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#1654 「自分の実践」を絶対視しない

私は「自分の実践」に惚れ込み、「自分の実践」に陶酔し、「自分の実践」を自信満々に発信する人を、少々嫌煙する。

「なぜそこまで自信があるのか?」
「なぜそんなに自信をもつことができるのか?」
不思議でならない。

「自分の実践」を絶対視すると、教師として、それ以上の成長ができなくなる。

「自分の実践」が絶対であり、「それに合わない子どもが悪い」と言い出す。

そして、「自分の実践」に素直に従う子どもは「よい子」であるし、従わない子どもは「わるい子」であると見なす。

また、「自分の実践」をどんどん外に発信し、共感してくれる人を喜ぶ。

そうやって、「自分の実践」信者をどんどん増やしていく。

教師は「自分の実践」に、ある程度の責任と自信をもつ必要がある。

そうでないと、目の前の子どもたちに失礼であるし、それが許されるのが教員免許をもっている教師の役割である。

しかし、「自分の実践」を絶対視し、「穴」「不足」「不備」「弱点」を考えもせず、省察もせず、やみくみもに子どもに押し付けてはいけない。

教師は「自分の実践」を志向し、どうあるべきかを思考し、子どもたち相手に試行することが重要となる。

「志向-思考-試行」である。

めがね旦那氏は、自分の実践を「未練込みの決断」と表現している。

まさにその通りである。

「他に別の実践可能性がありそうだ」
「しかし、今の段階では、これが自分の最適解である」
「未練が残るが、それでも目の前の子どもたちのために実践をする」
「しかし、自分の実践の穴・不足・不備・弱点は必ず存在するだろう」
「だからこそ、実践したら、もっと他の可能性はなかったかと省察する」
「もっとよい実践は創造できないかと省察する」

このような姿勢が必要なのである。

なので、「自分の実践」に惚れ込み、「自分の実践」に陶酔し、「自分の実践」を自信満々に発信する人に、私は違和感を覚えるのである。

この世に「神のような絶対的な教育実践」は存在しないのである。

常にそれを模索し続けることが重要なのである。

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