内なる声としての父或いは友と恥の観念

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

マタイ伝6

 私はしかし、「個室」、自分の部屋で<父>が私の言動や心の動きまで諌止してくるのは断固として嫌なのである。別に好きにパソコンの前で動画を見ながらうどんを食べさせてほしい。頭の中で、<父>が、或いは画面の向こうの<他者>が、親しい友達が、なにか諌止してくるということ、それをとにかくひたすら解除してきたのが10年間の私であった。父の不在である。
 問題は、このソクラテスのダイモニオンにも似たものを決定的に解除してしまうと、恐らく統合機能の衰微、連合弛緩によって、同時に自我解体に陥るはずである。近代文学の「内的空間」が告げるような、自由で解放された正体不明の<わたし>はどこにあるというのだろうか?そのような自我は虚妄であろう。だから問題は超自我であり、エスであり、父なのだ。
 しかしともかく私はラディカルな観念論者ではないので、いかに内的な父が命法を下そうとも、物的な心が追い付いていなければただ苦しいだけで病むだけだと考えている。それはたとえば、うつ病でセロトニンの不足している人に「頑張れ頑張れ」と言うようなものであろう。しかし近代社会で生存していくにあたっては、ある種ストイックな父が内在していなければちょっと戦略として困るのである。こういうものが嫌だから、私は狂気のロマン主義に活路を見いだそうとしたのであるが、私はどうも人間を思い切れなかった。だから、あくまでも人間らしい人間としての実存を確保しなければならない。
 そこで最初の話に戻ると、結局、例えば、してはいかんことはしちゃいかんと言う父は必要なのだろう。但し、家庭主義の健全さは逃げ場を確保した上で成立するものではないだろうか。それは内的にも、或いは外部へ向けてでもあるのだが。だから、健全な家庭には必ず外部があらねばならない。父ー母ー子、だけで考えていると狭いし危険である。
 とはいえここで私は現実の家庭の話は一切していない。むしろこれはどこまでも内的、心的な話なのだ。だからマリア様を母とするカトリック信徒がいたとしてそれは普遍的に起こることであろうし、問題はない。問題は父である。父なる神の共同性統合の機能はそのまま心的な話としては統合機能の話である。
 酒鬼薔薇聖斗氏は、バモイドオキ神というオリジナルな神を持っていた。これは超人思想にも似たものともとれる。だから、「哲学を学ぶのではなくせいぜい哲学することを学べるだけ」というカントの言葉は、こうした時代を告げているのだと思う。私のような他者の父権的干渉が嫌いで自己愛の強い人間には向いているのではないかとも考えている。西洋の信仰や儒学の典拠主義とは相容れない戦略である。問題は、自己は内的生を現に生きているダイナミズムであるということである。テクストは動かないことに意味がある。聖書は一点一画も足しても引いてもならない完成品なのである。テクストの聖性とはそういうものである。科学の問題もここからわかる。すなわち反証可能性という条件は基本であるから、自己も科学も、訂正可能性に開かれている点で父権化たりえないのである。Gott ist tot. そして私は神ではない。或いは訂正可能性に開かれている動的な父とは、生き神様である。すなわちカルト教祖である。青年において交友関係は往々にしてカルト化する。しかしそれは内面に関わる人生で最も大切な発達過程である。或いは相互触媒として自己をメディアとすることは逆説的に他者にとって神となることにも近い感度で捉えなければならない。
 肝心なことには、普通はこんなことに悩まなくてよいのである。そこらへんの本で満たされる人もいれば、それ以前に読書人口の減少で本さえ読まない人も多い中、せいぜい職場を統括する雰囲気をいただくだけで数十年茫漠と生きている人も、それもまた生き方ではないだろうか。しかしどこまでも私の問題である。私にはそのような生き方は向いていない。かえってそうならないかぎりにおいて自己管理をしなければならないのである。
 結局、内なる声に聴従する姿勢も身に着けようと思う。

2023年10月30日


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