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Rip Damo Suzuki

ジャーマンロックバンドCANのダモ鈴木が死んじゃいましたね。

CANはとても良いバンドでした。

ジャーマンロックのハンマービートやクラウトロックの延々と長尺のセッションの中でメロディーやインプロビゼーションを繰り広げるという方法論は自分の音楽に影響し吸収されていると思います。

ダモ鈴木の存在感や即興性のあるヴォーカルスタイルは、数少ない日本人で世界でも通用した特異でアンダーグラウンドな存在だったと思います。

実際地下アーティストだけでなく色んな有名なアーティストにも影響を与えていることは自分が言わなくても明白だと思います。

Rip

下記WIKIより抜粋。


経歴

ダモ鈴木の出発点は、音楽家と言うよりも、自由の境地を求めるボヘミアン、ヒッピーとしての生き方とリンクしたものであった。1960年代後半には新宿でヒッピー(フーテン)生活を経験、当時14歳で、「最年少フーテン」とも呼ばれた。また、当時のダモは、ジャズ、ジェームス・ブラウン、キンクスなどのファンだった。特にキンクスに関しては私設ファンクラブを主宰していた[1]。

高校中退後の1960年代後半、単身日本を飛び出し、アメリカへ密航。以後、ヒッピーとして世界各地を単独放浪。アメリカ25州を経て東南アジア諸国を回り、ヨーロッパへと渡り、ギターの弾き語りをしながら放浪の旅を続けた。海外放浪をしようと思ったきっかけについて、ダモ自身は元から地理好きだったこと、厚木基地の近くで育ったことを要因として挙げている[1]。

その際、金の無かった彼は、ヨーロッパの新聞に「パトロン募集」の広告を出し、物好きな金持ちが暫く彼の世話をすることとなる。その生活にも飽き、ヨーロッパでは、路上でギターの弾き語りをしていたが、当時はギターのコードも三つほどしか知らず、曲もすべて即興演奏していた。これが後のボーカル・スタイルの発端となる[1]。そして、人目を惹くため、長髪に火を点けたり、裸になったりといった、奇行の数々を繰り返し、ヨーロッパ各地を放浪していた。ダモ鈴木の名前は、森田拳次の漫画、「丸出だめ夫」に由来する。何をやってもうまく行かない漫画の主人公に自分を重ね合わせ、当初は、「だめ夫鈴木」と名乗っていたのだが、ヨーロッパの人々には、「だめ夫」は発音しづらく、いつの間にか訛って「ダモ」になったと言う。

当時のカンのライブ・スタイルは、地方であろうが24時間以上連続で演奏を続け、演奏中に交代制で仮眠と食事を行い、また演奏に戻るというものだった(例えば、「ユー・ドゥー・ライト」はアルバムでも20分超だが、ライブだと即興演奏により数時間に及んだという)。1970年4月、ライブ最中のカフェでの雑談で、カンを脱退したマルコム・ムーニーの次のボーカルをどうするかという相談を、ライブ中ながら小休止中のホルガー・シューカイとヤキ・リーベツァイトが行っていた。既に何度もオーディションを行っていたが、なかなか理想的な人材が見つけられなかった(それも「歌が上手すぎる」という理由による)。

そんなある日、ミュンヘンでのライブの小休止中に、路上でギターを弾きながら奇声をあげていたダモを、シューカイとリーベツァイトが発見。ダモはその時ミュージカル『ヘアー』出演のためミュンヘンに滞在していたが、それにも飽き街頭に飛び出していた時だった[1]。ダモは即日採用の上、ライブに出演。この時、当時のドイツ情勢を背景とした観客同士の乱闘騒ぎが発生し、数十人が警察に連行されるという騒ぎになる[2]が、バンドとして、この結果は大満足であり、これ以降ダモは正式なメンバーとして迎えられる。しかし、ダモはカンの音楽に興味も持っておらず、偶発的な出会いによって参加したにすぎなかった。この出会いについてダモは「年寄りみたいな人ばっかりで変なバンドだなって思ったよ」と語っている[3]。

ダモは以後、カンの全盛期を支える大きな力となった。即興的で型にとらわれないダモの歌唱法は、カンのサイケデリックな音楽によく合致し、他のボーカリストには見られない、類い希なフリークでアナーキーなフィーリングを生み出し、日本語による歌詞を配置した楽曲も少なくない。1973年にカンを脱退したが、リハーサル中に突然奇声を上げて飛び出していったと伝えられている。ただしダモは脱退の経緯、理由について積極的に語ろうという意思は持っておらず、経緯を含めた事情については判然としない[4]。

一時ダモはエホバの証人に入信し、その教えにより、音楽の世界から身を引き、現地でサラリーマンを勤めた。ガン治療に於いて輸血を拒否した事で体重が激減、ガン再発によって更に激減。その時の体重は30kg台とも言われている。

経歴

ダモ鈴木の出発点は、音楽家と言うよりも、自由の境地を求めるボヘミアン、ヒッピーとしての生き方とリンクしたものであった。1960年代後半には新宿でヒッピー(フーテン)生活を経験、当時14歳で、「最年少フーテン」とも呼ばれた。また、当時のダモは、ジャズ、ジェームス・ブラウン、キンクスなどのファンだった。特にキンクスに関しては私設ファンクラブを主宰していた[1]。

高校中退後の1960年代後半、単身日本を飛び出し、アメリカへ密航。以後、ヒッピーとして世界各地を単独放浪。アメリカ25州を経て東南アジア諸国を回り、ヨーロッパへと渡り、ギターの弾き語りをしながら放浪の旅を続けた。海外放浪をしようと思ったきっかけについて、ダモ自身は元から地理好きだったこと、厚木基地の近くで育ったことを要因として挙げている[1]。

その際、金の無かった彼は、ヨーロッパの新聞に「パトロン募集」の広告を出し、物好きな金持ちが暫く彼の世話をすることとなる。その生活にも飽き、ヨーロッパでは、路上でギターの弾き語りをしていたが、当時はギターのコードも三つほどしか知らず、曲もすべて即興演奏していた。これが後のボーカル・スタイルの発端となる[1]。そして、人目を惹くため、長髪に火を点けたり、裸になったりといった、奇行の数々を繰り返し、ヨーロッパ各地を放浪していた。ダモ鈴木の名前は、森田拳次の漫画、「丸出だめ夫」に由来する。何をやってもうまく行かない漫画の主人公に自分を重ね合わせ、当初は、「だめ夫鈴木」と名乗っていたのだが、ヨーロッパの人々には、「だめ夫」は発音しづらく、いつの間にか訛って「ダモ」になったと言う。

当時のカンのライブ・スタイルは、地方であろうが24時間以上連続で演奏を続け、演奏中に交代制で仮眠と食事を行い、また演奏に戻るというものだった(例えば、「ユー・ドゥー・ライト」はアルバムでも20分超だが、ライブだと即興演奏により数時間に及んだという)。1970年4月、ライブ最中のカフェでの雑談で、カンを脱退したマルコム・ムーニーの次のボーカルをどうするかという相談を、ライブ中ながら小休止中のホルガー・シューカイとヤキ・リーベツァイトが行っていた。既に何度もオーディションを行っていたが、なかなか理想的な人材が見つけられなかった(それも「歌が上手すぎる」という理由による)。

そんなある日、ミュンヘンでのライブの小休止中に、路上でギターを弾きながら奇声をあげていたダモを、シューカイとリーベツァイトが発見。ダモはその時ミュージカル『ヘアー』出演のためミュンヘンに滞在していたが、それにも飽き街頭に飛び出していた時だった[1]。ダモは即日採用の上、ライブに出演。この時、当時のドイツ情勢を背景とした観客同士の乱闘騒ぎが発生し、数十人が警察に連行されるという騒ぎになる[2]が、バンドとして、この結果は大満足であり、これ以降ダモは正式なメンバーとして迎えられる。しかし、ダモはカンの音楽に興味も持っておらず、偶発的な出会いによって参加したにすぎなかった。この出会いについてダモは「年寄りみたいな人ばっかりで変なバンドだなって思ったよ」と語っている[3]。

ダモは以後、カンの全盛期を支える大きな力となった。即興的で型にとらわれないダモの歌唱法は、カンのサイケデリックな音楽によく合致し、他のボーカリストには見られない、類い希なフリークでアナーキーなフィーリングを生み出し、日本語による歌詞を配置した楽曲も少なくない。1973年にカンを脱退したが、リハーサル中に突然奇声を上げて飛び出していったと伝えられている。ただしダモは脱退の経緯、理由について積極的に語ろうという意思は持っておらず、経緯を含めた事情については判然としない[4]。

一時ダモはエホバの証人に入信し、その教えにより、音楽の世界から身を引き、現地でサラリーマンを勤めた。ガン治療に於いて輸血を拒否した事で体重が激減、ガン再発によって更に激減。その時の体重は30kg台とも言われている。

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