ゆく河の流れとよどみの安眠術

この場面では、ガブリエルはすでに才人というより反射神経抜群の哲学的タレントなのである。このタイプの哲学者は稀に存在し、日本では故大森荘蔵がそれに近い。大森荘蔵は、ときとして「哲学の仕事は、人々にぐっすりと安らかに眠ることの条件を作ってあげることだ」と言っていた。まさにこれが「人生哲学」の 基本となる。

(河本英夫 ,「世界という現実性 一つの科学哲学的考察」, 国際哲学研究 pp.93-115, 2019-03)

「エンターテイナーていうのは「人を楽しませる」ということやっけん」とは、私の父が私によく言い聞かせてくれた言葉であるが、私はその「人を楽しませる」とは、たんなるお笑いでは済まされない、或いは済んではならないと思っている。冒頭の文章を書いた河本英夫も、
「現実感について」

という特別講義でエンターテイナーであり続けているが、「(太陽に近づきでもしたら)人間の目玉焼きいっちょ上がり」と言っているシーンよりも、「男ってそのくらい弱いの!」と笑顔で述べているシーンこそが、この「エンターテイナー」という言葉に託された情感である。笑いをもたらしながら同時に本質を衝いた癒しがあるようなものである。しかし言葉でわかってはいけない。この場合事例への感度が重要な局面となる。


エンターテイナーの感度と方丈記

 ネット上でれいわ新選組代表・山本太郎が世間に登場した際の「たけしの元気が出るテレビ」を見ることができるが、ここで山本太郎は、「アジャコング&戸塚ヨットスクールズ」という名称を引っ提げて裸で登場しつつ、「彼女はいるの?」という質問に対して、「人間っていうのは、死ぬときは独りなんですよね」、さらに、「じゃあ、彼女は作らない主義なんだ?」に対しては、「・・・待ってるで!」と返している。この「哀愁と情感の只中で最後は笑いで落とす」ような感度がエンターテイナーの基本となる。有名どころで言えば渥美清の演じる「寅さん」のような感じだろうか。この構図の既視感は恐らくキリスト教からくるものであろうが、そのキリスト教に対抗意識を持っていたことで知られるニーチェは『悲劇の誕生』において、「古代ギリシア人は、悲劇を悲劇として受容する強さを持っていた」という趣旨のことを述べている。三大悲劇詩人と言われるが、確かにソフォクレスの『オイディプス王』には、「デウス・エクス・マキナ」が無く、ひたすら救われない物語を描いている。隘路に起こるはアイロニーなのである。もがけばもがくほど沈む、とはよく言われるが、問題は、この世は顔を出して浮かんでいても一向に救助は来ないようなのである。自足とは一人漂流物に掴まることであり、恋愛と友情は共に漂流物に掴まって茫漠たる只中で慰め合うにすぎない。
 しかし、いかなる境涯であろうとよく眠らないことには思考も遊泳も、ましてや愛することなどできない。しかるに私は良き眠りをもたらす哲学を語ろうと思う。ニーチェも『ツァラトゥストラ』の序盤で同様のことを述べていた。ぐっすり眠れる人生哲学というのは、私自身の課題である。「唄われよ わしゃ囃す」(おわら風の盆)という反復の継承が文化の基本である。

 ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、賤しき人の住まひは、世々を経て、尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は去年やけて、今年つくれり。或は大家ほろびて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露にことならず。或は露落ちて、花残れり。残るといえども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。

 予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。

鴨長明『方丈記』

 私はいつ頃からか『方丈記』の風情を好んでいる。特に冒頭の中では「誰がためにか(たがためにか)」という箇所に情緒を見出している。私の基本はこの死生観であるが、それは生来のものではない。私は幼時周囲の誰よりも死を恐れており、しばしば夕暮れ時の居間で死と、死が接近する老いを、或いは延寿を想って泣いていた。死の問題は、小学校高学年で相次いで祖父母を亡くして以降も継続したが、消えてなくなるときがやってくる。15歳、高校1年生の頃、私には死の問題への思考の傾向が引き続いていたため、『死の壁』という、養老孟司の一般向けの新書を手に取った。そこに書かれていたことは今も私の基層となっているはずなのだが、とりわけ覚えているのはそこで書かれていた、エピクロス的、というよりも直接的にはジャンケレヴィッチの死の議論である。すなわち、1人称の死、2人称の死、3人称の死、という話なのだが、近しい者の死である2人称の死と、見知らぬ他人の死である3人称の死に対して、1人称の死は自分にとって何ものでもない、という類の議論であったと記憶しているが、このような既に紀元前にエピクロスが論じている古着の議論でも、当時の私には衝撃的な新鮮さがあった。その結果、私は死への恐怖の呪縛から解放され、死が問題系から消えた。死は暗黒ではなく、凪さえ消滅した無感覚だから、実際にそれによって私は生きながらにして心は平安に凪いでいた。だから、その後様々に触れた日本の精神史や仏教に関する書物については、あくまでも1人称の死は何ものでもないという前提のうえに読んでいて、それとは異なる発想系があればその折り合いの悪い部分に関しては、そういうフィクションもあったんだという程度の感覚で読んだ。
 ところがそんな安らぎが解体する日がやってくる。どうも未来と可能性について考え出すと、または自明の前提となっていた直線的力学的世界観を相対化し出すと、或いは或いは現実性の議論ともなると、どうやらそうではない可能性も十分にあるらしいという程度のところに来てしまったのだ。それが螺旋表象で考えられるところの死生観である。ただ盲目的に螺旋を描くように生きんとする意志が再生する死生観があるようだ。そもそも循環する世界観は非キリスト教において普通のことであった。輪廻もそうだし、恐らく振動宇宙論の元になったエンペドクレスの世界観もそうであるし、文字記録はないが縄文時代は遺跡から見るに循環型であろうと思う。むしろエピクロスの一回的で落下傘的な世界観が特殊なのであった。

生命というものを、人類はまだうまく定義できないみたいです。
チトやユーリが直感したイメージとは裏腹に、実際の生命というものは連綿と永遠に続いていくものなのかもしれません。
終わりがないのかもしれない…と思うと少し不安になります。
それはいつか必ず終わりが来る自分という存在が永遠に取り残されてしまうような不安、あるいは寂しさでしょうか。
生命も文明も宇宙も、ちゃんとどこかで終わってほしい。
終わりがあるというのはとても優しいことだと思います。

『少女終末旅行』3巻, つくみず, 2016,2

 これは『少女終末旅行』という漫画で作者のつくみず氏が書いているあとがきである。非常に迫真性のあるあとがきである。しかるに私は終わりの現実性を形成しなければならない。そうしないと、私が眠りにつく際にうまく眠れない可能性が残る。
 戦略として、私は安らぎの書物を大いに読む。そうすることで必ずや「終わりの現実性」が作られるはずである。そこで私は仏教などを援用するのであるが、もはや現実性と仮構性の区別が成立しない極地において、宗教であるからといって問題にはなりえないのである。ちなみに哲学者のショーペンハウアーも仏教を援用したが、議論は偶有的で別様でもありえたと信じる。

ブッダのことばにみられる死生観

中村元訳

 この仏典は、スッタニパータという、最古層の原始仏教聖句集である。仏教というのは安らぎにおいて終わらせる仕組みがあるので、まずはこれを参照していきたい。
 まず、この書は「蛇の章」より始まる。

一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

二 池に生える蓮華を。水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

三 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

『ブッダのことば-スッタニパータ-』中村元訳

 このような断章が続々と繰り出される。「この世とかの世とをともに捨て去る」とは、解脱のことである。これを読んでいこうと思う。

三三 悪魔パーピマンがいった、
   「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。               
    人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのものの
    ない人は、実に喜ぶことがない。」
三四 師は答えた、
   「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
    実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもの
    のない人は、憂うることがない。」

同上

四一 仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚
   だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のように
   ただ独り歩め。


四五 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たなら
   ば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれ
   とともに歩め。

四六 しかしもしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得な
   いならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のよ
   うにただ独り歩め。

四七 われらは実に朋友を得る幸せを讃め称える。自分よりも勝れあるいは
   等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得るこ
   とができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ
   独り歩め。

同上

 ここには、基本的には友達や子供、仲間を作ることの危険性が詠われている。大切にする対象があるということは、同時に苦しみのもとということであろう。仏教の基本は、欲に基づく執着を断ち切り自在無碍の境地に達する、ということにあるようなので、その限りにおいて当然、自己をも含めて、いわんや他者をや、大切にする対象があってはならないのだろう。基本的に、人間関係の最大の苦は、深入りすればするほど分離不安であろう。

五〇 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、
   心を撹乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角
   のようにただ独り歩め。

同上

 これは私が一番気に入っている一句である。スッタニパータ五十番。欲望の対象には憂いがある。ここでは、妻子や仲間、友達を持つことだけではなく、欲望そのものが問題化されている。しかし、既に欲動の理論に慣れた現代人からしてみれば、でもどうすればいいんだという思いが募るだろう。しかし考えてもみよう。仏教徒はそれなりにうまい仕組みで人生を処してきたのではないか?そう考えると、やはり仏教は大きな参照点にはなるであろう。続きを読んでいく。

七五 今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕す
   る。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る
   人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

同上

 これが紀元前に詠われた文句である。この句で「犀の角」の節は終わっている。つまり、もし素晴らしい友を見つけたら、あくまでも心を落ち着けて、ほだされることなく、彼と共に歩もう。

一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンと
    なるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバ
    ラモンともなる。

同上

 これによって、仏教は生まれよりも個人の行為に重きを置くことが示される。基本的に、仏教は家族主義ではありえない仕組みなのである。

一五二 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具え
    て、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿
    ることがないであろう。

同上

 ここでは、本題であった「終わり」に関して書かれている。このようにして、「決して再び母胎に宿ることがない」。終わりということに一生懸命向き合っていた初期仏教徒の姿が浮かび上がってくる。
 そういえば、今私の傍らには『天使の記号学』(山内志朗)という本があるが、これによると、「天使」とはメディアである。といっても初見では何の意味も伝達できない可能性が高いので、説明を施すと、概ね近年の哲学界隈では「天使」という語がある特殊な用法で使われているのであって、基本的に世俗の穢れを厭う存在なのだが、本著によれば、天使の語源はギリシア語のアンゲローであり、これは「伝える、伝達する」という意味で、それは自己を言うなれば「透明化」した媒体=メディア、なのである。しかし本著の参照するトマス・アクィナスらの議論によれば、言語的表現活動は肉体だけでなく意志にも障碍される。著者はそうではなく、意志はむしろ表現活動において積極的役割を果たすと主張するのではあるが。そうした議論を参照して考えると、初期仏教徒は、世俗の穢れを厭い詩句のかたちでブッダの教えを伝達していく面では天使的であり、しかしそれすらも厭うような超脱的な面を考えると、意志すらない天使とも言える。

心はそんなにテクスト的か?

 さて、人間は往々にして倒錯を起こす。そのことはマルクスを待たずとも散々に議論されてきたことであるが、ここで焦点化するのは、実際の人間心理と、テクストから受ける聖性の印象の倒錯である。重要な歴史的テクストには主観にとって聖性が宿る。だから、いかにもそこに書かれているように明確に、概念の枠組み通りに、かっちりとした世界像が結べるように錯覚する。しかし、いくら例えば論語や聖書を読んだところで、そんなにかっちりした人間になるだろうか?心はそんなにテクスト的か?とは、それほどの意味である。
 だから、重要なのはあくまでもほどよい参画とほどよい自由をバランスよく保つことである。言い換えれば、発展途上の生硬さと余裕のある柔軟さを同時に持つことである。そうすることで、仕事ができつつ生きることに余裕を持ちつつの余念のなさが出現するだろう。
 今回書いたことのほかにも、聖典や古典を読むことは、少なくとも都市の空気などよりも自由にしてくれるし、同時に象徴界への参画にも適う。焦らずに、落ち着いて、急げば急ぐほど失態を演じやすい。


 人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。

パスカル『パンセ』358

2024年2月26日


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