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#1580 「自分」という「人間」である「教師」にしかできない教育を

前回の記事では、「『主体的』という言葉は『忖度』のために使われている」ことを述べた。

学習指導要領という「学ぶべき内容」「教えるべき内容」が限定・規定されている以上、そのレールから逸脱することは許されていない。

いかにそのレールを「自然に」進んでいるかを重視しているわけだ。

そのため、「主体的」という仮初めの言葉ができあがったのである。

結局は、手のひらの上で踊らされているのである。

だから、「学力向上」という名のもとで、教師たちは業者テストや全国調査の点数を上げることに必死になっている。

点数が低ければ、レールの上をきちんと進むよう、上からの「圧」が加えられる。

このような構造の中では、教師たちの「主体性」はもちろん、子供たちの「主体性」も伸びていかないことは明白である。

しかし、だからといって、「ミニマムエッセンシャルズ」である学習指導要領を全撤廃することはできない。

この社会には、どのような職業に就いたとしても、仕事をしていく上で欠かすことのできない「一般的知識」「一般的ルール」が存在する。

詳しくは以下の記事のとおりだ。

#1221 普通教育を行う意味~いかにうまく押し付けるか~|眼鏡先生 (note.com)

それを義務教育段階で保障するのが、「普通教育」である。

商業や農業などの特定の知識・ルールを身に付けるわけではない。

子供たちは、将来どのような職業に就くかわからない。

だとしたら、どのような職業に就いたとしても、活用できるような一般的な知識・ルールを身に付けなければいけないのだ。

それを担うのが「学校教育」である。

それを規定しているのが、「ミニマムエッセンシャルズ」である学習指導要領なのである。

したがって、それを全撤廃することはできない。

しかし、それでもなお、人間である「教師」にしかできない教育を、私はしてみたいと考える。

教育は「トレードオフ」である。

詳細は、以下の記事のとおりだ。

#948 教育はトレードオフ|眼鏡先生 (note.com)

#1222 教育におけるトレードオフと子ども主体の学習|眼鏡先生 (note.com)

ある特定の教育を実行するとき、それと同時に別の教育を実行することはできない。

限られた時間、限られた時数の中で、自分が実行すべき教育を考え抜く必要がある。

その一部が「学習指導要領における教育内容」である。

しかしこの「教育内容」は、言ってしまえば、AIロボットに任せることだってできる。

別に人間である教師でなくても、普通教育の内容は教えることができるのだ。

だとしたら、人間である「教師」にしかできない、「自分」にしかできない教育を考え抜くことが重要となる。

「なぜ自分は目の前の子供たちの教師になったのだろう?」
「自分が目の前の子供たちにできる教育って何だろう?」
「自分は教師として目の前の子供たちに何ができるだろう?」

このような問いを常に考え抜く。

くり返すが、教育は「トレードオフ」である。

そのような限られた範囲の中で、人間である「自分」という「教師」にしかできない教育を見出す必要がある。

それが可能なのは、朝の会の時間かもしれない。

帰りの会の時間かもしれない。

はたまた、授業時間内かもしれない。

「学習指導要領」に書いていない、「自分」だけができる教育。

あとで子供たちの「中」で残ってほしい、「教師」だけができる教育。

「自分」という個性あふれる人間だけが伝えられる、心から腑に落ちた教育。

教育はトレードオフなので、何かを子どもたちに語るならば、同時に別のことを語ることはできない。

学習指導要領の内容を教える必要はあるが、その隙間で、他に「自分」だけが教えられることを語ったり、伝えたりすることが重要となる。

そんな、「自分」という「教師」である「人間」だけができる教育を、私は実践してみたい。

その心・姿勢があれば、教師の「主体性」は自然と生まれてくるだろう。

そして、その教師の主体性に感化された子供たちは、自然と「主体的」に学んでいくだろう。

仮初めの「主体性」「主体的な学び」は終わりにしよう。

「真の主体性」を実現できるのは、目の前の子供たちの前に立つ、私たち人間である「教師」だけなのである。

そのとき、私たちは真の意味で、子どもたちにとっての「教師」になることができる。

役職名としての「教諭」でもなく、歯車の一部としての「教員」でもない。

子どもたちにとって、かけがえのない存在としての「教師」になることができるのだ。

では。

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