【考察】アマガミ討論会 第二夜 森島はるか編
1. 丘の上の家
やわらか田山こと田山花袋です。
こちらクニキダー・ドッピオこと国木田独歩君です。
国木田です。
本日のアマガミ討論会は、国木田君のお宅からお送りします。いかがお過ごしでしょうか。
ライスカレーを拵えようと台所に行ったところ、田山君が勝手口に立っていました。何してるの。
それにしても好い処ですね、君。この佇まい、如何にも武蔵野っていう気がする。
はい、アマガミ討論会です。今夜は主に森島はるかについてフレッシに語っていきたいと思います。
アマガミ考は森島はるかに始まり、森島はるかに終わる。これは楽しみだね。
案外と型を気にするんですね。硯友社かな。
いやしかし、この討論会はぜひ永く続けていきたいね。まア、6回くらいかな。
えらく妥当な目標設定で何よりです。
■ 国木田の家は六畳一間、そのつぎが二畳、その向こうが勝手になっていて、何でも東京の商人が隠居所か何かに建てたものであるということであった。室の隅には絢辻詞のB2タペストリーと書棚、そこにはウォルズウォルス、カアライル、エマソン、トルストイなどが一面に並んで、森島はるかのねんどろいどが尻を突き出し、隣にはゲエテの小さな石膏像が置いてあった。一閑張の机の上には、『国民の友』『女学雑誌』『TECH GIAN』などが載せてあった。
前回は輝日東が常世であるとか、橘純一が常世の花「橘」を冠していて、永続性の象徴であるというような与太話を中心に語りました。田山君が。
輝日東っちゅうのはニライカナイやね。
田山君、そこですよ。よく分からないのが。
どこです。
先の君の話は「常世国」の話に終始していたでしょう。だのにどうしてニライカナイとかいうタームを初っ端に持ってきたのか。まア、きっと上崎裡沙を始点に考察したのでしょうが、遠来者が云々とか琉球が何うとかって論点は必要でしたかね。
国木田君、今日はいやに積極的だね。
昨年末のアレに思うところがありましてね。ああいった雄弁な解説者にやっつけの応答を返すものは、ダイアローグじゃない。少し実篤の本でも読んで対話を勉強なさると良い。
むむむー。
私も“考察水差し男”に徹するのは癪ですから、イニシアチブを取ります。今回はきちんと対話に舵を切った上で、頓痴気を咎めます。
この間は、これからというところでエンディングに差し掛かったのが悔やまれるね。国木田君、僕は「ローカル」を語りたかったのだ。
そうなんですか。日頃しているローカル・カラーの議論とは様相がまるで違いましたが。
「ローカル」を描くには他の地方と比較してやらないといけない。これを考えずに、到底真に迫る小説を書くことは出来ないからね。輝日東という土地を考察するには上崎裡沙を手掛かりとして然るべきだ。当然、沖縄の信仰や風俗などをもっと掘り下げて語ると分かり良かったろうね。
互いに反省があるということですね。進歩のあとが見られるならば、まアよかった。
それじゃア、森島はるかの話に移る前に上崎裡沙と琉球の信仰について軽く触れておこうか。
■ 炊飯終了を知らせる『アマリリス』のメロディ音が鳴った。国木田は「失敬」と言って、そそくさと台所に行った。先頃からすでに居間の方まで、煮えたカレーの匂いが充満していた。炙った肉と玉ねぎとスパイスの絡み合った、何とも言われぬ複雑な甘さのある香りだった。
■ 飯をかき混ぜている間に、田山がサッカレーとカツカレーを捩った秀逸な冗句を用意してきたと二、三度叫んだが、国木田はしゃもじで釜を打って聞こえぬふりをした。かれの俗物根性を衒った芸風が、いつか田山自身の童貞説に深遠なる拗れをもたらす気がして、国木田は厭だッた。
盛り付けを終えて食卓に皿を持って行くと、田山は少し前屈みに座っていた。
田山がカレーを匙でかき混ぜて食ったのを見ると、国木田は、薄笑してからルーを掬って口に運んだ。
武蔵野の夜は月が明るかった。
山茶花が刺繍でもしたように紅く白く硝子窓に映った。
旨いな、実際旨い。
まずはキャラクターの概要を振り返りましょう。
上崎裡沙は、メインヒロイン6人を攻略した後に出現する隠しヒロインです。ここで言う「攻略」とはスキエピローグかナカヨシエピローグを見ることを指します。
Dr.ワイリーだね。
キャッチコピーは「スニーキングヒロイン」です。よく間違われますが、ストーキングではありません。sneakはこっそりと忍び歩くという意味です。隠しヒロインに相応しい称号ですね。
自己中心的な卑怯者というニュアンスもあるね。
インタビュー等を見るに上崎裡沙と七咲逢は切羽詰まった制作状況の中から生まれたキャラクターのようです¹⁾。実装されて良かったですね。
七咲逢を入れないアマガミなんて……
田山君、七咲逢スキBESTの顔してますからね。
■ 田山は、手慰みに皿に残ったカレールーを掬い取っていたが、匙を置いてグラスの水を一気に飲み干した。かれの喉周りには、幾らか髭が剃り残してあった。
2. 兄の妹の力
田山 ……んん、裡沙ちゃんと言えば、功罪相半ばするキャラクターです。2年前のクリスマスの件は、良かれと思ってやったことで橘君にトラウマを植え付けてしまった。
国木田 その件は全然同情するのですが、それからの2年間は嫉妬や欲求不満を主たる動機として橘君のロマンスを妨害していました。
田山 不器用な恋やね。
国木田 ヤ、悪い子じゃないんですが、贔屓目に見てもきちんと悪意をもって事を起こしていますし……これに釣り合う「功」って何でしょうかね。
田山 美也に「にぃに」を伝授しました。
国木田 赦されましたね。沖縄出身の設定も、ここに活きて来る。
田山 実際、重要なんだよね。美也の特徴的な二人称が上崎裡沙を仄めかす伏線であるのも然ることながら、これこそが、輝日東に、もたらされた、最も重要な、琉球の、フ、風俗、フーッ!
国木田 落ち着いてください。
田山 〈妹の力〉だ。これがアマガミ世界を、支配的に作用しておるのです。
国木田 ……ちょっと聞いてみましょうか。
田山 琉球王国の信仰基盤には「をなり神」がある。琉球で生まれ育った女子っちゅうのは、兄弟を持つと霊的な守護の力を宿すんやね。この霊力を頼るのが「をなり神」信仰²⁾。特に海人たる男性が「をなり神」に肖って海上安全を祈願していたのだ。こういう近親女性の霊力を原理とするシャーマニズムの伝統を〈妹の力〉と呼ぶね³⁾。
国木田 柳田君から聞いたことはあります……「妹」というのはイモウトというか間柄の近い女性のことですかね。
田山 たとえば沖縄県南城市久高島には「イザイホー」と呼ばれる祭事が600年以上連綿と受け継がれていた。これは島の女性がニライカナイから来る神の認証を受けて神女になる為の試験やね。彼女らに宿された「をなり神」の霊力のおかげで、島の男性諸君は故郷を離れても安全になるっちゅう、そういう成年の通過儀礼です。昔は南島全体で行われていた祭りだと伊波普猷君は推測している²⁾。
国木田 その話を聞く限りだと単に社会学上の「同胞の男」を守護する霊力でもなさそうですね。知らないけれども。
田山 たしかに姉妹で敷衍しているが、おそらく母性原理の精神性より出で来る信仰だね。女性の霊威が母から娘へ継承されて、近縁の男を助けるっちゅうことやね³⁾。ここで大事なのは南島では女性が祭祀継承の中心だということで。
国木田 ハハ、出ました。妣の国ですよ。
田山 ──まア、そんなイザイホーの祭りも過疎が原因で1978 年を最後に開催されていない。こうして儀礼は時代と共に鳴りを潜めるものだけれども、習俗というのが生活に根差したかたちで残り続けるのです。特に、兄と妹の間に並々ならぬ縁があるっちゅうのは、沖縄文化のエッセンスだ。その霊的な結びつきの強さは夫婦を超越するとされる⁴⁾。
国木田 田山君、怖いので、そろそろアマガミに話を戻してください。
田山 つまり、つまりだね、沖縄口風に「にぃに」と呼ぶのは、琉球の信仰を背景としたある種の習俗的行為なのだ。“本当はにぃにってよぶんだよ”という台詞からも分かる通り、上崎裡沙は「をなり神」信仰の伝道者である。美也にも守護の霊力を付与したんやね。
国木田 うーーーーん、あア……。いや、後半は明らかに言い過ぎです。全くトンデモの域は出ていない。霊力を引き合いに出す批評などもってのほかですよ。
田山 むー。
国木田 が、何でしょうね、現象学的批評とすれば、全否定するほどでもないというか。
田山 国木田君!
国木田 ……伝道者の件は却下するとして、裡沙ちゃん自身も橘君を「にぃに」と呼びますでしょう。これに前々から少しばかり引っかかりがあったのです。と言うのも、ラブコメ通念上「兄妹のような関係」という括りはボトルネックですよね。ほら、中多の紗江ちゃんも実際こう言ってます。
国木田 あるいは愛した女性が、実は生き別れの妹だったというようなメロドラマを思い浮かべてごらんなさい。君らが好きそうなところだと、ジークムントとジークリンデとか。ギリシア悲劇ド定番のアナグノリシスというものでしょう。
田山 それ国木田君の書いた『運命論者』もだね⁵⁾。
国木田 ……そう、だから言っているのです。男女の恋愛を阻む悲劇的な装置として「兄と妹」はありふれている。裡沙ちゃんの性格からして、果たしてそこに甘んじるのかと。
国木田 しかし背景に「夫婦を超越する霊的結びつき」を見ると、かえって擬似的な兄妹関係に拘ったとしても、まア破綻は少ない。寧ろ儀礼の一環ですか。
田山 流石、国木田君。「をなり神」信仰の現れに他ならないね。一応、付け加えておくと上崎裡沙っちゅうのは、占いやゲン担ぎを異常に重んじる子です。
国木田 田山君なんて比じゃないね。怖いですよ、この子。己の願望を語るために、都合良く誤謬を操っている。裡沙ちゃんに「考察」してもらうべきだ。
田山 この独白には続きがある。これがまた実に興味深いね。
国木田 あア、言った。いま「にぃに」って。
田山 実際、彼女にとっては同列なんだね。奇天烈な占い雑誌の導きも、擬似的な兄妹関係も。全ては呪術ということだね。
■ 田山は目を細ませながらそう言うと、匙にこびりついた飯粒をべろりと舐め取った。カレーが存外辛かった所為か、田山の皮膚は汗で薄ら湿っていた。国木田は、以前雑誌で読んだ南米の灌木地に生息する何とかいう蛙のことを思い出していた。上崎裡沙の功とは、純粋にその風貌の異常に可愛らしい事であると、国木田は思い始めた。
田山 さて、国木田君にも納得してもらえたね。上崎裡沙が輝日東にもたらした「をなり神」信仰の話でした。ここから橘純一を取り巻く〈妹の力〉の話に繋がるわけです。
国木田 いや、いや、田山君。やはり忘れてください。今のような詭弁を世に出してはならない。
田山 ……まア良い、帰納的推論です。これから、あれこれ語るうちに自ずと見えてくる。国木田君も早くこちらにおいでなさい。
■ 田山は、箱からティッシュを一枚取り出して無造作に口の周りを拭い、ぐしゃっと丸めてテーブルの上に置いた。
国木田 えっと、〈妹の力〉ですか。柳田君が実際そういう研究をしていたのは知っています³⁾。君らがアマガミのヒロインを直ぐに巫女だとか、女神だとか言うのも、それでしょう。
田山 そういうことやね。皆、霊力を宿した女性。一つ一つのイベントが、呪術やね。絢辻詞の物語は祭祀の継承を主題に描いとるわけだし、ツカサっちゅう名前も、そういうことやね。
国木田 そんな観念ばっかりなンですか。おっかないなア。
田山 ただし、今夜扱う「妹」は「をなり神」を前提としているから、主に「同胞の女」について考えているよ。特にイモウトやね。その点で若干、松岡君の用語より狭い意味での〈妹の力〉かもしれんね。
国木田 橘純一を取り巻くイモウトということならば、差し当たって思い浮かぶのはやはり美也ですが。
田山 そう、確かに美也はアマガミに作用しとる大事な〈妹の力〉だね。
ここでエティエンヌ・スーリオの諸機能⁶⁾から劇的状況を見てみよう。
獅子座:♌︎「主題」
太陽:☉「価値」
地球:♁「受恵者」
火星:♂「反対者」
天秤座:♎︎「審判者」
月:☾「補助者」
田山 これに倣って言うと、美也っちゅうのは橘純一の恋愛物語を次の3つの劇作機能でもって救ってくれるわけだね。
☉「価値」
♎︎「審判者」
☾(♌︎)「主題の補助者」
国木田 プロップとかスーリオとか、好きだね君たち。まア、大体言いたいことは分かります。まず ☉「価値」というのは、あれでしょう。
田山 ウフフ、これはいかんね。こういう歌詞は、いかんよ……
国木田 ええ、いかんでしょう。ねえ。
■ 田山は、ゆっくりとまぶたを閉ざし「イエス、アスミス……」とうわ言のように繰り返し囁く。国木田は静かに、胸の上に十字を画いた。
国木田 ☉「価値」とは要するに主人公が追い求める“何か”のことですから、恋愛SLGのヒロインというのは基本的にこの機能を持っています。まア美也自体は攻略対象でないが、個別ルートのあるキャラですのでギリギリ該当しますかね。
ヒロインの誰とも「スキ」か「ナカヨシ」になれなかった場合の誕生日(31日目)放課後イベント(24, 34)が美也の出番になっておりまして、これが3択の選択肢まで設けられている凝った造りなんですよね。仮に全く攻略が振るわなくっても、ハズレを掴まさないようなフォローがあるわけですね。田山君はここに美也のオルタナティブな ☉「価値」を見出したのだと推察します。
国木田 まア初っ端から散々虐められているので、橘君に逃げ場をつくってやるのは頷けます。開幕、押入れプラネタリウムの件で一頻り戯れあった後、シリアスなトーンで慰められますでしょう。私これ好きですね、みじめだが幸福な男という気がして。彼は主人公だから ♌︎「主題」でありつつ、♁「受恵者」なんですよね。問題は、梨穂子と梅原と妹の美也が、初めから ☉「価値」であることに在るのかもしれませんが。
田山 兄の寂寞を妹が慰める、これもまた古風なる〈妹の力〉であるね³⁾。
国木田 戻ってきましたか。それはそれでだなア。
国木田 それから、♎︎「審判者」でしたか。これは端的に言えば ☉「価値」の配当を判断する機能ですね。美也は『アマガミ』の恋愛を俯瞰できる数少ない人物ですから。あとは塚原響、茶道部のお二方など、この機能を担う登場人物は限られています。
田山 ♎︎「審判者」はグレマスの行為項モデルだと「送り手」に該当する機能と言っても好いかな。にぃにが「対象」となる女の子に相応しい人物か否か、審判しとるわけだね。
国木田 あア、それで言うと物語外のお話ですが「美也チェック」という名称でゲームシステムにも組み込まれています¹⁾。
田山 日々の積み重ねが大事なんだ! って、館林藩士が言ってたよ。
国木田 それは田山君のお父さんね。
田山 難題(M)を課す「王女あるいはその父」です。
国木田 まア、いわゆる「好感度を教えてくれるキャラ」は ♎︎「審判者」の機能でもあるんですかね。これは『トゥルーラブストーリー』シリーズから伝統的に主人公の姉か妹が担っている役回りです。
田山 流石に〈妹の力〉だね。作品を超越して、霊力の継承がある。
国木田 ……☾「補助者」というのは一番分かりやすいですね。♌︎「主題」である兄を助けるから ☾(♌︎)と表記するべきですか。
田山 ☾「補助者」は行為項モデルでも同じく「補助者」に当てはまるだろう。
国木田 美也がヒロインとの橋渡しになってくれると言いたいのでしょう。私の記憶が正しければ、中田紗江イベントでは 40 回、森島はるかイベントでは 19 回ほど、美也が登場していたかと思います。柳田君は「補助者」の枠にGODとか「犬の力」を当て嵌めていましたが、結局〈妹の力〉なんですかね。
田山 はい、国木田君、そこです。そこ。
国木田 どこです。
田山 今夜のテーマは森島はるかだろう。彼女との恋愛物語に、如何なる〈妹の力〉が作用しているか、これまでに議論した事柄を踏まえて考えて行きたい。
そこで非常に効いてくるのが、月。☾「補助者」という機能です。
国木田 なアんだ、三段跳びだったわけですか。田山君、今夜は森島はるか編だッてことを忘れているのかと。
田山 ここから漸く、本編が始まるっちゅうことです。
■ 国木田は、喋り出そうとする田山を掌で制して食器を片付け始める。田山が口を拭き取ったティッシュを摘み上げ、皿の中に放り投げた。
国木田が食器を湯に浸けていると、今度はディケンズとカツカレーを捩った秀逸な冗句を用意してきたと叫ぶ声が聞こえた。一体どう捩るのかは解らんが、サッカレーと比べればディケンズの方が幾分かカツカレーの似合う男だろうと、国木田は思った。
台所の硝子戸を透して見た山茶花は、殊に好かった。月に照らされた赤い花と緑の葉とが、いかにも冬の夜の冴えた空気の中にぴたりと捺されてあるように感じられた。
3. 海の上の国
田山 ときに国木田君、森島はるかとの恋愛物語にはキーアイテムとなる呪物がありますね。それが、手巾だね。
国木田 手巾。ハンカチとか手拭いとか、タオルとかそういう手巾ですか。
田山 そう、まさしくハンカチだね。橘純一君は頻繁に美也のハンカチを携行しているが、これが幸いするのです。
国木田 高校生でしょう、妹のハンカチを持ち歩いてること自体は兄妹あるあるの一環だと思いますがね。まア、一番印象的なのは、美也の「ダッ君ハンカチ」を森島はるかに拾われてしまうイベント(36, 33)ですか。
田山 その通り、これを皮切りに「動物好き」っちゅう森島はるかの核心に迫る情報が開示されるのだね。極めて重要なトリガーです。
国木田 なるほど。まるで平凡に思える「動物好き」設定のどこが核心かというと、その先には獣医とかペットトリマーとかいった目標とその挫折(54, 37)、それから愛犬ジョンの死と1年前の邂逅(55, 35)と……森島はるかの含み持つ何かしらシリアスな事情が控えていますからね。
田山 そういうことだね。これらのイベントをもって森島はるかの全能感は喪失されている。実に大事な情報だね。更に言うと、ハンカチを介して「秘密の共有」が為されたと解釈出来る。
国木田 秘密の内容自体はパッとしないですがね。絢辻詞のそれと比べると可愛い……可愛すぎるものですが、まア確かに、これも一つのクロージング効果と言えますか。ひびきちゃん知ってるんですけれどね(46, 42)。
田山 親友の塚原響というところに具体的な他者をおいている分、グッと距離が縮まって思えるね。君の言う通り、ここで共有された秘密は一般にロマンスを加速させるものではない。寧ろ少女趣味であるのと保護者(塚原響)があるのと、森島はるかの少女性が二重写しで浮き彫りになってしまうね。少女性は素晴らしいが、“彼氏彼女”になるためには妨げとなる。
国木田 まア、だからこそ塚原響にも恋愛絡みの隠し事をするようになってくると(53, 35)いよいよ本気で「スキ」だろうと。
田山 ウフフ、そういうことやね。
国木田 「ダッ君ハンカチ」そのものが「にゃんにゃん攻撃」に派生するイベント(53, 35)の布石だとは思いませんが、うーん、終盤まで効いてくるフックだという指摘くらいなら、まア、飲み込んでみても良い。
田山 ハンカチを介して美也の ☾「補助者」的な機能が作用しているのです。そして、何よりハンカチであることに呪的な意義がある。
国木田 けれども田山君、これってマクガフィンでしょう。絢辻詞の手帳が暴かれずに燃やされてしまうように、プロットを進めるためならばアイテムの内容は何だって好いのですから。
田山 それも一理ある。が、しかし──
国木田 こういった小道具にいちいち気を取られてしまうのは健康的じゃアないですよ。野暮な批評に遭わぬように、これからのマクガフィンは全て【考察無用】とシールを貼った段ボール箱にするべきなんだ。
田山 国木田君、マクガフィンだとは言うが、アマガミは呪物を偶然に「拾う」モチーフが繰り返されとるわけだよ。「拾う」こともまたアマガミの根底に横たわる最も重要な呪的行為であるのだが……今は詳述を避けよう。
田山 アマガミを語る方は大きく二通りある。“fetishism”(呪物崇拝)と“フェティシズム”(フェチ)だ。このあわいに、深く貴い真理が潜んでいる。それはちょうど、ライスカレーのようだ。炊きたてのライスが美味なるルーを下支えしてこそ、旨いじゃないか。
国木田 巧くないですよ。
田山 何と言っても“fetishism”(呪物崇拝)の吟味には、重大な意義がある。僕らは十分な飯が炊けていないがゆえに、余りあるルーを食い切れていないのだ。
国木田 田山君は初めから渾然一体のライスカレーを食う男でしょう。
田山 あわいを食っとるのです。ライスとカレーと『牛肉と馬鈴薯』と。
国木田 はい……それで、ハンカチが何でしたっけ。あれが呪物ですか。
田山 ……そう。他でもなく〈妹の力〉が宿った呪物です。「おみなり手巾」とか「妹神の守り手拭」とか言うが、八重山などを中心に、南島には海上安全のお守りとして兄が妹の手巾を持って行くっちゅう習俗があるんやね²⁾。フレイザーが言うところの感染呪術の一種で、当然「をなり神」の霊力が宿っとるのです。だからこれを携行することで、森島はるかとのラブ・ロマンスっちゅう長い船旅に、安全に漕ぎ出して行けるわけだね。
国木田 はア……。船旅ね。
田山 あるいは、27 日目の休3イベント(12, 38)では偶然持っていた「ダッ君ハンカチ」を、泣いている女子生徒に手渡すだろう。この一部始終を見ていた森島はるかのテンションが上がるね。
国木田 さっきのイベントと地続きでしょう。美也のアシストと言うにはあまりに迂遠じゃありませんかね。
田山 感染呪術とはそういうものです。
国木田 それなら……ハンカチのイベントから派生したもので、森島はるかから手巾を受け取るパターンがありますが、どう考えますか。ダッ君愛好家のよしみで「タネウマクンタオル」を渡してくれるイベント(37, 33)というのがありますよね。
田山 ウフフ、冴えとるね、国木田君。
国木田 逆に9日目までにこれを実行しないと、残念ながらタオルを貰えない(39, 31)。そればかりか、“シリアイ”では下着泥棒の嫌疑をかけられます。この時に潔白を証明する手段を一つ失ってしまう(45, 42)。
田山 あるいは、森島はるかとの不和を思わせていた美也が、彼女から「ダッ君タオル」を貰って上機嫌になっている(43, 31)こともあるね。タオルを貰うこと自体が一つのメルクマールであると言っても良かろう。
国木田 それも例の呪物ですか。
田山 もちろんこれらのタオルも「おみなり手巾」やね。だが、これに関して語るには少し付け加えるべき別の文脈が想定される。ここで一挙に語っても良いが、まア、七咲逢編でも改めて……。
国木田 七咲と言えば、橘君の顔面に美也が書いた「一等 ハワイ」という文字を見て七咲が吹き出すイベント(26, 37)があります。これも七咲からタオルを貸してもらいますが、これも呪物でしょうか?
田山 〈妹の力〉だね。輝日東では「ハワイ」が東方浄土のシンボルなのだよ。東方への船旅に対する美也の願掛けが、連鎖反応的に七咲の「おみなり手巾」を動かしたと……そういう……そういうことだね。
国木田 言わせておいてなんですが、だいぶ苦しくないですか、田山君。
田山 ・・・
国木田 一応“フェティシズム”的にこのイベントを噛み砕いてみると、橘君自身が「七咲の笑顔が可愛い」のに気づく上「使用したタオルを洗わずに返して良い」なんてところに嬉しい距離感を思わせるものでしてね、実に好いラブコメです。
田山 む……そうか、あア。
国木田 田山君、洗わなくとも良いのですよ。七咲のタオルを。
田山 ……あア、いかん、いかんよ! いかんいかんッ!
■ と、怒鳴ったかと思うと田山はグラスの水を頭から被らんばかりの勢いで飲んだ。国木田は、何時ぞやの龍土会の席上で『蒲団』の批評をしたときのことを思い出していた。この男はつくづく恋愛に関して甘いところがあるし、先ず七咲逢を好むに違いないと国木田は思っていた。
田山 ……七咲はともかく、手巾に拘らずとも「をなり神」や〈妹の力〉で呪物の意義を読み解ける箇所がまだ幾らかある。
国木田 切り替えが早い。
田山 特筆すべきは「ちょっとおまけ劇場」の美也編『Grown up!』だろう。橘純一の大学受験と巣立ちを通じて兄妹関係の機微を描いとる、名作だね。
国木田 『Grown up!』ですか。橘純一の入る大学がトンデモ離島にあるという設定でしたよね。それで美也は自分に相談なく巣立っていく兄を許せなかった。アルバイトで貯めた資金で合格祝いの「プレゼント」を買っていたが、それも渡せず。しかし兄妹で輝日東をデートしてお互い成長したことを確認しまして、無事バイバイにぃにできるようになりました。餞別という形で件の「プレゼント」を渡せたよ、というようなお話ですね。
田山 解説どうも。その後、美也も同じ大学に出願するから結局一緒に暮らすことになりそうだ、というオチがつくが、まア好いね。
田山 一見すると美也の成長小説だが、本質は「英雄の旅」なのです。このシナリオにも呪物が出てきとるわけだが、分かるね。
国木田 まア、出立の前にくれる「プレゼント」のことが言いたいのでしょう。
田山 その通り。故郷を離れて離島へ引っ越す兄に、妹が何かしら持ち物を渡す。伊波君曰く、沖永良部島などにも近頃までこういった習俗があった²⁾。まさしく「をなり神」信仰やね。
国木田 習俗認定の閾値が低すぎませんかね。
田山 「プレゼント」の内容が明かされないということは、まさに君が言うようにマクガフィンだってことやね。何だって好いっちゅうのはその通り。実際は袋いっぱいに美也の頭髪が入っているかもしれん²⁾。
国木田 マジで泣きます、それだったら。
田山 最初に敢えて「プレゼント」を取り下げたのも、イニシエーションの一環やね。橘兄妹が輝日東を立つ前に乗り越えるべき最後の試練だったと読める。
国木田 そうですか。うーーーーん……。
田山 国木田、何か疑問があれば遠慮なく言ってくれたまえよ。
国木田 疑問といいますか、気に食わん点は腐るほどありますよ。まず柳田君が言う〈妹の力〉が先入見にある点も、決して十全に納得行っているわけではない。
田山 そうか、他にも例を挙げて話そうか。
国木田 いや、不肖国木田、百歩譲ってこれを受け入れたとします。
国木田 『Grown up!』のように、実際に離島へ引っ越す状況で、海上安全を祈願する類の習俗を引き合いに出すのは、この際良しとしますよ。偶然生じた構図を田山君はそう捉えたと。それはそれで面白いオカ……テーマ批評です。
田山 国木田君は、優しいね。
国木田 あア、わかりました。今回のお題である「森島はるかとの恋愛」と「船旅」のアナロジーがずっと腑に落ちていない。
国木田 田山君はハンカチの深読みをひけらかしたいがために、「海上安全」の呪物だのに「恋愛成就」の効験に挿げ替えて語ってしまっているんです。
田山 ──ほう。
国木田 ここに乖離があっては、オカルトにしても拙いですよ。巧い喩えと言えるほどの詩情もないですし。
田山 ……なるほどね。説明しよう。実は『Grown up!』ではもう一つ呪物が登場する。こちらは正真正銘の「お守り」です。要は、美也が「合格祈願」のために「安産」の神様で有名な神社にてお守りを授かってしまうという挿話があるね。
国木田 はア。
田山 これは決して単なるギャグではないんだ。ここで起こったアクロバティックな効験の読み替えを、読み手側にも要求しとるんだね。
国木田 ハハハ、潔いくらい間に合わせの屁理屈だなア。君のそれがギャグです。楽な解釈に逃げている。
■ 国木田は大仰に肩を竦めて見せた。田山は一瞥もくれることなく、虚空を見つめて呟く。
田山 ……しかし、そうか。そこのところ前提が共有されていなかったか。クフフ。
国木田 笑っているんですか。
田山 国木田君、森島はるかとの恋愛っちゅうのは、「船旅」だよ。
『アマガミ』の恋愛っちゅうのは、「船旅」なんだよ……。
フピュゥ〜〜〜〜ゥイウィッ!
国木田 田山君……?
■ 田山は徐に立ち上がると指笛を吹いた。すると、モーターのけたたましい駆動音を伴って書棚が回転する。モウパッサンが何冊か床に崩れ落ちた。間もなく、書棚の裏から120 インチのスクリーンが姿を現す。
国木田 勘弁してくださいよ、ここ僕の家です。どうなってるの。
■ 田山が指を鳴らすと、書棚の背面の小窓が開き、ゲエテの石膏像が台座ごと迫り出してくる。ふと部屋の照明が消えたのも束の間、ゲエテの目が案の定光りだし、白いスクリーンに青い光を追従投影する。画面の隅には白字で[入力]と表示されていたが、数秒後以下のように切り替わった。
田山 なんだこれは。
国木田 田山君、尻です。森島はるかの尻が。
■ 田山は一つ咳払いをすると、ドイツの大詩人ゲエテを前に照れ顔で背を向け膝裏を披露している森島はるかを取り上げ、国木田に渡した。
田山 まず見ての通り、これは南方熊楠説の補足あるいは再解釈だ。森島はるかが水の女であることは間違いない。それを裏付ける数々の神話的モチーフ、霊的なアニマの元型が、森島はるかに集積しとるね。
田山 ただ僕は、彼女が人間の女性であることも否定しない。〈妹の力〉を宿した、人間の女にして、女神。巫女というよりも、やはり神女と呼ぶべきものだろうね。
国木田 それは別にどうでも良いでしょう。というよりも田山君、これは……
田山 豊玉姫から話そうか。森島はるかとの恋愛のスタート地点っちゅうと1年前のクリスマスだね。丘の上公園で偶然に出逢った森島はるかから、橘純一は「水平線の彼方にある景色を見よ」との命を受ける(55, 35)。亡くなった愛犬ジョンが見ていた、水平線の彼方です。そう、森島はるかとは言わずもがな、水平他界への先導者です。
国木田 何でそうなっちゃうかなア……
田山 このとき、2年前のクリスマスに象徴的な死を経験した橘君の彷徨える魂が輝日東高校に──あるいは常世国に、誘われたんやね。
国木田 あれが象徴的な死っていうのは共通認識で宜しいんですか。
田山 さて、スタート地点は分かった。ではゴール地点は何処か。それが、ホテルだね。スキBESTクリスマスイベント(57, 30)のタイトルは「ホテルで告白」、スキBADエピローグ(58, 29)は「ホテルで総会」になっとるね¹⁾。
国木田 スキBADのタイトルそんなでしたか。プレイしていると実感はないですがね。この構図が意図して対になるように作られているとしたら、まア、スキルートのゴール地点と言いたくなるのも分かる。
田山 奇しくも同じ「エレベーター」で森島部長と一緒になってしまうのも皮肉が効いてくる。
国木田 同じホテルかどうかは置いといてね。
田山 ちなみにナカヨシエンドのタイトルは「海へドライブ」です¹⁾。
国木田 ……うーん、海。
田山 スキBADの方は定かではないが、スキBESTに出てくる件のホテルのモデルっちゅうのが木更津にある「龍宮城スパホテル三日月」やね。「龍宮」とは他ならぬニライカナイのことです⁸⁾。そしてその先導者ったる彼女は豊玉姫に違いない。a.k.a.乙姫です。浦島太郎の海神宮訪問神話でお馴染みだね⁸⁾。火遠理命との異類婚姻譚の主人公でもある。
国木田 ・・・
田山 ご存知の通り、異類婚姻譚というのは「見るなの禁」とか「禁室型説話」と呼ばれるプロットを伴うことが多い。出産を見るなとか、浴室を覗くなとか、玉手箱を開けるなっちゅうのもそうだよ。フランスの伝承に出てくる水の妖精から名前をとって「メリュジーヌ・モチーフ」とも呼ばれているね。
国木田 いいですよ、何故か全部知っていますから。
田山 龍宮城もさることながら「三日月」の方にも注目したい。風呂を覗くモチーフと言えばアルテミスとアクタイオーンの伝説が有名だが、三日月と熊はアルテミスのシンボルっちゅうのは、もういいね。アニメ版では「GAME LUNA」で「クマのぬいぐるみ」を狩るが、ゲーム版では「三日月工房」というアンティークショップで「クマのぬいぐるみ」を買う(47, 39)んやね。メディアを越えて反復されるモチーフということは、そういうことやね。
国木田 うーーーーん。
田山 アルテミスと言えば日本では彼氏のオリオンを射抜いてしまった⁹⁾男殺しの天然女王として知られとるね。そうすると橘君はオリオンということになる。アルテミスがオリオンの死を嘆いて夜空に浮かべたのがオリオン座で、これがエジプトではオシリスに比定される。おおいぬ座のシリウスは、オシリスの妹にして妻イシス……美也のことやね。そう、押入れプラネタリウムは小宇宙でありアマガミ世界の縮図だ。ここにあらかじめ、全てが記されている。オシリスがイシスの助力を得て、死と再生の物語を奏でるように¹⁰⁾、アマガミ全体もそういう構造になっとるんやね。押入れプラネタリウムとは彼の胎内回帰であって、彼は潜在的に「水平に流れる時間」から解放された「龍宮城」を希求しているっちゅうことです。もし森島はるかの誘いを受けて風呂を覗き、「異類婚姻譚」の中に参加して仕舞えば、彼の成熟は果たされずに〈永遠の少年〉となる。さながら『かえるの王さま』です。要は「見るなの禁」の構図をいっぺん壊すことが変容に必要なイニシエーションであると、そう解釈することもできる。「龍宮城スパホテル三日月」という名前からして、彼の再生の儀式が行われるに相応しい場だと分かるね。
■ 国木田は、聞こえよがしに溜め息を強く吐き切った。両の掌で包むようにして抱えていた森島はるかを、テーブルの上に置く。湯を張った桶に水滴の落ちる音が、台所から聞こえた。
国木田 ……ちょっといいですか、田山君、これはひどいですよ。スロットルが急回転していて聞いちゃいられない。言ってることも今どき流行らない──いや、流行る「考察」は得てしてこういうものか。ともかく批評でも何でもない、妄言だ、これは。
田山 わお。
国木田 まずもって「ホテル三日月がモデルだから〜」から始まる考察はナシですよ、冷静に考えて。お笑いでしょう。
田山 僕も、僕も……初めはそう思った。だが、キビトランドのきびにゃん水没事件の例があるだろう。このホテルについてもモデルを絡めて語りたいんだ。
国木田 ……鹿島神宮の時もそうでしたが、田山君も「聖地」らしい「聖地」の話を参照してるじゃないですか。良いんですか、そこは。
田山 そりゃア「聖地」を議論に含めるのは、忍びない。……するにしても『アマガミSS』を取り沙汰する方が具合が良いのは、わかっている。まア、本来この討論会に持ち込むべきでない……。
国木田 ごめんね、盛り上がっていたところ。
田山 ……恐らくスパ付きホテルを登場させる時点で「龍宮城」に着想を得たのは間違いない。しかし、この場合「モデル」とゲーム内に描写されるそれと、大きく乖離する恐れがあるよね。それは、何とか避けたい。
国木田 田山君、そういうことではなくてね。
田山 ということで、これは僕のけじめです。今回の討論会に向けてフィールドワークに行ってきました。
国木田 田山君?
田山 ここからは実際に見聞きした“天然”の風景を供覧しつつ一次情報に基づいてお話したいと思う。
国木田 何か始まるんですか。
田山 フピューゥッ!
■ 田山の指笛を合図に、スライドショーが始まる。『The place I met you / 恋の生まれる場所』がバッグ・グラウンドに再生され始め、そこにあらかじめ録音された田山のナレーションが重なる。
国木田 いや、くだらん、要らないですよ。早く次行ってください。
国木田 何でこんなブレブレなんですか。
国木田 はい、はい結構です田山君。ありがとうございました。龍宮城スパホテル三日月、素敵な所でした。一度は行ってみたいですね。
田山 どうだろうね、国木田君。
国木田 だから“紀行文の名手”って揶揄されるんですよ。金輪際フィールドワークって言葉は信用しません。
田山 そうではなくて、海のはるか彼方「龍宮」を目指す森島ルートが、「船旅」だということは分かってもらえただろうかね。
国木田 船旅の話でしたか。
田山 つまりスキルートの休日デート(51, 35)が遊覧船に乗るっちゅう「船旅」であるのは呪術的実践に他ならないわけだ。「おみなり手巾」は、霊験いやちこやね。
国木田 はア……そう来ると思ったから触れたくなかったんですよ。
田山 でも船に乗ってるよ。
国木田 休日一緒に船に乗るから、何だって言うんですか。そんなのスーさんとハマちゃんだッてやっている。じゃアあれも呪術か。呪術海鮮か。言ってることがくだらんのですよ。
田山 ヤ、一旦、僕の説を聞いとくれよ。船旅もさることながら、あのデートで森島はるかを驚かせたのは白鳥だった。橘君が先輩を喜ばせる「アイディア」として餌を用意していたのだね。
国木田 白鳥と言っても森島はるかが餌をやったのは、イベントCGのシルエットと鳴き声から明らかにカモメと分かりますよ。
田山 白鳥と読むと南島では海鳥のことだ。だから寧ろカモメで良い。伊波君が言うには南島で歌われている琉歌にこういうのがある²⁾。
田山 「船首に白い鳥がとまってるね。や、白い鳥じゃないよ、をなり神だよ」というような意味の詞だね。まアどうも古くから、船にとまる白い海鳥というのが「をなり神」の象徴とか化身として扱われていたようだ²⁾。当然ニライカナイへの導きでもあるが²⁾。
国木田 じゃアこれは美也に餌付けを。はア……
田山 ただし白鳥の象徴性に関しては、こればかりでないと思うね。
田山 この橘君の「アイディア」により森島はるかは天を仰ぎ、空に向かって手を伸ばした。橘君も同時に天を仰ぐね。これは“垂直的な”飛躍を暗示している。
国木田 まアた垂直の話してる。
田山 前にも言ったが垂直的に表象するイベントは天との交流です。白鳥の象徴するところはもちろん昇天です。水平に進みつつも、彼は既に「垂直」に取り組もうとしているのだ。森島はるかが深く感銘を受けるのも無理はない。これから詳しく話すが、この辺り森島はるかの天女たる所以だね。
国木田 さっきの琉歌はともかく天女の方の白鳥はカモメで良いんですかね?
田山 白鳥処女説話だからスワンじゃなくて良いのかと言うのは分かるが、実際、鳥の種類は雁、鳩、鴨、鶴など伝承によって様々ある。それに、牧水の歌にも知られる通り白鳥と読めば本土でもカモメを指すことがあるだろう。
国木田 白鳥と言ったら、スワンか正宗白鳥と思いますよ。
田山 ……少し話は変わるが、森島はるかと一緒にプールを覗くイベント(54, 42)があるね。このイベントは塚原響に追跡される場面で選択肢が発生する。「自分を犠牲にして森島先輩を逃がす」か「森島先輩を犠牲にして逃げる」の二者択一だ。
国木田 打って変わってナカヨシルートの話ですか。確か前者の選択を取った場合、森島はるかがお礼に焼き芋をくれるイベント(54, 45)に発展します。
田山 イベントのタイトルは「はるかの恩返し」¹⁾。プール覗き見の部分が「見るなの禁」後日お礼の品を持ってくるのが「動物報恩譚」を醸しておりますが、つまりは最も有名な白鳥処女説話の一つ「鶴の恩返し」モチーフをやろうとしているのです。
国木田 タイトルを参照し過ぎるのも窮屈な感じしますがね。これ、お礼は機を織るのでなくて宜しいのですか。焼き芋でしょう。芋の力ですか。
田山 芋をくれるというのは『豊後国風土記』で知られる「白鳥が芋に変化する」型の説話が由来と見ても良いだろうね。
国木田 また微妙なセンを突いてくるなア。
田山 ここで『常陸国風土記』香島郡白鳥里の辺りを引いてくるのも好いですが、まア詳しくは割愛する。ともかく「聖地」さながらにここ輝日東にも白鳥処女説話が誕生したんやね。
国木田 なるほどね……まア。このイベント群の構造はモチーフを絡めた遊びだったのだという指摘までは否定しませんよ。『うさぎと亀』など明確にメルヒェンをモチーフにする場合もあるわけですし。
田山 ちなみに森島はるかや七咲逢には共通して下着や水着を盗まれる旨のエピソードがある。まア実際盗まれていないっちゅうのはデバッガーの良心ですが¹⁾、これはいわゆる「羽衣」型の説話に頻出する奪取のモチーフやね。
国木田 そういうのは余計ですね。
国木田 ……しかし、田山君は飽くまで白鳥や天女のモチーフと森島はるかを結合させたいのですね。分かりましたよ。それで、君はどう考えたのか。
田山 森島はるかが白鳥に惹かれるのは、一つには彼女に垂直他界の者としての性格があるからではなかろうかというのが、僕の仮説だ。
国木田 まア、天女って言ったらそう来ますか。
田山 先ほど敢えて触れなかったが、丘の上公園で彼女と見るのは海の向こう側にある「山」なのだよ。山が垂直他界か水平他界の境界かっちゅう議論は置いといて、森島はるかが「山」に関連して何を語っとるかが重要です。
国木田 あれですかね、きっと。神社のイベントでしょう。
国木田 何でしょう、もりしーって民俗学者だったんですね。
田山 おりしーたちのアプローチは正しいということです。宛もなく歩いておったら神社で“偶然に出会った”とか、そんな橘君を“神様かと思った”っちゅうのは「まれびと」論にも通ずるところだろう。
国木田 田山君まで民俗学で読む必要はないです。適材というのがある。やな國に任せれば好い。
田山 狸の肝云々に関しては、フレイザーが言うところの類感呪術やね。当然、蛙は田の神や水神の使者だ。おそらく、臓物で聖域を汚して水神の怒りを買うことで雨を降らすという型の儀式を元に、伝承が変化して行ったものと思われる。「ヨモノ」と忌詞で呼ばれていた狸や鼠など⁶⁾の害獣が贄に選ばれるのは納得やね。一説によると関東に見られる蛙信仰のルーツが南島に──
国木田 早く、森島はるかの話に戻って。
田山 ……もりしーが雨乞いに興味を示しているのはもちろん「水の女」だからに違いない。だが、それ以上に彼女は「天の女」なのだ。先ほど述べた「はるかの恩返し」だが、実は他方の選択肢をとってその場から逃げると、天候が急変して文字通り雷が落ちる。橘君はその様子をこう評しているね。
国木田 ハハハ、本当なら呪術というか神通力ですよ。
田山 森島はるかの“苦手なこと”のリストで殊更に「雷」が挙がる¹⁾っちゅうのは、自分自身の不快の表象だからだろうね。
国木田 そんなことはないと思いますが……なるほどね、思ったよりは明喩的に「天」と通じる女性として描かれているのは分かりました。
田山 天然女王だからね。
国木田 ……天真爛漫な聖女らしい味付けをしているということでしょう。拡大解釈さえ改めれば指摘としては、まア悪くない。だから何だという話ですが、船旅が何うとかのアナロジーよりか、しっくり来ます。
田山 『アマガミSS』森島はるか編のED映像では『キミの瞳に恋してる』のサビに合わせて上空に両腕を掲げる森島はるかが描写されるね。僕はこれ、虹が架かったから喜んでいるのではなく、天に情愛の喜びを伝えたから虹が架かったシーンだと見ました。ああして念じることで森島はるかは如何ようにも天候を操れる。逆に2クール目のOP映像では雨の中、仏頂面で傘を回す彼女がしっかりと描かれています。あるいはスキクリスマスイベントのことを考えれば、彼女の祖父母が「飛行機の都合で」急遽来られなくなったっちゅうのも、何らか森島はるかの心模様が影響しとる可能性があるね。
国木田 そういうのを拡大解釈と言います。
国木田 田山君のスライドずっと怖いんですよ。せめて明朝体デカ文字をやめて。
田山 アニメをよく見返してみれば、彼女が天女的な性質を秘めているのは明白です。『アマガミSS+ plus』第12話 森島はるか 後編「タビダチ」ではプロポーズのシーンがあるが、この場面で森島はるかは常軌を逸した跳躍力を発揮する。これを何かの気の迷いと受け取るのが一般的ですが、天女との婚姻譚という註釈が付けば見方は変わります。
国木田 そういうアニメ表現については言いっこなしですよ。かく言う私も初見時は度肝抜かれましたが。急に跳ぶので。
田山 ついでに言えば森は天降り、あるいは御嶽のことで、つまり本土で言う社です¹³⁾。すなわちオボツカグラからの来訪神が降り立つ男子禁制のサンクチュアリです。例えば雨乞御嶽というとそういう儀礼を行う聖域です。島は沖縄本島を表しているから、森島っちゅう苗字からして琉球開闢の祖神アマミキョを思わせるものです。アマミキョは女性の天神であって¹³⁾、森島はるかのルーツが天上にあることを暗示しているね。そうなると天神の降りる高地や山は、ここでは垂直他界の線が濃厚になります。
国木田 田山君も急に跳ぶね。
田山 そうなるとスキBESTの解釈が大変捗るね。
田山 好感度マップでは「星」のシンボルを獲得することで「クラス」が上がる。何度も言うが『アマガミ』の垂直的表象は天との交流であって、頂上なるスキBESTに近づくほど彼女らの「天神」の部分に触れることになるんやね。
国木田 ……これ本当に違うと思いますがね。強いて言うなら「レベル」が統語的(syntagmatic)な軸で「クラス」が範列的(paradigmatic)な軸ですよ。記号論をやっているとか、言いくるめにしても色々あるでしょう。
田山 水平的表象である「レベル」の推移……水平的な時の流れに沿えばニライカナイに至って「海神」の部分に触れることになる。スキBESTでなくとも、ナカヨシでも海の向こうの常世国(輝日東高校)には行けるっちゅうことかもしれません。そうして橘君は乙姫を連れ帰って人間界に暮らすんです。桜井梨穂子スキGOODと構図は似ているね。
国木田 “あっという間におじいちゃんとおばあちゃん”の部分がウラシマ効果って言いたいんですか。
田山 そういうことやね。
国木田 うーん……ちょっと待ってね。言葉を選んでいます。
田山 ……ここでホテルの上階へはスキBESTしか上がれないっちゅうことの意味を考えてみよう。要するに、あのホテルの室内は天上であって、オボツカグラなんだね。
国木田 待ってと言うのに。……スキGOODは結局ホテルには入れず、スキBADはエレベーターを止めたところで橘君の独白が終了してしまう。これを「上がれない」と言っているのですか。
国木田 で、オボツカグラっていうと……森島はるかが“地上に降り立つ”前に本来居た場所ということですか。彼女は天神だから。
田山 おっしゃる通りです。
国木田 田山君、この際、象徴性を指摘するのは好い。だからそろそろ、シンボルを用いてまで何を表現したかったのかという話をしてくれませんかね。
田山 ふむ。
国木田 君がしていることは憶測に基づくネタバラシだ。この際、当たりハズレの問題じゃない。私はそういう謎解きゲームで煙に巻くのは実に猥褻だと思っています。オボツカグラだから何なのかを教えてくださいよ。
田山 いいでしょう。
田山 あのホテルの一室は幸福な家族団欒が予定されていた「楽園」だよ。森島はるかが全能感を満たしていた頃に居た、天上の国を象徴している。サルトルがボードレールの家庭環境を分析して語る際に、しばしば「失楽園(la paratis redue)」と表現するが¹⁴⁾、こういった例から僕も「楽園」と呼ぶことにする。
国木田 つまり、オボツカグラに至って何か解決するとか言うのは家族に関する葛藤と向き合うことだと。「天神」に触れるとかいうのはそういうことですか?
田山 そうだね。その要素が一つには、あるということだ。棚町薫や絢辻詞がやや深刻なる「失楽園」を経験しているのは事実で、これに取り組むのが主にスキルートであるのは分かるね。これと同様に森島はるかの「失楽園」もある。彼女は寧ろ「楽園」を確と享受した少女──天女であるがゆえに、全能感への憧憬が強すぎるのだ。だから“彼氏彼女”の関係を忌避している節がある。何せ地上の異性からは多くの羽衣を「奪取」され、束縛されてしまうのだからね(47, 39)(46, 42)(53, 41)。
国木田 はア。
田山 彼女が“おばあちゃんから貰った”カチューシャ(54, 36)とは「楽園」の女王が戴く冠であり、彼女の少女性を形成しているコンプレックスの象徴です。
国木田 ……コンプレックスねエ。
田山 しかし、今や彼女はかつて居た「楽園」に帰れない。3歳の頃から飼っていた愛犬の死は、一つ決定的な契機だ。このとき彼女が喪失したのはジョンの「まなざし」であり、橘君の目や表情を犬に喩えて褒めるのはその埋め合わせでした。度々表出する彼女の少女性というのは、無自覚ながら、凡そ全能感の模倣である。あのホテルの部屋も「失われた楽園」の模造品にすぎない。すなわち彼女にとっての「押入れプラネタリウム」です。寂しい思い出のあるクリスマスにも、ここに帰れば再び「まなざし」が得られるはずだった。
田山 だから橘純一が永久反復すると誓った「告白」に翳りが見えたとき、彼女は「失楽園」を自覚せざるを得なかった。全能感の象徴としての「まなざし」を得るために「見るなの禁」を装ったが、それも失敗に終わる。森島はるかが“わからない”と連呼するのは、失われた全能感の証です。カチューシャが外れるのも、「山」が見えなくなるのも、そういうことです。イニシエーションを経て、二人は「失われた楽園」を内在化して部屋を去る。見事に「行きて帰りし物語」の構造です。この部屋は永い船旅の一つの港である。
国木田 ……サブテクストをこじつけているんですよ、それも結局。作品に託けてはいるが、実際に語りたいのは自分自身のコンプレックスではないか?
■ 国木田は立ち上がる。床と椅子の脚が擦れて鈍く耳障りな音を立てた。
国木田 やはり核心の部分が穿っていないね。『アマガミ』の批評は何処か家族主義的な既定路線に当て嵌めれば済むと思っているのか。都合の良い解釈に逃げているでしょう。
国木田 つまり言いたいのは、深く読み解いているようで君はその実、テクストに正面から向かっていない。君の「考察」は『アマガミ』が対象でなくって好いんだ。サルトルのボードレール論がそうであるようにね。
田山 ・・・
国木田 神話が好きなら神話を読めば良いんだ。自分語りだって好きにすれば良い。君自身が如何なる「象徴の森」に迷っていようと、構わないさ。その代わり、『アマガミ』を巻き込むなら私は飽くまで追及します。それで君は『アマガミ』をどう読んだのかえ? アレゴリーやアナロジー、シンボルを読み解くのは結構。が、『アマガミ』をどう読み解いたのかえ?
国木田 君の謎解き心理テストに『アマガミ』の真理があると言うのでしたら、冗談じゃアない。実行した私たちが身をもって経験した、あの膝の裏が余程の真理だ。真理とは、森島はるかの背筋に溜まる汗の水滴だッ!
■ 国木田は踵で床を蹴って言った。
田山 国木田君。
国木田 討論会だろう、是非これを論駁したまえよ。何が船旅か。結局はぐらかしに遭った気がします。船とは何だ。船だから、私たちに何を訴えかけるのか。『アマガミ』の真価にどう影響しているのか、主題にどう寄与しているのか、説得したまえよ。
■ 田山は太い指を祈るように組んでいた。目を閉じ、国木田の言葉を一つ一つ噛み潰すように奥歯を動かして、押し黙った。長い沈黙が続いたが、ゆっくりと、口を開いた。
田山 船は────
4. 心の声の女
田山 船は自我……。「わたし」を乗せる肉体とか精神だ。自我の行先を……人生を、特に青年期に策定するイベントのことを、僕たちは「進路を決める」などと言う。受験や就職、結婚、人生の岐路に立つとき、人は自我の舵取りを迫られる。
田山 『Grown up!』で見た通り、美也の守護の力……〈妹の力〉は、二つの意味で橘純一の進路に餞する呪術によって示された。
■ 国木田は両腕を組んで静かに腰を下ろした。グラスの水を一口含んで、田山の言葉の続きを促すように首を縦に振った。
田山 ……進路といえば、『アマガミ』は或る厳しい選択を迫る。それは主人公橘純一をして将来有望なヒロインらを“恋愛に堕落”せしめるか、否かだ。
田山 森島はるかのスキBADとスキBESTを例に比較しよう。両者ともに10 年経過しておるが、若くして大企業の開発部部長を勤めているスキBADに対して、主婦として慎ましやかに暮らすスキBESTがある。どのヒロインもスキBESTエピローグは「BEST」という名に相応しく、素敵で幸福な結末として描かれる。しかし、なまじスキBADやソエンルートで社会的成功を収めるヒロインたちを観測してしまうばかりに、プレイヤーは覚悟を持って彼女らの進路を捻じ曲げなければならない。これは高山箕犀氏の思想のもとに、こういう造りになっている。
国木田 分かります、それはアマガミの中核だ。構造的主題と言っても差し支えないでしょう。我々明治生まれの男女観が古いとか新しいとか、仮に度外視するとして。
国木田 エ、この流れで『セイレン』の話します?
田山 船の進路を案ずる「海上安全」の守りが主眼に置かれた『アマガミ』と対立の構図にあるのが、TVアニメ『セイレン』だ。『セイレン』の物語は嘉味田正一という輝日東高校2年の男子が、進路希望調査票が埋められずに苦悩するシーンから始まる。
国木田 ……正確には「カブトムシ」と書いて提出したのを担任面談で咎められているシーンです。「子どもたちに喜ばれたい」という意図でした。『セイレン』が進路の話だというのは同意見ですよ。コンセンサスが得られているかは別として。
田山 『アマガミ』と同様に、プロローグが主人公の内面であり、これが変容する物語です。『アマガミ』が恋愛を通じて既往の穴を見つめ直す物語なのに対して『セイレン』は将来の穴を見据える物語だ。
田山 またここが『アマガミ』のアンタイたる部分で、「ヒロインによって主人公の進路がいかようにも決められてしまう」構図が作られている。
国木田 まア、『セイレン』のトップバッター常木耀編はその毛色が強いものでした。
田山 常木耀という名は「常に光り耀く木」というところから非時香菓を想起させる。つまり「橘純一」のことなのではないかと僕は思う。この少女と恋愛することで『アマガミ』ヒロインの立場を追体験するのだよ。要するに構図の逆転を暗示している。これはタイトルロゴにも反映されとるね。
国木田 あア比較的順調かと思ったが、田山君の悪いところが出ました。今のは聞かなかったことにします。
田山 『セイレン』っちゅうタイトルからも分かるの通り、メリュジーヌたる森島はるかに対して常木耀はセイレン。同じくフランスの伝承に出てくる海の妖女だね。その歌声を聞くと遭難してしまうという、人魚みたいな怪物だね。
国木田 何となく『セイレン』をそういう風に解釈しているのは田山君だけじゃない気がしています。アマガミほど批評が見受けられないので、何とも言えませんが。
田山 普段は虚言に塗れている常木耀の声だが、本当の“心の声”を聞いてしまうと人間の男は心惑わされ、進路を狂わされる。これが「第4話 ホシゾラ」で明かされた彼女の本性だね。
国木田 「これがやりたかった」という感じは十分に伝わってきますね。常木さんにはちょっとした姫草ユリ子¹⁵⁾の気がある。これがイマドキのいじり姫ですか。
田山 『アマガミ」が「見る」呪性を積極的に取り扱っているとすれば、『セイレン』はさしづめ「聞く」呪性の物語だ。“耳に砂が入ってよく聞こえない”と言って素知らぬふりをする嘉味田君や、常木耀が海中で接吻をする際に「耳を塞ぐ」っちゅうんは、『オデュッセイア』でオデュッセウスが部下たちに耳に蝋を詰めてセイレンの声を聴かぬよう指示した¹⁶⁾のがモチーフだろう。
国木田 あのキスシーンはなかなかにポエティックでエロティックです。そういう「エモ」をやるためのモチーフでしょう。演出として珍しくもない。
田山 何もあの場限りの演出のために用意したモチーフではないだろう。やはり自我の方向性という意味での進路のアレゴリーがここに含まれている。何故ならばセイレンの声とは「過去・現在・未来の知を授ける唄」であり¹⁶⁾ ¹⁷⁾、それは「運命の女(femme fatale)」の“声”だからだ。
田山 「甘くたのしい歌声」とは聴く者自身の望む“声”である。嘉味田正一が聞いた“心の声”というのは頬に受けたキスであって、音素はゼロだ。実際に聞こえる音声でもないし、言語ですらない。彼自身が時制を超えてそうありたいと乞い願う“心の声”である。換言するならば、調査票の空欄を埋めることで表明すべき彼自身の進路の契機である。
国木田 まア、キスが彼の進路を方向づけたのは紛れもないですが。
田山 彼女の“心の声”(ありがとう 私 頑張るから)とは「わたし」の進路を永久反復する善なる意志である。嘉味田正一は自身の善なる意志を“カブトムシ(Käfer)”として言語化できずにいたが、常木耀とのデアイで漸く結晶する手段をもったのだ。恋愛は進路を変えるのです。たとえそこに遭難のモチーフが当てがわれていたとしても、『セイレン』は『アマガミ』的な恋愛を肯定している。
国木田 それが船旅の系譜だということですか。心なしか『アマガミ』を語るのより少しは巧いね。いつの間にか『セイレン』レビューになっているような気がしますが。
田山 ……またここに、二つの輝日東物語を読み解くのに重要なカギがあるのです。つまりこれは、愛と欲望の讃歌なんです。
国木田 それはまア『セイレン』や『アマガミ』が無欲とか禁欲とか言ったら嘘ですが……欲望ですか。
田山 「見てはいけないものを見たくなる」とか「聞いてはいけないものを聞きたくなる」という、いわゆる「カリギュラ効果」を『セイレン』では“背徳感”として肯定的に扱っています。さらに掘り下げていくと、『アマガミ』にも通ずる「欲望」観が浮かび上がってくる。
国木田 何か嫌な予感がします。
田山 ここで常木耀の「声」とは森島はるかの「まなざし」と並び立つ概念であると言いたい。精神分析家ジャック・ラカンは欲望の原因……いわゆる「対象𝒂」のパラダイムとして「乳房」「排泄物」「声」「まなざし」の4つ組を挙げている¹⁸⁾。『アマガミ』が「まなざし」と「乳房」の表象に溢れているのは明らかだが、『セイレン』では特に「声」と「排泄物」が満ち満ちている。
国木田 あア……一旦ちょっと綺麗に纏まったのに。「排泄物」みちみちて。
田山 「声」は先に述べたので良いとして「排泄物」は何か。無論、大小便のことである。常木耀は制服を着たまま風呂に入る“フェティシズム”に目覚めるわけだが、第3話にてその原因を「失禁を想起させるためだ」と自己分析した。
田山 あるいは第1話には「お漏らしすごろく」をプレイする挿話があるね。ゴールに向かって出た目の数だけコマを進めて、マスに書かれているシチュエーション毎の尿失禁・便失禁を愉しむゲームである。
国木田 「おばけ屋敷すごろく」です。一回休みの名目が「お漏らし」に偏っているだけで、お漏らし自体はコンセプトじゃない。
田山 そもそもキービジュアルにも見られる「机に座る常木耀」は「臀部の湿気を残す」という了解のもと描かれている。これの意図するところは分かるね。また第2話では排泄中の匂いを嗅ぎにくる常木耀の夢を見たり、トイレ掃除を──
国木田 分かりましたって。それらも全て「排泄物」ですね。
田山 『アマガミ』が“フェティシズム”的であることは誰もが認めよう。プロローグからして既に橘純一の「去勢否認」に始まり、「お宝本」というフェティッシュが作中世界独自の貨幣であることを呈示している。まア、欲望が本質的に倒錯的なのは当たり前のことだ。それでもって『セイレン』は更にディープな領域に至った印象を受けるだろうね。
国木田 さっき“フェティシズム”をカレーで喩えたの忘れてるんですか。
田山 ここで特筆すべきはその量というより寧ろ質の変化です。これを輝日東の住民が9年越しにスカトロジーに目覚めたと見ても悪くない。間違いでないね。ラカンに言わせると欲望の原因は全て、対象𝒂の作用だ¹⁹⁾。
国木田 もう何かいよいよって気配がある。ラカンを雑に参照し始めたら。
田山 ただし嘉味田正一が言うように「ぼかしているのが良心」なのです。すなわち「対象𝒂」は欲望の“背後に”作用するもので、通常は隠蔽されている¹⁹⁾。したがって常木耀のような“フェティシスト”(あるいは“ナルシスト”)のみが「制服のままお風呂に入る」欲望の原因を「排泄物」の作用であると客観的に示すことができるんだね¹⁹⁾。
国木田 そうですか……理屈は分かりませんが、森島はるかも“フェティシスト”か“ナルシスト”という感じはしますね。だから「まなざし」をフェティッシュ的に語るんですね。そう言うことにしますか。
田山 なぜ通常「対象𝒂」を語れないのかと言うと、これは「言語」の問題である。常木耀が“フェティシズム”を語る方法を思い出して欲しい。“小さい頃お漏らししたときの感覚”という経験から抽象化されたイメージであった。
国木田 この話これ以上広げるのやめておきませんか?
田山 まず調査票を埋める「言語」によって自分自身を表現しなければならないという事実から、嘉味田正一の欲求は要求に変換されて〈他者〉に解釈される²⁰⁾。ここで言う〈他者〉は「言語」も含む象徴や言葉であり、それらを操り〈法〉をもたらすもの、例えば「世間」や「倫理」という“象徴的な”システムや構造のことでもある²¹⁾。
田山 この変換時に彼の欲求が完全に表現されることはない。必ず残滓として「欲望」を残してしまう²⁰⁾。これは彼自身が「カブトムシ」として欲されるために「自分は何者であるべきか」を〈他者〉に問いかける欲望である。対象𝒂の概念は、この主体に対する〈他者〉の欲望として理解されることが多いね¹⁹⁾。
国木田 田山君、また今度セイレン全話レビューやりましょう。続きはその時に聞きますよ。
田山 嘉味田正一は常木耀が“小さい頃お漏らししたとき”と言うのを聞いて、「失禁して大声で泣き叫ぶ常木耀」を思い浮かべる。このシーンから分かる通り「排泄物」と「声」は原初、どちらも不快の表象である。この不快による緊張の〈気持ちよさ〉²¹⁾や解消することで“満たされる”悦びという、快不快のアンビバレンツを総じて享楽と呼ぶ。
田山 全ての欲求が満たされていた母胎内では──つまり分離以前の幼児においては、主体は最初の満足体験という享楽の中にあったと言える。常木耀が合宿を通じて“初めて家の外で過ごして”漸く分かった「親のありがたみ」の正体は、彼女の喪失した享楽である。合宿の風呂で発現した彼女の“フェティシスト”的な態度は「母なる〈他者〉」の欠如への反応です。
国木田 森島はるかの場合、ジョンの「まなざし」がそれに対応するってことですよね。胎内が「楽園」で享楽の最中にあったと。ね、田山君。ね。
田山 対象𝒂それ自体は「〈他者〉の欲するもの」によるが、その〈他者〉もまた自分の本当に欲するものが分からない²⁰⁾。そもそも「自分は何者であるべきか」を問うのは、得てして主体がその想定解を「わたし」とする“ナルシシズム”なのだ。この答えを返さない〈他者〉とは〈父〉(いわゆる他人、社会の規範。代表例は担任の先生など)のことだ²⁰⁾。これは絢辻詞を参照しても分かり良いかもしれない。対象𝒂の始源とは常にこの問いの答えを返す「母なる〈他者〉」の欲望であった。
国木田 絢辻詞編は第六夜の予定です。喋ること無くなっちゃいますから、取っておきましょうよ、田山君。
国木田 ウワーッ!
田山 この欲望のグラフ²⁰⁾²²⁾に付け加えた註釈は暫定的なもので、これから解釈が変わるかもしれん。だが、要するに『アマガミ』は欲望の道を欲動に譲らない¹⁸⁾生き方を「選択肢」として真摯に呈示しているのだと言いたい。そして「欠如」を他人で埋め合わせるのではなく、自分の「欠如」こそ愛する人に贈ろうと言っている。まずグラフ右下の斜線の引かれたSは──
国木田 田山君! もうこの辺で!
田山 そうですね。先にこちらをお話ししておきましょう。
田山 『アマガミ』というタイトルの文字を並び替えると「アガルマ」になる。「アガルマ」とは“輝かしい宝物”です。元々はプラトンの用語であって、これを元にラカンが創り出した概念が「対象𝒂」です¹⁸⁾。両者は殆ど同義と思って構わない。それは隠されたお宝本であり、黒い手帳である。もちろんマナザシでもある。『アマガミ』とはゲームでありながら我々現代人の隠蔽されたる欲望の原因そのものです。キャラ名の母音に悉く𝒂が採用されているのも、そういうことです。SSはシニフィアン──
国木田 田山君ーッ!
田山 そうですね、多くの方が混乱されているのが、第3話で嘉味田正一の生物学的な勃起性の器官が反応する事についてです。画面に映っているのは飽くまで生殖器領域のイメージであって、決して男根のメタファーではない。描写意図は勃起性の器官は√-1と等値されうる²⁰⁾ことを呈示する為であって、つまり彼の進路決定を暗示させる象徴的ファルスの選択またはカブトムシです。
国木田 それ言いたかっただけでしょう。
国木田 ごめん、田山君、さっきは言い過ぎました。謝るから、いつまでも他界モチーフで深読みし続ける可愛い田山君であってください。
田山 僕なんかマズいこと言ったかな。
国木田 そりゃア確かに、幾ら深夜アニメとはいえ、1話から糞尿すごろくゲームが長々と映されるのに引っかかりがあるのは分かりますよ。だが冗談でも批評の名を借りてサブカル「分析」ごっこまで発展すると野暮天だと言っておるのです。
田山 むむむーっ。
国木田 失敬、今のは失言です。でも少なくとも君の出る幕じゃないでしょう。全部がオカルトか野暮ったい言説に帰着するんだもの。
田山 ……そう、まア、要するに僕は野暮かも知れない。
国木田 ……してたか忘れたけど、常木耀が「運命の女」のイコンを採用している云々辺りの話は少し愉快でした。ファンダムの談義ってこのくらいで好いんですよ。
田山 そうかなア。
国木田 夜も更けてきました。次回の討論会は「運命の女」としての『アマガミ』ヒロインというような議題でやりましょう。そう言った意味で、巫女ではなく「女神」としての……
国木田 エ。
田山 ところで国木田君は、「運命」を信じますか。
国木田 ……いけないよ、田山君。私の言う運命はそんな明朝体デカ文字の「運命」じゃないんです。ダメダメ。
田山 「運命」は船の進路を大きく左右し……時に遭難させる。
国木田 田山君、そう言う話するとき、せめて笑ってください。
田山 笑ってるよ。聞くところによると、国木田君も「運命」の遭難によって生まれてきたという話じゃないか。へへ。
国木田 ええ、まア、まア。それ何か『アマガミ』に関係あるんですか。
田山 大いにあるから、詳しく教えてくれるかな。
国木田 ……エエ、私の父は龍野藩士をやっておりましたが、戊辰戦争の後に乗っていた船が嵐に遭いまして、奇しくも銚子沖に流されました¹¹⁾。
田山 常木耀の仕業だね。
国木田 マジで。
国木田 まア、紆余曲折あって父は母と出逢って、銚子で私が生まれたってわけです¹¹⁾。『アマガミ』論者であるのはその為です。
田山 『運命論者』⁵⁾だもんね。……国木田君が特に船っちゅうシンボルについてナーバスになる気持ちも分かる。君の人生そのものが「偶然」の遭難に始まったというわけだ。
国木田 ……あア、だからこそ田山君、君の考慮に足らないのは「偶然」を受け入れる気概だと言いたいね。
田山 ふむ。
国木田 君は何か、拵えてきた理論的な枠組みの中に作品を押し込めんと必死なんです。そういう批評の仕方は「人為」であって、予定調和であって、そう……「自然」でない。
田山 「自然」でない……。
国木田 偶然そのとき製作陣の間で流行った内輪ネタを織り込んだって、構わないわけでしょう。田山先生にこんなこと言うのも忍びないけれども。
国木田 例えばそうだ、「ファラオ 謎の入り口」は“溺れる者はファラオをも掴む”というダジャレだッてことは知ってますよね。ダジャレとは言ったが、この偶然性を素直に愉しむのは詩歌もそうじゃないか。
田山 それは……そうだ。
国木田 だから野暮だと言うのです。船旅とは言うが、近頃の君がやっているのは遊覧船の「観光(tourism)」だろう? きっと遭難もなければ、まず“溺れる”危険性も無いだろうが、そこに偶然も運命も無いんだ。
田山 ・・・
国木田 先ごろ君は生の実相が「出逢い」に根ざすとか、何だとか言っておったが、ハッタリでしょう。単に怖がって境界の内に居るから、「経験」が無いんじゃないか。空想で固めた思想を破壊して、早く旅をして女性の肉体に触れるんだ。
田山 あああ
■ 国木田は何ぞと言うと、面倒臭くなったというように、その誇るにも足りない「経験」を上段から振翳す癖があった。
国木田 言わせてもらうならば、これは君の俗物根性とナルシシズムの問題だね。そんな拵え物で自分の欲情を如何にも神聖なふうに見せなくても好いだろう。「考察」を巧くやろうとするほど、君らはつまらん必然論に嵌っていく。
田山 国木田君……。
国木田 失敬、必然論者を否定したいのではない。しかし何より『アマガミ』を読む上で「偶然」を蔑ろにするのは、作品そのものを否定することだと言っておるのです。何せ『アマガミ』の作劇は「偶然」を基調としていますからね。
田山 国木田君、僕もそう思っていたんだ。
国木田 ……いた?
■ 田山は熱を帯びたまなざしを国木田に向けた。国木田も見つめ返す。部屋は暗かったが、国木田の目はすっかりと慣れていた。
国木田 田山君、それはどう言う……
5. 石の火の花
田山 九鬼周造は、『偶然性の問題』の中で、偶然性の三様態について次のように提唱した²³⁾。
定言的偶然 :個物および個々の事象の存在の偶然(例:四つ葉のクローバー)
仮説的偶然 :無関係な二元の因果系列が邂逅する偶然(例:他人との出会い)
離接的偶然 :無数の可能的世界の中からこの世界が存在する偶然(例:サイコロの出目)
国木田 田山君?
田山 それぞれの偶然には表裏一体の必然が想定されているが、ここでは説明を割愛する。もちろん、全ての兼ね合いがあって初めて偶然性と言えるわけだが、ここで主に取り上げたいのは3つ目に挙げた離接的偶然の議論である。
田山 離接的偶然は、離接的構造(簡単に言うと1の目が出るとき他の目が出ない、サイコロのような構造)にあって、可能的離接肢の全体(サイコロの全通り)のもつ同一性に対して、各々の可能的離接肢(それぞれの出目)が示す偶然性である²³⁾。離接肢とはつまり選択肢のことで、例えば先ほど述べた「自分を犠牲にして森島先輩を逃がす」か「森島先輩を犠牲にして逃げる」の二者択一もまた可能的離接肢を呈示していることになる。
国木田 本当に九鬼まで参照しなければなりませんかね。かえって型に嵌まっていやしないか。
田山 『アマガミ』は徹頭徹尾、離接肢を偶然することでもって恋愛せよと投げかけてくる。行動マップのヘクスタイルから任意の1マスを選んで実行、会話イベントでは話題アイコンを選んで実行、選択肢は「梨穂子はかわいいなあ!!!」を選んで実行。その反復でゲームは進行し、無数の可能的世界から或る一つの物語世界に選択される過程を追う。その離接的偶然を「恋愛シミュレーション」のゲーム性に落とし込んでいるのが、アマガミだ。言い換えれば偶然性の動性がある作中世界の現実を生成し、この偶然性に基づく二元(男女)の交わりを艶かしい「デアイ」として愉しむゲームである。
国木田 まア、そうです、かね。
田山 これに加えて、基本的に僕らはゲームを反復(周回)してプレイするのだから、スキBEST、スキGOOD、スキBAD、ナカヨシ、ソエン、あるいはテキタイと、可能的世界の構造を認識せざるを得ない。これの所為でシナリオ終了時に「あア、ソエンだともっと社会的成功があったのに……」と罪悪感を抱く方も在るし、あるいは「前回あんなにスキBESTだった女の子が、僕を無視して……」と恨めしい思いをする方も在る。蓋し、恋愛の苦悩とは離接的構造の発見だね。
国木田 何しろ『偶然性の問題』では『運命論者』を引用してもらってるので、茶々を入れづらいんです。田山君の明朝体がデカ文字なだけで九鬼哲学は私のそれと似ている。
田山 ……苦悩はあるが、やはり「デアイ」の偶然性は何者にも代え難い悦びを孕む。さて恋愛SLGの基本骨格がそうであるように、恋愛を文学や詩といったある種の時間芸術とのアナロジーで捉えてみようか。
国木田 話が見えてこないなア。『アマガミ』がどう「恋愛」然としているかって話に繋げたいのかな。
田山 まず九鬼は“文学が偶然を尊重するのは主として驚異の情緒に基いている”と言った²³⁾。これはアリストテレスが『詩学』の中で述べた“驚異すべきものは悦びである”を承ってのことだろう。
国木田 驚異の念は『牛肉と馬鈴薯』²⁴⁾で一番描きたかったところです。
田山 「デアイ」の偶然性は、僕らに未解決の問題──例えば唐突に耳を甘噛みする棚町薫を、“現在”に投げ出してくる。驚異とはこれを目の前にした時に沸き起こる興奮的感情のことである²³⁾。棚町薫の甘噛みという可能的離接肢の一つが何か必然的に措定されたように感ぜられたとき、人は特に驚異し、その悦びが「運命」を通告する。
国木田 やはり『アマガミ』を例にすると語弊が生じますが、ここで言う「運命」とは偶然性の自己否定的な性格を含んでいたりとか、偶然と必然の異種結合とかいった入り組んだ概念です。
田山 『南方マンダラ』のモデル図²⁵⁾を参照すれば何のことはない。中央のイの点は萃点と呼ばれる偶然と必然の切り結ぶところです。見ての通り「縁」が「起」となるっちゅうことが「運命」です。九鬼と大体同じこと言ってるね。
国木田 これを見て分かったら苦労しませんよ。
田山 なお『アマガミ』の行動アイコンのうち「イベント」に対応するのが「!」つまり驚異の記号であることは、全くの仮説的偶然による。
国木田 そうでしょうね。
田山 また“文学すなわち広義の詩は、内容と形式の二方面において偶然性を重要な契機としてもっている”とも九鬼は主張している²³⁾。とりわけ彼の押韻論の研究において色濃く反映されているね。“押韻は詩を自由芸術の自由性にまで高めると共に人間存在の実存性を言語に付与し、邂逅の瞬間において離接肢の多義性に一義性的決定を齎す”と²³⁾。
田山 これはつまりrhymeがあることで、無尽蔵にある選択肢の中から「いま・ここに1番ハマる」lyricとのデアイが起こるということだ。やはりそれが「運命」的に思えてくるのは、本当は偶然に措定された詞の「必然っぽさ」に驚異するからだ。実はこれが押韻の重要な作用なんだね。わかるだろ?
国木田 出来れば……新体詩で喩えてもらえませんかね。私ら古い人間ですから。
田山 ここに『アマガミ』を読む上で重要な時間論や偶然論に関する示唆も含まれている。少し長いが小浜善信による注解を引用しよう。
田山 “迷う毎日(chi)私の気持ち(chi)居場所はどこに(ni)”という歌詞を例に考えてみようか。「私の気持ち」の脚韻〈i〉という“現在”は「迷う毎日」の脚韻〈i〉という“過去”を想起させると同時に「居場所はどこに」の脚韻〈i〉という“未来”を予期させるものである。押韻は語のそもそもの意味とは無関係に、つまりは“偶然に”同一の“現在”を反復する²³⁾。言い換えると、回帰的現在が「永遠の今」を醸し出すということだ。それは「過去・現在・未来の知」なるセイレンの“声”であるだろうし、「運命」的なデアイである。「永遠の今」とのデアイだね。
国木田 これ『アマガミ』を出汁に使って九鬼を読む会でしたっけか。
田山 そう考えてみると「詞」というのは詩的言語の表象なんだ。メタファーに満ちた絢辻詞スキBESTを「隠喩」の獲得と見れば、君の言う統合と範列の軸という説もここに合流出来るかもしれん。さて「縁」も偶然のデアイであって、つまりは姉妹揃って「運命」的な名前をしているわけだが……国木田君、これは絢辻詞編でじっくり語ろう。
国木田 ちょいちょい絢辻詞が先走って来るのは何ですかね。
田山 ……いや、それにしても芭蕉の句の解釈でも「橘」の匂いが“永遠”とか“無限回帰の時間”の象徴を担っとるのは、流石に、仮説的偶然かね。
■ 国木田はそろそろ反駁せねばならぬと口を開くが、眼前の雄弁な解説者が如何にも恍惚とした顔で目配せしてくるのを見て、気勢が削がれてしまった。
国木田 ・・・
国木田 ……匂いと時間の回帰性などと言うと、やはりプルーストの無意志的記憶²⁶⁾ですかね。例のマドレーヌと紅茶の。
田山 や、確かにそうだね。それも重要な指摘だ。さっきも述べた通り『アマガミ』は可能世界の重層性を認識させる造りである。『アマガミ』を反復してプレイするほどに自己変容と自己増殖が繰り返されるのだ。要は、無数の型の橘君とプレイヤーが出現して投影されてしまう。これでもって情動の制度化というのが起こるんだね。ソエンルートの何とも言えない後味の悪さは、制度化された自分に嫉妬しているために沸き起こるものだ。簡単に言えば絢辻詞のソエンを見て抱く何とも「嫌ァな感じ」は、以前のルートで絢辻詞の孤独を救った橘純一へのジェラシーから来る。何が言いたいかと言うと、『アマガミ』の一側面としていわゆるプルースト的恋愛小説という読み方があるということです。メルロ=ポンティにも繋げたかったが、まア今後の検討課題として残しておこう。
国木田 悪うございましたよ。絶対それ以上拡げなくていいですからね。せめて偶然性の話に戻ってください。
田山 さて、もちろん僕が神話的モチーフとの連関で説いてきた水平・垂直と、先ほど引用した九鬼の時間論は地続きだ。水平的時間の「レベル」と垂直的時間の「クラス」ということだね。
田山 まア飽くまで『アマガミ』の話と思って欲しい。『アマガミ』の水平的時間に関しては現象学的存在論で語られて然るべき²³⁾だが、垂直的時間のコマを上に進めるのは主として形而上学的脱自の問題である。
国木田 それ本当に『アマガミ』の話ですか。形而下のヘソを舐めるゲームと聞きましたが。
田山 国木田君! 臍帯が胎盤と“垂直的に”繋がっていた名残だと言いたいんだね。その指摘は実際面白い。
国木田 いえ滅相もない。
田山 先に水平的時間の方を解決しておこう。誤解がないように言っておくと、スキBESTは“水平的なEkstasis”²³⁾を遂げるハッピーエンドでもある。ハイデッガー風に言うと、本来的な実存に近づくからね。ソエンに生きる彼女たちは非本来性の次元に〈頽落〉していくだろう。しかし、森島はるかスキルートで言うならば、永遠の象徴・橘純一と愛犬ジョンのまなざしを重ねて、死を了解することで、彼女は「橘君の飼い主」的な世界観から抜け出せる。スキルートは「先駆的覚悟性」²⁷⁾の物語かもしれん。これをもって彼女の時間性は変容し、スキBESTエピローグでは“昨日より今日が、きっと今日よりも明日の方が……。”と言えるようになるということだ。あるいは日常性とか道具的存在性の権化たる桜井梨穂子にプロポーズするエンドも似たものだ。こういう構造はアマガミの多義的なスキBESTをベストならしめている一因だと、僕は思った。
国木田 ソエンの水平成分だってスキBESTと同じく「レベル3」ですし、好感度マップとこじつけるにしても具合が良くないと思いますがね。これずっと思ってます。
田山 ……これに交差する垂直的時間は、散々述べてきた通りイデア界への超越とか飛躍の問題であるっちゅうことです。僕の言う「天との交流」とはそのことです。白鳥の「アイディア」が問題になるのも、「見るなの禁」を課すのもそうだし、桜井梨穂子が「サンタさん」の力を借りたのもそうだ。「クラス」が高まるほどアマガミは形而上の物語になってくる。
国木田 そうですかア……。
田山 今この基本構造を念頭に置くとしよう。それでもって僕は「クラス」上昇のカギを梅原正吉に見た。
国木田 エ、梅原正吉ってあのスポーツが得意で所属は剣道部、最近は幽霊部員気味の困った一面が。クラスも一緒で家も近い寿司屋の次男坊で橘純一の親友こと梅原正吉ですか。
田山 解説ありがとう。『アマガミ』は梅原正吉への意志表明から始まる恋愛物語だ。ここであらかじめ言っておくと梅原正吉とは「江戸児」であり「いき」のシンボルだ。何せ彼の二つ名は「粋な親友」だからね¹⁾。剣道部所属であることも関係してか、“武士道的”な精神性が見え隠れする。
国木田 はア……『「いき」の構造』に話を持っていきたいんですね。でも田山君のこういう“境地”の話は評判宜しくないからなア。
田山 先述の通り、九鬼の言う垂直的脱自の軸は時間の回帰性にある。輪廻や万物再生論とも密接に絡む“東洋的な”時間概念だ。──まア、僕は洋の東西で知見の優劣を争う論には決して与しないと断っておく。
国木田 田山君には少女以上の関心事がないことは分かります。よくよく聞いていると君の考察ヒステリーは『少女病』の延長上でしかない。
田山 さて九鬼は“垂直的な”回帰的形而上学的時間を飽くまで「仮定」として扱ったが『アマガミ』には確かにある。『アマガミ』の世界はクリスマスまでの42 日間を無限回帰する。プレイスタイルによっては実感のない方もおられるだろうが、輝日東は確かに輪廻しているし僕らはそれを肯定的に受け入れている。仮にこれを「輝日東回帰」と呼ぶことにしよう。
国木田 いや、怪しくなってきたな。
田山 輪廻と言うと直ぐにインド哲学や仏教が思い浮かぶ方も在るだろう。まア一部に仏教思想との合流もあるが、ここで取り上げる九鬼哲学は何処か“仏教的”ではない。無論、ここでは飽くまでその基本的な傾向のみ考慮するとしてね。
田山 先に述べた通り『アマガミ』や『セイレン』では欲望も意志も一つの「選択肢」として肯定する。九鬼哲学もそれは同じだ。この点では「輝日東回帰」思想も“仏教的”というよりは、“武士道的”である²⁸⁾。
国木田 梨穂子とか菩薩じゃないんですか。
田山 菩薩でもあり得る。
国木田 どう言うことなの。
田山 ところで、森島はるかスキBESTエピローグを思い出そう。ホテルでの告白から10 年後、刑事となった橘純一が出動要請を受けるシーンである。はるかは彼の出立の前に火打石でカンカンと「切り火」をするね。
国木田 また急ですな。まア、しますね。刑事の出掛けに配偶者が「切り火」するという構図はおよそ『銭形平次』など時代劇のパロディでしょう。
田山 まさに時代劇のパロディだ。一見この「切り火」は唐突に思えるが、彼女が歴史愛好家であるのと『アマガミ』における「刑事」の位置付け等を把握すれば、さほど理解に難くない。
国木田 確かに森島はるかが日本史(特に戦国武将)を好むこと(49, 42)とか影響していそうではあります。布石と言えば布石ですか。
田山 男性の象徴として度々“ちょんまげ”や“ふんどし”等の古風なアイテムを引き合いに出すのも、布石だね。
国木田 『アマガミテトリス 森島はるか編』では三国志演義もカバーしていました。英国の祖父の影響からか寧ろ東洋に「かぶれている」人としてキャラ付けが為されている気がします。民俗学ガールであるのもその流れでしょう。
田山 そもそもドラマ好きというのもあるだろうね。これに橘純一が刑事という職業を“伝統と歴史ある仕事”と評する(52, 37)ことを重ね合わせると、森島はるかの“心の声”が浮かび上がってくる。
国木田 ……森島はるかの進路の動機ってことですか、その心は。
田山 要するに彼女は「時代劇の妻」になりたかったのだ。──まア、例に挙がった『銭形平次』が厳密には武士でないのは具合が悪いが──それは彼女の武士道への憧憬であって「いき」の美意識だ。塚原卜伝もとい塚原響のような「文武両道」の“達人”(55, 32)を常に側に置いていることにも、少なからず影響している。
国木田 また出たよ。田山君のわるーい性癖。
田山 さて、九鬼周造は「いき」の意味内容を形成する徴表として以下の3つの契機を挙げた²⁹⁾。例の部分には敢えて通俗的な解釈を添えてみました。
「媚態」 :一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度(例:「見えちゃいそう」「バレちゃいそう」「触れ合いそう」「付き合いそう」といった緊張のある色気)
「意気地」 :媚態でありながら異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識(例:恋愛対象に対して完全には「デレデレ」にならない、いわゆる「ツンツン」を通す意識)
「諦め」 :運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心(例:恋心に流されず平生から「クール」で居られる垢抜けた心)
国木田 あれ、ここに来て一気にギャルゲー談義っぽくなりましたか。
田山 「いき」は、その根本が「媚態」すなわち「色っぽさ」でありながら武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」の結合をもって完成する²⁹⁾。とはいえ愛慾が前提にあるから、“仏教的”かっちゅうと……
国木田 田山君、そんなことより見てください。
国木田 九鬼が「せーんぱいっ」の話してますよ。「せーんぱいっ」
田山 お、オッ………ォ………ッ
国木田 だが、そう言った意味で七咲逢は「意気地」と「諦め」の色濃いデアイの頃があってこそ好いですね。「せーんぱいっ」のイマージュだけで七咲を語ると、何か深甚なる色気が欠落してしまう。
田山 国木田君。……そう、まさにそれ。生意気のいきも「いき」だ。
国木田 なるほどね。これは好例かも知れません。
国木田 ……話の腰を折ってすみませんでした、森島はるか編でしたね。
田山 そう、まア要するに森島はるかはスキBESTで「いき」な生き方を体現できたのではないか、というのが僕の考えだ。そしてその背景に「輝日東回帰」の時間性に決然と取り組もうっちゅう“武士道的”な思想があるのではなかろうか。
国木田 話題としては、だいぶ取っ付きやすくなりましたか。聞かせてもらいましょう。
田山 まず「媚態」については良いかな。たとえば、ホテルで橘純一は彼女にガウンを着せ、10 年後 森島はるかは彼にコートを着せるんです。これも「羽衣」であるわけだが、互いに脱がし合うのでなくて着せ合う恋愛というところに、色気がある。
国木田 自分が「脱がすかもしれない」服を……ですね。飽くまで可能性として。
田山 国木田君、本当に分かっとるね。そう言うことです。この緊張は可能的離接肢による偶然の産物と言って好いものだ。そして、九鬼曰く“異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたもの”²⁹⁾が「媚態」の完全形です。接近し続けられるっちゅうのが「いき」の美です。アキレスと亀のような関係が真に「媚態」を体現すると言えるだろうね²⁹⁾。
国木田 情け無い返事だなア。「ふぇ?」って。
田山 でも重要だよ。要するに10 年経っても未だに「逮捕」されていないんだ。そこには束縛も倦怠も在り得ない、鮮烈なる恋愛の緊張がある。橘純一が大事な部分を偶然に聞き返したりするから、互いに「逮捕」し合う可能性が可能性として在り続けるということだね。
国木田 はア、なるほどね。「媚態」が偶然に機能しているから“昨日より今日が、きっと今日よりも明日の方が……。純一君の事を好き”になり得るということですか。
田山 告白を永久反復するという誓いがこう言う形に変容して実践されとるんだね。この夫婦は「永遠の今」として「媚態」の二元性を愉しむ道を選んだんです。ここでもやはり“東洋的な”概念が肝要となるわけだね。
国木田 あれ、セイレネスってセイレンですよね。常木耀は「いき」ではないかア。そりゃ日本的性格はイマドキ流行りませんからね。
田山 続いて「意気地」だが、先ほど武士道の理想主義に基づくと言ったね。梅原正吉が絡むのは主にここだ。ところで皆さんご存知の通り「ツンデレ」の「ツン」っちゅうのは痩せ我慢のことです。「武士は食わねど高楊枝」だね。
田山 これは厳密には「士道」的ではないかというのはその通り。九鬼の「武士道」観が山鹿素行の影響を受けているのは否めない。こういった反抗や痩せ我慢が「付き合いそう」な可能性の緊張を引き延ばしてくれますから、二昔ほど前のラブコメは江戸者が席巻していました。
国木田 まア、確かにプロローグで梅原正吉の座右の銘が“宵越しの金は持たない”だったという旨の台詞がありますけれど。彼のそれは日によってコロコロ変わるんですよ。
田山 いや、その通りだが、大事なのは寧ろ日によって変化することかも知れんね。彼の言葉は全てが「今」の本心であるっちゅうことです。これが「永遠の今」を生きると言うことだろうね。その内容も“やらずに後悔するよりやって後悔した方がいい”、“疲れたら歩いてもいい、だが、向かって行くのを止めちゃだめだ”等と、現在を強く志向した、行動への意志である。
国木田 「粋な親友」は伊達じゃないと。ウメちゃんの男だけ上がって行きますが、橘夫妻はどうなんですか。
田山 そこで大事になってくるのが「刑事」の位置付けやね。スキBESTエピローグと武士道──つまり刑事になった橘純一と武士道の共通項は何処にあるか。
田山 まア、私事ですが、父は館林藩士をやっておりました。が、廃藩置県で職を失って、それから警視庁の巡査になりました。
国木田 橘君の言う“伝統と歴史”がそういった近代警察のルーツ的な話かは知りませんけれども。
田山 当時の士族出身者が就いた邏卒と、橘君のやっとるテレビドラマ的な「刑事」とでは事情が異なるのは分かっている。もちろんね。
国木田 田山君、武士であるのと“武士道的”であるのとは違いますから、少なくとも橘夫妻の理想がどう“武士道的”なのか確認しておかないと。
田山 ……月並みなことを言うようだが、刑事っちゅう進路は彼らの理想が「義」と「勇」であることを示している。“勇とは義しき事をなすことなり”である³⁰⁾。流石に素行も稲造もこれが“武士道的”だと言うのに文句はあるまい。
国木田 まアね、義しき事かどうかはプレイヤー次第ですが、橘純一に「勇気」とか愚直な実行力があるのは分かります。彼女もそこに惹かれたんだ。主人公気質というのは大概そういう少年心が形成するものです。梅原曰く、刑事というのは小学時代から公言している目標でしょうから(52, 37)実は最もピュア・純一の姿なのかも知れない。
田山 彼の意志は梅原の「意気地」にバックアップされているっちゅうことでもあります。
田山 ……さて、橘君だけの進路じゃアないからね。そもそもスキBESTエンドというのはヒロイン側から「勇気」をもって告白する結末だ。森島はるかのエピローグに「勇気」という文言が出てくるのも当然ながらスキBESTのみだね。
田山 彼女は「勇気」を持って選び取った進路を肯定する。ここではるか自身が出動要請の電話を取って見せるのも、夫の進路における添え物でないことを物語っている。
国木田 橘純一と理想を同じくするようになったということですか。ちょっと都合の良すぎる感じこそありますが、彼女の進路もまた積極的な「義」と「勇」の実践であると。
田山 そして「諦め」は九鬼曰く“仏教の非現実性”に基づく。少し短絡的な説明になるが、「偶然の必然」としての「運命」と一体であることとも言えるかね。恋愛にも直結する語で言えば「幻滅」に悩まされることが無いっちゅうことだね。
国木田 “仏教的”じゃないかとツッコミたくなりますけれど、まア禅との親和性とかを考えれば“武士道的”の範疇でも好いかな。境目は何うでも好い気がします。「いき」が飽くまで“現世肯定的”であることは分かりましたから、そうなるとニーチェ的な「運命愛」に似ていますかね。
田山 ……そう、これで漸く「切り火」の作用が掴めてくる。彼女らが何を「諦め」たかというと、ずばり「死」なんだね。そもそもペットトリマーと言う彼女の目標は「幻滅」によって潰えたのだ。スキBESTエピローグはきっと、これを「諦め」によって克服する内容であるに違いない。
国木田 それは君がさっきから言っている通り、ジョンの死を了解して乗り越えたということでしょう?
田山 それも地続きだね。それから何より「刑事」とは、現代にあって武士同様に常に死と隣り合わせの職業だろう。これは、そう、僕の主観で言っているのではない。
国木田 そうね──
田山 梅原正吉と3人で刑事ごっこをするシーンにて敢えて殉職を再現している(52, 37)。すなわち、森島はるかは橘純一に迫る死の危険を承知の上で見送ってるのです。しかも、彼女こそが裏切り者の凶弾という「幻滅」の極を演出して見せた本人だ。ここに“武士道的”な内在的解脱との共通項が開けてくる。
田山 ……ひょっとするとスキBESTエピローグは橘純一がまさに殉職するその夜を描いているのかもしれない。
国木田 言いづらいけれど、それはちょっと如何わしい「考察」に片足突っ込んでいやしないか。
田山 「死んでいた」等ではなく、彼はこれから「確実に死ぬ」と言っているのだ。森島はるかはいずれ来る死を積極的に了解している。そして、前提としてここで扱う“武士道”は「涅槃」を廃棄している²⁸⁾。
田山 『アマガミ』もそうだと言い切るには根拠不十分かも知らんが、「わたし」の結晶を「BEST」、消滅を「BAD」と表現する事で絢辻詞は「涅槃」を物語るだろう。消滅した“あの子”は幸せだったが、“私”の世界に穴が空いた。
国木田 それは複雑な議論になりそうなので、今回触れるのはやめておきましょう。田山君、そろそろまとめに入ってくださいね。
田山 あア。輝日東には愛と欲望があって好い。……先の『セイレン』の批評から度々触れている“善なる意志”だが、要するにこれはカントの言うところの「端的に善なる意志(Der schlechterdings gute Wille)」または「善意志」である。
国木田 確かに進路の決定といい、上崎裡沙のエピソードといい、両作品とも動機説っぽい部分がありますかね。実際何が道徳的に正しいかは置いといて、目的論者の絢辻詞に、橘君の義務論はよく刺さる。もちろん、森島はるかにもね。
田山 日々の積み重ねが大事なんだ! 国木田君。
国木田 二回目です。
田山 畢竟、この善なる意志を生きている間に永久反復することで自己本来の完成を目指すことが“武士道的”だと、九鬼は言っている²⁸⁾。満足され得ない欲望をも“動的可能性が可能性のままに絶対化された”²⁹⁾「いき」の美として肯定するのだ。
国木田 そして「永遠の今」を生きよと。
田山 その願いが、火打石という呪物に託されているのです。呪的逃走譚のモチーフの中に「媚態」を織り交ぜたる、“fetishism”と“フェティシズム”のあわい。つまり「切り火」は森島はるか……否、田山はるか最後の〈妹の力〉なのです。
国木田 彼の進路、すなわち「生き方」の全うを祈る呪術ですか。そして男殺しのアルテミスは、月──☾「補助者」になる。
田山 そういうことやね。
国木田 ……なるほどね。一番良いところで本名プレイされたので台無しですけれども、少し発見がありました。
田山 ウフフ、国木田君。
国木田 発売から何年経っても『アマガミ』を語る人が饒舌で早口なのは、垂直的時間に生きているからだ。
田山 むむー。
国木田 それは冗談として、「永遠の今」を「いき」の表徴としての「桜花」「花火」「切り火」等に託しているという見方は、ちょっと面白いかも知れない。“武士道的”がスキBESTのテーマなのか、「運命」なのか、そもそもどうして『アマガミ』批評に九鬼周造を参照する必要があるのか、疑問は残りますが、今後の討論会での検討課題としましょうか……。
6. 神の賽の目
田山 そう言う意味で言うとね、森島はるかスキBESTエピローグは実に君好みの主題だと思ったね。国木田君、つまり、森島はるかの作っている「肉じゃが」というのは『牛肉と馬鈴薯』のあわいだ。
国木田 エエ……もう、田山君、まだ続けるんですか。流石にもう寝ましょうよ。色々と目を瞑ったんだから。
田山 森島はるかルートに「肉じゃが」はもう一箇所登場するね。“料理はちょっと苦手” ¹⁾な彼女が何故に上手く作れるかっちゅうと、美也が「びっくり肉じゃが」を伝授したからではないかと、僕は思う。
田山 さア「びっくり肉じゃが」という名称をもう一度じっくりと見るんだ。牛肉の実際主義と馬鈴薯の理想主義のせめぎ合いだろう。しかし、他でもない君の願いとは、”喫驚〈びっくり〉したい”ことだった²⁴⁾。それはつまり、どちらに与するでもなく、実存の──
国木田 あああ、やめてくださいよ、私の作まで巻き込まれるとは。無関係ですよ。
田山 ……君はつまり、牛肉や馬鈴薯の党派に属することでなく、ひとのデアイや、宇宙の不思議や、恋人の生死の偶然に驚異して「運命」を通告されることを望んだ。九鬼は運命について“人間の生存に至大な意味を有ってゐる偶然”であるという。この「びっくり肉じゃが」はあわいであり、愛する者の死を内在する呪物である。……運命愛の表象なのだ。
国木田 ありがた迷惑っちゅうのはこういうことを言うんですね。最早びっくり迷惑だ。九鬼もそう思っていますよ。
田山 国木田君、そもそも僕が九鬼周造を引き合いに出したのは何ういう話の流れだったか。覚えているかな。
国木田 エー、確か『偶然性の問題』を引いてくるところからで……あア、『アマガミ』の作劇が「偶然」を基調としているか如何かって話でしたか。
田山 ここで、国木田君にも是非とも考えてもらいたい。九鬼は、ある事柄について結果から原因へと因果系列を辿っていった果てにある初めの一個の偶然のことを「原始偶然」と呼んだ²³⁾。
田山 思うに『アマガミ』に見られる家族主義的なモチーフは被投性の問題を説く為にある。子どもが最初に目撃する「原始偶然」の結果と言うことです。親から子へと「垂直的」に伝えていく偶然性に何う向かい合うか……。したがって君の提唱する垂直性ヘソ舐め仮説は実に興味深い。
国木田 それも本当に偶然です。「運命」だとしても。
田山 この「原始偶然」の議論が『アマガミ』にとって重要であることは、当然ながら松岡君らも着目していました。
田山 “乾、坤、震、巽、坎、離、艮、兌の八通りの偶然”²³⁾の邂逅というのも『偶然性の問題』からの引用ですが、とりわけ彼らが淤能碁呂島に言及したのは『アマガミSS』における垂直的時間……つまり回帰的形而上学的時間に着目したからです。また、森島はるかのストーリーは“一切が別の在りかたで展開するような自然的・歴史的世界が存在していたであろう”²³⁾ことを思わせつつ、“最初の一発”に起こった決定的なデアイ……「原始偶然」であるわけです。
国木田 うーん……それは多分、そうだから、何とも言えません。
田山 「輝日東回帰」は「運命」を伴って、永久反復する時間です。この作品において、静止しないで円を描くものは大宇宙年の回帰性を表します。『アマガミSS』ではこの辺り、風車を象徴的に用いて表現している。風車は垂直に伸びる塔であり、同時に回帰的時間の真無限を表す円運動を表象する。あれを梵輪やモイラの運命の輪と見る方も在るでしょう。
国木田 始まった……。
田山 さて、ゲーム『アマガミ』にも風車に相当するシンボルが確かにあるね。それは先ほど述べた通り、周回プレイを前提とするゲーム性であるということも一つ関連している。国木田君は分かるかな。
国木田 さ、さア、さっぱり。
田山 「雪の結晶」だ。このゲームで回帰的現在を象徴しているものと言えば、メッセージウィンドウに現れる「雪の結晶」のゆくりない円運動です。
国木田 ん? あア、あれが表示されてる間はゲームの進行が「現在」で止まるってことですか。
田山 この意志的な時間²⁸⁾とは閉じられた円です。ボタンを押すまでゲーム内との水平的時間が進行しないのは、ある観点から「輝日東回帰」の時間性が僕たちの意志に依存するからです。しかし……大宇宙年が回り続けていることは、『アマガミ』世界にとって“形而上学的時間”である我々のリアルタイムが流れ去ることを意味しています。
国木田 え、そもそも回転するから“大宇宙年”なんですか……? 雪の結晶が?
田山 勿論「雪の結晶」が指し示すものは、それだけではありません。『アマガミ』は離接肢を偶然することの反復であると、先ほど僕は述べました。回帰的形而上学的時間の中で「わたし」の同一性を持つのは極めて難しいが、意志の力で無限回デアイを反復することでそれを結晶するのが「輝日東回帰」でした。
田山 離接肢とは例えば一つ一つの「イベント」です。イベントはヒロインらとの偶然の「デアイ」に始まる、完成された芸術品です。
田山 ゲーム『アマガミ』の基調とする偶然性とは、この小宇宙的構造の反復が『アマガミ』という大宇宙的芸術を形成する構造性格に他なりません。そう、この作品に宿る蠱惑的な生命感は、気象学上の偶然性にも似たメカニズムによるものです。フランスの数学者 ブノワ・マンデルブロは「自然はフラクタル」であると言いました。
この意味は、自然の形成原理は「自己相似性」にあるということです。言い換えると、全体を構成する一部の構造が全体の構造そのものと偶然に似通っているということです。例えばクリスマスに飾るもみの木の構造にも自己相似性があると言えます。
国木田 これ『アマガミ』の討論会で合ってますか。
田山 そして「雪の結晶」もまた自己相似図形です。全体と相似性のある部分が無限に反復することで結晶するものです。『アマガミ』とは行動マップの全体像と相似性のあるヘクスタイルを──「イベント」という名の小宇宙を偶然することで、「雪の結晶」あるいは大宇宙を生成する秘儀だったのです。
国木田 田山君トポロジーのトの字も分からんのでしょう。見るからに拵え物ですよ。『アマガミ』のアイコンはたぶん角板付樹枝ですし。
田山 国木田君、それは大宇宙的な視点から言えば、本当に些細なことです。
国木田 仮にこれを言いたいなら行動マップの全体図が自己相似図形でないと拙い。上崎裡沙のイベントは行動マップの中央でなく5時から6時の方向に位置していますし、贔屓目に見ても七角形がいいところですよ。元々は8つのカテゴリーから構成される予定だった¹⁾わけですし。
田山 ……君も早く、大宇宙年と再帰的な小宇宙的構造の「わたし」を結晶し、愛するべきです。『アマガミ』の悠久を感じよ。そして、九鬼はこうも言う。
田山 この「雪の結晶」すらも全体としての水に対する偶然性から出で来る、デアイの賜物であるということです。例えばその水は、橘純一から立ち昇る湯気であり得る。森島はるかの眺めた噴水であり得る。森島はるかの背筋を伝う汗であり得る。森島はるかの渡る海であり得る。森島はるかの口から滴り落ちる黄金色のスープであり得る。森島はるかの浸かったプールであり得る。森島はるかの残り湯であり得る。森島はるかの流す涙であり得る。そしてやはり、クリスマスに降る雪であり得る。大いなる循環の中に偶然見出された「わたし」なのです。
国木田 そ、そうでしたか。空の思想と違いますか。
田山 宇宙は「わたし」です。「わたし」の居場所は、偶然見出された宇宙です。雪の中です。水です。デアイです。“水の女”を愛するように、その「原始偶然」の賽の目を愛するのです。
国木田 ……はい。
田山 如何だったでしょうか。これをもちまして今夜のアマガミ座談会はお開きにいたします。足元に気をつけてお帰りください。
国木田 私の家です。
田山 次回は桜の頃にお目にかかりましょう。それではエンディング──
国木田 ……待った。田山君、一つ良いですか。
田山 ・・・
国木田 ……いや、そうだ。やはり違うな。
国木田 さっきから「原始偶然」の説明にサイコロの喩えが出てくるでしょう。どうも、それが『アマガミ』の実際と違っている気がします。
国木田 君が「意志の反復」と呼んだものとは、厳密には私たちの……「田山花袋」や「国木田独歩」というプレイヤーの意志の反復による。つまり、ここでは我々プレイヤーの故意が形而上的必然者になる。
国木田 森島はるかにとって僕らは“魔術師”で真の“魔物”だ。あるいは“遊戯する神”かも知れない。しかし、『アマガミ』には一つも“サイコロ”がないじゃないか。
■ 田山は瞑っていた目を開けると、ゆっくりと拍手をする。
田山 ……いや、流石だ。
田山 流石だよ、国木田独歩。我が生涯の盟友。
田山 ……その通り。九鬼の言葉を借りるならばアマガミ世界の現実が“無目的なまた無関心な自律的遊戯”の結果であると言えるのかどうかという議論だ。
国木田 ・・・
田山 人は『アマガミ』を購入する時点で、全ての選択肢(可能的離接肢)を網羅的に手に入れる。すなわち、可能性の全体は必然性と全然合致する。後に九鬼は“絶対的形而上的必然とは離接的地平において形而上的偶然〔可能性〕のすべてを部分とする全体”であり、“絶対的形而上的必然と原始偶然とは一者の両面”であると言う²³⁾。『アマガミ』に係る最も重大な“裏表”とは、実にこの両面である。
田山 「原始偶然」とはそもそも因果律による説明がつかない一面に充てた名だった²³⁾。なぜ世界がこうあるのか、この離接肢が選択されたのか、輪廻や万物再生論であってもこれを説明しない。
国木田 ……しかしそのような“絶対的形而上的必然”を私たち自身の意志が担うのだったら、どうか。プレイヤーとしてコントローラーを握っている間、我々は『アマガミ』の世界に介在する唯一の必然的存在者と説明がつく。
田山 因果系列の邂逅について無知な森島はるか等はいざ知らず、橘純一という一元の因果系列を恣に操作できる必然的存在者の手が加われば、つまりは“必然の相のもとに”橘純一と森島はるかは「デアイ」を遂げる。
田山 森島はるかの視点から“形而上”の存在である「田山花袋」にとって、『アマガミ』は「戯れ」でありながら一切の乱数発生器もダイスロールも必要としない──そこには勿論『キミキス』までの作品と違って、と言う文脈が付け加えられるべきだ。
田山 ここで『アマガミ』の特異性が浮き彫りになる。一度『アマガミ』の大宇宙を完成させた僕たちにとって、それはダイスゲームではなく寧ろ神経衰弱だ。我々は目的と関心をもって、配列の変わらない神経衰弱を反復する。無論、必然的に選び取ったカードの裏面には「偶然の出会い」という精緻な模様が描かれている。しかし、ここで「まれびと」や「オノゴロ島」は、もはや問題ではなくなる。
田山 あるいは当初の構想にあった『バハムート戦記』のようなゲーム性³¹⁾が実現していたらどうか。上崎裡沙とプレイヤーが交互に盤面を操作する将棋型の陣取りストラテジーゲームに発展していたかもしれない。いずれにせよ「サイコロ」の撤廃は看過すべからざる一大事である。『セイレン』ですごろくゲームを“クソゲー”として扱っているのは、決して笑い事ではない。我々自身が「原始偶然」の自己否定態なのだから。
国木田 いや……しかし『アマガミ』という離接肢全体もある“偶然の相のもとに”²³⁾見られると思いませんか。
田山 国木田君、それが“偶然性の問題”だね。『アマガミ』自体は厳密に操作可能な因果系列として機能する。もし『アマガミ』に「偶然性」を見出す場合は、それは他ならぬ、僕たち「田山花袋」と「国木田独歩」の生きる世界の偶然を意味する。
だが、それはもう『アマガミ』の批評を越えてしまう。
……『アマガミ』の全事象を試そうと思ったらば、組み合わせは天文学的な数字に膨れ上がる。ほぼ無際限と言っても好いぐらいだ。ふつう、人はこうした無限や偶然性の中に生命を認めたがる。実際、多くの恋愛SLGは乱数発生器を用いた「農耕」に落ち着いて行った。“恋愛”を謳わない現代の主流は、無際限の「狩猟採集」かもしれない。
いや、それでも『アマガミ』は有限で、しかも再現性がある。完全にマシンであって、「モノ」だ……
それはまるで、有限の面積と無限の周長を織りなす雪片が如きイリュージョンだ。『アマガミ』のまことに尋常ならざる点は、つまりは徹底的に機械論的な「モノ」として作られている遊戯だのに、しばしば内在するカミを見出され、霊化されるところにある。『アマガミ』はノベルでもないが、今日のヴァーチャル・アイドルでもない。「恋愛シミュレーション」という不思議な「モノ」だ。
何よりも「モノ」でしかあり得ないのだ……。
しかし──
■ エンディングテーマ『ずっと、このままで・・・〜シンセver.〜』が流れ始める。
──しかし、「モノ」に内在するカミを認めたとき、それは「呪物」になる。
■ 田山は、両腕を胸の前で組んで、天上を仰ぎ見た。すると突然、卓上の森島はるかから、淡紫色の火花が散り始めた。
■ 一つ、また一つと、閃光が走る。その度に耳鳴りのような音波の棘が、国木田を突き刺した。国木田は思わず後退りして耳を塞いだが、まるで遮音されなかった。あらぬ細胞同士が不正に同期しているような、不気味な戦慄が国木田を襲った。
■ スクリーンは暗転していた。暗闇を緑青色の光の斑点が漂い流れるが、捕えようとすると、視線から勢いよく逃げ去る。ふと気がつくと、田山がにじり寄って来ている。火花は連鎖反応を起こした風に、激しい明滅を伴って痙攣する。光の粒子が四方八方に飛散して弧を描き、森島はるかは、紫水晶色のヴェールを着飾った。耳鳴りは、槌で鈴を砕いたような音に代わっていた。国木田と田山のまなざしは、一度も交わらない。
■ 田山は、国木田の眼前で立ち止まると、腰を屈めた。そのまま跪拝するようにして、ヴェールの中に顔面を埋めていく。燐の火の渦にも見紛うような光は、かれの顔の皮膚に当たると、水飴に変態して、頬を垂れた。水飴の雫は一瞬、黒曜石の粒に変化して連なり、氷麗が落ちたように崩れて光った。火花の種が零れた床から、アメジストの山茶花が生長する。直ちに葯室が裂開し、夜光虫よりもずっと残酷な花粉を巻き散らした。間も無く部屋中に、煌めく泡沫状の死骸が降り注いだ。まるで宝石蒐集狂の抱く、息苦しい願望のような輝きだった。痙攣的な光の劫波に照らし出されたのは、匙についた飯粒を呑み込んだときと同じ、妖しい蛙の顔貌であった。国木田は息を飲む。蛙の巨体を軸に、激しい生死の明滅が循環していた。蛙は粘っこい蜜が絡まった瞼を下ろして目を細め、燻製にしんのような唇を大きく左右に波打たせると、裂け目から、辺縁のいびつな楕円形の舌を露わにした。それはちょうど、錆びた蜜柑の外果皮のように見えた。そして蛙は顔中に稲妻色の火焔を浴びながら、震える舌尖を森島はるかの膝の裏に這わせて……
・・・
・・・
・・・
国木田は田山の襟首を掴み、引き破るようにして、床に押し倒した
床板の軋む音と、硬質な衝突音が淡々と鳴った
蛍光灯がひとりでに灯った。音楽は止まっていた
グラスの水が左右に揺れている
ねんどろいどは、すっかりと火を喪って、鉛色の土塊になっていた
国木田は、不細工な襤褸人形のように両足を折って、膝をついた
床に横たわったまま、田山はくつくつと咽喉を鳴らして笑う
国木田の頬には、つめたい涙が流れていた
武蔵野の夜は、いよいよ冴えていた
☆第三夜に続く
[文献]
1)週刊ファミ通編集部.『アマガミオフィシャルコンプリートガイド』エンターブレイン, 2009.
2)伊波普猷.『をなり神の島(1)』平凡社, 1973.
3)柳田国男.『妹の力』角川書店, 1971.
4)谷川健一.『日本の神々』岩波書店, 1999.
5)国木田独歩.「運命論者」『国木田独歩全集』千歳出版, 2023.
6)エティエンヌ・スーリオ『二十万の演劇状況』石沢秀二訳, 白水社, 1969.
7)アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳, 岩波書店, 1959.
8)柳田國男.『海上の道』岩波書店, 1978.
9)野尻抱影.『星座の話』中央公論新社, 1981.
10)エーリッヒ・ノイマン.『意識の起源史」林道義訳, 2006.
11)柳田国男.『故郷七十年』講談社, 2016.
12)ヒギューヌス.『ギリシャ神話集』松田治・青山照男訳, 講談社, 2005.
13)折口信夫.「琉球の宗教」『折口信夫全集 2』中央公論社, 1966.
14)ジャン・ポール・サルトル.「ボードレール」『サルトル全集 第16巻』佐藤朔訳, 人文書院, 1980.
15)夢野久作.『少女地獄』角川書店, 1976.
16)ホメロス.『オデュッセイア(上)』呉茂一訳, グーテンベルク21, 2005.
17)プラトン.『国家(下)』藤沢令夫訳, 岩波書店, 1979.
18)向井雅明.『ラカン入門』筑摩書房, 2016.
19)斎藤環.『生き延びるためのラカン』筑摩書房, 2012.
20)ブルース・フィンク.『「エクリ」を読む──文字に添って』上尾真道・小倉拓也・渋谷亮訳, 人文書院, 2015.
21)片岡一竹.『疾風怒濤精神分析入門 ジャックラカン的生き方のススメ』誠信書房, 2022.
22)ジャック・ラカン.『エクリ(1-3)』宮本忠雄・ 竹内迪也・高橋徹・佐々木孝次訳, 弘文堂, 1972.
23)九鬼周造.『偶然性の問題』岩波書店, 2012.
24)国木田独歩.「牛肉と馬鈴薯」『国木田独歩全集』千歳出版, 2023.
25)南方熊楠.『南方マンダラ』中沢新一編, 河出書房新社, 2015.
26)マルセル・プルースト.『失われた時を求めて13』 第7篇「見出された時2」鈴木道彦訳, 集英社, 2007.
27)マルティン・ハイデッガー.『存在と時間(下)』細谷貞雄訳, 筑摩書房, 1994.
28)九鬼周造.『時間論 他二篇』岩波書店, 2016.
29)九鬼周造.『「いき」の構造 他二篇』岩波書店, 1979.
30)新渡戸稲造.『武士道』千歳出版, 2023.
31) 高山箕犀.『高山箕犀個展&アマガミ10周年記念展覧会「創設祭」』PhraseGallery編集部, 2019.
※この記事はフィクションです
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?