#1724 公私中庸
戦前の公教育は、「軍国主義」に偏り、「公」の力が横暴していた。
教育方法、教育内容は「戦争」の影響を色濃く受け、完全に「公」によりコントロールされてきた。
しかし、戦後になると、その様相が一変する。
「民主主義」が打ち出され、徐々に「私」が優先されるようになった。
公教育は「サービス業」化し、教師としての権威は失われ、子ども・保護者の要望に応えることが常態化していく。
「子どもの個性」「自由」が重視され、それを「なんでもあり」と勘違いした層が、「教師への反発」「学級崩壊」を生むようになった。
完全に「公」の力が失われ、「私」の力が増しているのである。
このように、戦前は「公」、戦後は「私」に偏ってしまったのだ。
これを打破していくためには、「公」と「私」をバランスよく保つこと、すなわち「中庸」であることが求められる。
「公」に偏り過ぎると、「軍国主義」に逆戻りとなる。
「教育勅語」が「上からの命令」として、「内容」ではなく「形式」において問題視されたことと同様だ。
「道徳」を、教師が一方的に子どもに押し付けてはいけない。
「教育方法」を教師が規定し、「学習方法」を一方的に子どもに押し付けてはいけない。
子どもの「私」の部分も尊重する必要があるのだ。
一方、「私」に偏り過ぎると、「放任主義」「自分勝手な自由」「なんでもあり」に陥る。
「道徳教育」を実施せず、「善悪の判断」を子ども個人に任せることとなる。
「自分の学びたい内容」を「自分がしたい方法」で学んでいくことになる。
このように、完全な「個人主義」になれば、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成から遠ざかってしまう。
つまり、「公」の部分も取り入れる必要があるのだ。
そのために「学習指導要領」が存在するわけである。
「学習内容」は「公」が規定する。
その代わり、「学習方法」は「私」に合う最適な方法を尊重する。
そして、道徳に関する「内容項目」は「公」が規定する。
しかし、その具体的な中身や判断力については、「私」の意思も尊重する。
自分の考え、他者の考え、教師の考えなどから「多面的・多角的に」「考え・議論する」ことで、「道徳的な生き方」をアップデートしていく。
「内容項目」という「大枠」だけは「公」が規定し、その「具体的な中身」は「私」の意思を尊重するのである。
以上のように、「公」と「私」を中庸的に捉える必要がある。
いずれかに偏ってしまうと、バランスが悪くなり、教育の質が低下する。
「公」に偏り、子どもをコントロールしてはいけない。
しかし、「私」に偏り、子どもを野放しにしてもいけない。
両者のバランス配分を「考え抜く」ことこそが、教師に求められる最重要課題なのである。
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