな人にしがみつく心の病んだ人にストーカーされる。
 あんな生き方だと、いつ殺されるかわからない。むしろ、未だに誰にも襲はれたり「自殺」をとげたりしないのが不思議なくらゐだ。

 山本氏は、殺されるといふ危険を感じないのかといふ質問に対して、
 「殺されてもおかしくないでせうね。死にたくないです。怖いですよ。でも仕方ないでしょ?誰かがやらなきゃ」
と言ってゐる。
 まるで特攻隊員のやうだ。彼らはみんな死にたくなかった。けれども、国や天皇、つまり「みんな」のためには仕方なかったのである。

 「みんな」が苦しむ今の日本がほんの少しでも変はれば、山本氏としては、殺されても仕方ない、いはば男子の本懐といったところなのだらう。


 自分の人生だけを生きる人は虚しい。
 noteの記事を書いてゐてもスキがつくと嬉しいのは、スキの背後に「みんな」が垣間見えるからだ。
 自分の好きなことだけをしてゐる、その様子を「みんな」が見てゐると知ると、嬉しい。
 全裸で街を歩くと「みんな」が見てくれる。風呂では誰もが裸なのだが、その裸を「みんな」が自分だけの裸に視線を注ぐ。
 そのとき、自分の存在の耐へられない軽さが一瞬消えるのを感じるのだらう。女性の露出も、視線の蓄積による存在感の増幅によって癖になるのだと思ふ。癖になった人は、老いても露出をやめられない。西洋人の女性には割合多い。


 noteを見てゐても、
「人がどう生きてゐるかを気にするな。自分を生きろ。自分のために生きろ」
といふ人が、会員を募って、
「みんな」に自分らしく生きるための講座などを受けさせようとしてゐる。

 「人がどう生きてゐるか気にせず自分のために生きろ」と言ってゐる本人は、自分のためだけに生きてゐると虚しいことを知ってゐる。

 だから、「みんな」のことが気になって仕方ないのだ。
 「みんな」が自分らしく生きられるやうに、何か、したい。
 そして、そのために何かしてゐると、自分のためだけに生きてゐる虚しさが、一瞬にしろ、消える・・・とまではいかなくても、多少は薄らぐのだらう。


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