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島食どっぷり生活のはじまり、小さな変化

●「いろんなものを食べるってことは、そんだけ世界も広がるってこと。」

 週末にシェアメイトと一緒に見た映画のワンシーンにそんなセリフがありました。1か月間寺子屋での日々を過ごした今、自分が感じていることにぴったりで、じんわりと余韻が残る言葉でした。
 来島した初日の晩ごはんから、寺子屋の敷地に生えていた野蒜を採ってむしゃむしゃ。授業が始まると、畑や山を巡って食材を収集する日々。大根、かぶ、タラの芽、ふき、よもぎ、つくし、フクギ、木の芽、柿の新芽、筍、アカメガシワ、グミ、まきの葉、カラスノエンドウ、シャク、ハマダイコン…。草をかき分け進んだ山の中で手にした食材も道端で見かける草花も、そのままかじったり、調理してみたり。そんな毎日を過ごしていくうちに、自転車で山道を走っていく途中にもいろんな植物に目がとまるようになって「まきの葉あった!来週採りに来ようかな」「このふきは固そうだからイマイチかなぁ…」「塩漬け用の八重桜、もうとってもいいころ?」と想いをめぐらせるようになり、魚の授業が始まると海をのぞき込んで「あれは何の稚魚だろう」「小さすぎて三枚おろしは無理そう…唐揚げかな!」なんていう会話に。
 気持ちのいい場所だぁとぼんやり景色を眺めていた頃から約1か月。食材ハンターの目が少し養われ、“暮らしの場”として海士町の海や山の豊かさを感じとれるようになってきたのかも、と自分の変化にちょっぴり嬉しくなっているこの頃です。

春の里、山の幸。やわらかな新芽、山菜の苦みはこの時期だけの味わい。
早朝の静かな海。この水面下にたくさんの生き物がいる。

●つくること、食べること。大好きなひとびと。

 寺子屋生徒の私たちの頭の中は、朝から晩まで食べもののことでいっぱい。日々まめまめしく、食材を慈しむように料理をする人。植物学者のように、食べられる野草を収集する人。お魚をさばくときだけ無口になる人。キビキビと大量調理もこなす職人的な人。大好きなものをのびのびと、おおらかに作る人。サプライズでかわいい一品をおすそ分けしてくれる人…それぞれタイプが違うけれど、みんなの食に対する探求心はすごい。私はただただ、圧倒される日々です。
 休日には授業後に持ち帰った食材を使って、持ち寄りごはん会を開催。お鍋や炊飯器を持って、大きなお座敷のある西原邸にいそいそと集まります。事前にすり合わせしないのに、メニューが重なることはいまのところゼロ!「同じ食材でこんなに違う料理ができるんだね」「これどうやって作ったの?」「先生が食べたらなんていうかな~『まあまあやな』って言いそう。笑」出会って間もないのに、もう家族のような仲間たち。1年があっという間に過ぎていく気配は既に感じているけれど、限られた時間の中でみんなからたくさんのことを学びたい。残り11か月、よろしくね。

●絶対的な正解はない、という難しさ。

 使うのは水・昆布・かつおぶしのみで、量は同じ。それなのに1人ずつそれぞれの鍋でだしをとると全く違う味。初めて自分たちでだしをとった日、おっかなびっくり先生に評価を尋ねると、「正解はない。だしをのむ料理ならこっちがええやろうし、調味料を入れて炊くならこっちがええかもしれん。作る料理やその料理を出す順番にもよる。炊き合わせの一皿の中でも、最初に食べてもらうものか、土台になる食材に使うものなのかによっても違う。」との答え。えぇ…(泣)考えなくちゃいけないことが多すぎる!と頭を抱える私たち。「自分がおいしいと思うものを他の人はどう感じるのか。みんな食べてきたものが違うんやから、当然好みも違う。それはお客さんも同じ。シェアハウスで作る食事で実験したらいい。」
それ以来、何度かだしをとる機会があり「筍を炊くから、かつお強めでやってみよう」「今日は昆布の味を残してみたい」と考えながら繰り返し挑戦。少しずつ自分の意志を反映できるようになってきた気がします。桂剥きも、お魚をさばくのも、何をやるにもみんなの倍以上時間がかかるけれど、基礎をこんなに丁寧に練習できるのは、きっと寺子屋ならでは。この環境に感謝しながら、ひとつずつ着実に身につけていきたいと思います。

だしの味くらべ。

(文:島食の寺子屋生徒 河野)