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チャンスからの意表

朝倉義景の家臣が寝返るという小さな出来事で、これを大きなチャンスと言い出した信長の鋭さということでした。

裏切るということも問題なのですが、追手まで寝返ったのですから。これは朝倉勢が内部的に崩壊していると考えたのです。

信長は引き続き横山城を羽柴秀吉に攻めさせました。
小谷城に関しては謀略によって、家臣たちの味方につけていき、城を孤立化させていきました。
1573年8月8日には、小谷城の西側の拠点であった山本城の阿閉貞閑が信長側につき、小谷城の外郭陣地は崩壊しました。

まさに好機が到来しました。
信長は直ちに岐阜を出発し、翌日の9日に本陣を進めました。
この時期になると武田信玄はすでに亡くなっており、足利義昭も追放済みでした。
比叡山も焼き討ちにした後ですから、もう邪魔をするものがいないのです。

目の前にいる浅井勢は内部崩壊を始めていますし、その背後にいる朝倉勢においても離反者が続出しています。
小谷城と一条谷町は落ちる寸前です。

信長は柴田勝家に城の北側を攻めさせました。
これにより朝倉の援軍を分断させたのです。
そして、北側には砦もありましたが、これは最初に寝返った前波吉継を使って離反させました。

12日の夜に雷雨が発生し、それに乗じて城を急襲しました。

信長は小谷城を囲うのではないかと見せておきながら、意外にも主力部隊を前進させ突進し、朝倉義景の本陣を直接狙いました。
朝倉軍が弱体化してこったことは予想していましたが、それ以上にひどく、攻撃される前にすでに退却しているという状態でした。
信長はその状況を見定め突進していたものですから、前線の部隊は駆け抜けていく信長をただ見ていくだけでした。

これでは、まるで桶狭間のようですね。

信長は逃げる敵を追って一乗谷城も落としました。

8月20日には朝倉義景を追い詰めて自害させました。
これにより朝倉滅びたのですが、まさか浅井よりも先に義景自らが攻められるとは思っていなかったでしょう。

この戦い方は賤ヶ岳の戦いでも全く同じで秀吉はよく信長を観察してたと言えるかもしれませんね。

朝倉氏が滅びたんですから戦力がなく8月28日にはこちらもあっさり陥落してしまいました。

家臣が裏切るというちょっとしたところから、相手の内部崩壊を見抜き、相手の意表をつく攻撃によって、勝利をおさめたのです。
このように見えないことが分かると、小さなことから様々なことに気づくことができます。
そのようなことに興味のある人は是非一緒に頑張りましょう。


これからも良い記事を書いていきます。