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桜坂の風、沖縄のbarで

沖縄での夜を、ふとしたときに思い出す。

約17年前、人生初のひとり旅で訪れた沖縄で首里城に向かう道の途中、観光客向けの人力車を引いていたユウ兄に出会った。

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人生初のゲストハウスだった那覇の月光荘。
当時の写真より

ユウ兄は地元が神奈川の同じ沿線エリア出身で、結婚と子育てをきっかけに沖縄へ移住し、人力車を生業としていた。(今は首里城での人力車はなくなっている)ユウ兄はとても感性豊かな人で、首里だけでなく様々な場所を紹介してくれ沖縄での兄のような存在となり、様々な話を交わした。

彼との出会いと紹介してもらった沖縄の魅力にすっかり引き込まれ、その後の数年間は毎年沖縄に通っていた。島の自然の中に身を置くと重たい荷物が外れたように心がほぐれ感覚が研ぎ澄まされ、疲れた心身が元気になった。

沢山の出会いと、いつも見えない手がそっとサポートしてくれているかのような出来事が連鎖的に起こり多くの影響を受けた。前兆のサインに導かれる旅。小説「アルケミスト」に書いてあることは本当のことなんだと、心から初めて体感した場所が沖縄だった。

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あるとき、ユウ兄は「そろそろ、紹介してもいいかと思って」と前置きすると、とっておきの場所があるんだと那覇の桜坂エリアにあった、とあるbarに連れて行ってくれた。

barの名前は『しぃぐわー』

ユウ兄に連れられ細い階段を登って辿り着くと、まさに隠れ家のようなbarの中でマスターのごうさんに出会った。ごうさんに出会えたこともユウ兄と同じく、一生忘れることがない。ごうさんのファンは日本中に沢山いる。わたしもその内の1人になった。

その夜にユウ兄とごうさんと3人で何を話したかは覚えていない。けれどすっかりbarしぃぐわーとごうさんの魅力にひき込まれ、那覇にいる日は昼間は旅をして、夜は毎晩のようにしぃぐわーに通うようになった。

barなるものに通うのが初めての、当時21才くらいだった頃。

数々の名酒や泡盛が並ぶ中、アルコールに弱いのでハーブティーを出してもらったり、時々ジン系、後はごうさんも好きだというおすすめのカシスソーダを飲んでいた。わたしは今でもカシスソーダの味とあの紫色が好きだ。

裏メニュー的に存在していたつけ麺もこれまた美味しい。ごうさんは料理上手で、たしか京都のものだという細い箸が添えられていた。店内ではEric Claptonの”Change the world”からバッハの”バイオリンとチェンバロのためのソナタ”、はたまたEGO-WRAPPINの”色彩のブルース”がよく流れていた。

『こういう場所で、故郷の話はしない方が良いんだ。帰る場所がない人もいるからな。』

『マキは、色々考えてるんだな。
俺は愛する人との距離までのことしか考えてないよ。』

愛する人との距離まで、なんて言葉もごうさんが言うと程よく適当で枯れた渋い味になり、言いながら笑う笑顔にはあっけらかんとした優しさと、人生の様々な局面を経験してきたからこその、慈悲のような円みのあるやさしさがあった。俺は永遠の72才だとか、そんなことを話していた。

『お前みたいな、人間のことを上辺の肩書や表面的なところで判断しているようなしょーもない奴は、そこの窓から飛び降りちまいな?』

満面の笑顔で言われたこともある。
穏やかな太陽のような笑みで。

あの笑顔も、ごうさんにしかできない笑顔だった。

何故わたしが人のことも自分のことも表面的なところで見てしまうのか、理由や背景も、どことなくごうさんにはわかっていたからだろう。その幼さを愛しみつつも、可愛そうな心だよな、馬鹿だよお前さんは。と、揶揄うように叱ってくれる。

『マキは、100点の自分を目指そうとしてるんじゃないか?そうじゃなくて、0点の自分を認めて愛する方が大切だぞ。』

『自信っていうのはな、「私は今ここに生きている、生きていていいんだ」ってことに自信を感じることが大切なんだ。それさえあれば人は生きていけるんだよ。逆に仕事で~〜したからとか行動の結果による自信は、いつかは移ろいいくもの。本当に支えてくれるのは、今ここに生きているっていう「存在に対する自信」なんだよ。』

今思うに、ごうさんの姿は「ほんとうの大人」だった。

その大人のやさしさに触れたくて、
那覇に滞在する数日間は毎晩通い続けた。

正しさ以外の世界を知っている大人に出逢いたかったんだろう。彷徨っている心を、朗らかに笑ってくれる柔らかい大人に。彼のような大人が世界にいるのだということは、ひとつの救いだった。

当時20代前半だった頃の周りの大人には
「正しさ」を語る大人が多かった。

学校とはこうだ、人生とは、仕事とは…
正論のレールの中で語り「君ももっと年令を重ねて、大人になったらわかるよ。」と言ってくる、大人と呼ばれている人間が嫌いだった。

ごうさんは、寄り添おうとして寄り添ってくれるというよりは人生で沢山の経験をした結果、人の心や痛みが自然とわかる人間になったというか、なってしまったような、

心のスペースに人を自然と招き「ま、どんな自分でもそこにいてもいいよ」と受け入れ、赦している…やさしさに意図や作為がない、ほどよくいい加減で素のままの、自然界の海のような心の人だった。

ごうさんはしぃぐわーの後は、同じ那覇に「土」というbarを開いた。わたしは土にも通い、時にはプライベートで遊んだり電話したり…今思えば笑ってしまうエピソードが色々ある。他の人達もごうさんとの間に様々なエピソードを持っているだろう。

ほんとうの大人とは何か、と前述したけれど
ごうさんを思い返すと、

痛みと孤独を知り、それらを無くそうと排除することなく「いいよ、そこにいても。まーそんなこともあるわいな。」と遊び心と哀しみを一緒に存在させることができるという印象がある。ただ見た目の年齢を重ねてきていては出来ない微笑みを、ごうさんは纏っていた。

幼い心は、哀しみや孤独と同居することに耐えられないから排除しようとする。少なくともわたしはそうしてきた。でも徐々に、それらと一緒に踊ることや愉しむことを少しずつでも覚えてきているように思う。

人生に伴った痛みや孤独がありながら、いつも会うと笑って『よっ、おかえり!』と声をかけてくれる。ごうさんのような大人に出会えたことは、ほんとうに幸せなことだった。

ごうさんの夢は、子どもから大人まで皆が一緒に集まれる広場のような場所を作ることだった。「沖縄ならそれがやれるんじゃないかと思ってな。」そうして沖縄に移り住んだという。ごうさんが初めに思い描いていたような場所をそのまま作ることはなかったかもしれないけれど、もうその夢はある意味で叶っていてもいたんだなとも思う。

barに集まるのは大人ばかり。けれど皆、ごうさんの笑い声と微笑みの中で自分の中に息づく、子どもと大人の両方の羽をひろげることができて、そっと肩の荷を降ろしていた。

こんなことを書いていると、
『マキも生意気なことを言うようになったな。
顔を洗って出直してこい、マキに大人を語れるのか?』
と笑いながら、からかわれそうだ。

もしくは『俺は大人になり損ねたぞ。マキは大人になったのか?すごいなーお前さんは。』と言って、笑い飛ばしてくるかもしれない。

何度でもからかって、叱ってほしい。尊敬する愛情深き人に叱ってもらえることの有り難みを、もっと思い知らせてほしかった。ずっとごうさんに甘え続けていた。

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2016年、沖縄を訪ねなくなり数年経ったある日。
ある方から、
ごうさんの訃報を聞いた。

「俺は、体の具合が悪いんだ。」と電話越しに聞いていたから、もう長くはないかもしれないことは知っていた。

関西で行われるという告別式の情報を教えてもらったものの、行かないことを選んだ。

何度も死別を経験しているある方は、大切な人の告別式があるけれど行かないことにした、というわたしの話を聞いて「それでいいんじゃないか?行っても、自分が知ってる本人そのものがいるわけじゃないからなぁ…。」と呟いた。

そうなのだ。12年前に他界した母を含め、大切な人の告別式に行くと感じるのは。

死とは、魂は永遠だといったことと同時に、ときにグロテスクで生々しいものだった。死顔が安らかな人ばかりではない。数年間会っていなかったごうさんに対しその生々しさを持ち込まずに、かつての沖縄での風が吹いているままにしておきたかったのだろう。

わたしにとってのごうさんは、沖縄で微笑んでいるごうさんで、綺麗事だろうがそれがよかった。ごうさんもまあ、笑って「それがいい、それがいいさー。」とでも言ってくれるだろうと思いながら、自分のいる場所で手を合わせ、祈りの刻を持った。

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訃報を聞いた日、住んでいた徳島県神山町にて

『マキと話してると、ああ一生懸命に生きてるんだなって思うよ。』

何度も考えたものの、告別式には行かなかった。
今でも、それが良かったと思う。

『お前には無限の可能性がある。今は信じにくいかもしれないけど、それは本当のことなんだよ。』

彷徨いながら、葛藤し続けていた20代のわたしを
真正面から、深いところで全肯定してくれた大人。

心の家族のような、名づけられない存在。今の時代でいうとメンターという単語が近いのだろうけど、名づけなくてよい大切な人というのは存在する。わたしも誰かにとって、そのような大人になっているときがあったら面白い。

心が弱くなった時は、当時のように話したくなる時がある。頼もしく敬愛する、魅力的な大人達との別れを幾度か経て、今この道を歩いている。

いつまでも甘え続けていたら、自分で自分を救いきれなかったから、そういう意味では別れもまたひとつの救いなのだろうな。

カシスソーダの紫色を眺めながら那覇の夜、
桜坂の窓から感じていた風は、記憶の中でそっと静かに凪いでいる。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます🕊