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身体で聴く、日常のなかの祝祭

フィジカルという、不合理で特別な回路


ソニーが「ウォークマン」を発売した1979年以来、人間は音楽を、ひとりで、耳のみで聴くことに慣れはじめた。以来、あらゆる場所で、周囲を憚ることなく、それぞれが好きな音楽を、即時に楽しむことが当然のことになった。
さらに進んだ今では、手元のスマホから溢れる多種多様なコンテンツに視覚と聴覚をジャックされ、マルチタスクは当たり前、音を単独でじっくり聴くことはない。音楽環境が豊かになるほどに細分化が進み、もはや音楽はリアルな友達とのコニュニケーションの媒介物ともなり得なくなった。その結果、音楽を楽しむことは、より受動的でちんまりとした行為になり、実にパーソナルなものになっている。

この状況は、あくまで進歩ゆえの合理的な帰結であり、是非を問う意味などはない。ただ、多くの人が、それを心地よく享受しているという事実があるだけだ。
だから「昔はよかった」なんて言うつもりはない。ディスクに愛着はあるけど、レコードがどんなに重くて収納に困るか知っている。バンド活動のコスパの悪さも承知しているし、真夜中のクラブにこもるなんてもう考えられない。
だけど、Wi-Fiから飛んでくる痩せた音じゃ物足りなかったり、耳を塞いで音楽を聴くのはつまらない時もあるし、音楽の感動を誰かと分かち合いたい時もある。

音は、振動だ。振動は、あらゆる物体に反響し、吸収されながら、空気を介して、空間に存在するものの情報を取り込んで伝わってくる。そこにあるもの全てが音の構成要素なのだ。振動は、空間に放たれた瞬間、さまざまな成分を含んだ、ある種のエネルギーになる。それを、全身で受け取るという体験が最近足りない。


人はなぜ音楽を聴くのか。それは、気持ちがいいからだ。
音楽は、快楽を与える。私たちを高揚させ、鎮静させ、恍惚とさせる。
ただ、その気持ちいい感覚というのは脳内現象にすぎない。特定の刺激をもとに分泌されるドーパミンなどの快楽物質がもたらすもので、人間はその奴隷なのである。
もし、快楽とはいかに脳に刺激を与えるかだ、という設定で、究極の合理性を追求するなら、音楽は耳どころか脳だけで聴くものになる。音楽が脳に与える様々な快楽に対応するパターンが解明された末には、音楽鑑賞は、個人の好みに合わせて合成した単純な電気刺激を、それぞれの脳に直接与えることに取って替わるかも知れない。
そんな未来は夢物語ではない。五感を再現するVRの開発が進み、脳とコンピューターの接続さえ行われようとしているし、現に、大多数の人間が、あらゆる単純化された刺激の中毒になって、SNSやゲームなどのバーチャル世界に没入している。

いつの頃からか、バーチャルの対義語はリアルではなく、フィジカルだということになっている。バーチャルこそリアル、という逆転現象が起こりつつある今、脳以外の領域がだいぶないがしろになっている気がするが、何も回路は“直通”だけじゃない。とりあえず、まだ体はあるじゃないか、ってことだ。 
身体で聴くということは、単純化の過程でこぼれ落ちてしまう微弱な刺激、音楽に含まれる大量の情報を、フィジカルなマテリアルを総動員して受信することだ。


そもそも古来より、なぜ音楽という生存に関係のなさそうな活動が、世界中で親しまれ発展し続けて来たのかといえば、それが人間の性だからとしか言いようがない。
私たちは生きた楽器なのだ。人間が幸福に生きる上では、それを確認するための「祝祭」が、欠かせないらしい。肉体を持った周波数そのものである存在が、同じく個別の周波数を持った他者や自然と共鳴しあう喜びが。
進歩と合理化はやむなく、それに抵抗する必要もないとて、人間が、物理的な肉体を持つ矛盾を抱えた存在であることに変わりがない以上、祝祭が必要なのだ。
フィジカルな回路で、聴き、奏で、互いの音色を愛であい、精神を拡大させて豊かに育んでゆくこと。この縮小する物質世界でやるべきことは、もうそれしかない。


text, design, artwork : ten kitami





以上は、私が企画している音楽ライブのフライヤーに寄稿した文章になります。

「INSPIRATION SOUND vol.2」、2回目の今回の出演アーティストは、前回に引き続きサックス奏者で即興アーティストのAzuさんと、サウンドバス奏者で唄い手のIzumiさんの2人に加えて、“ディジュリドゥ”という民族楽器の奏者でパーカッショニストの今津康佑くんが参加。

前回の「音による瞑想」に続き、今回は「身体で聴くこと」がテーマ。
ディジュリドゥとは、アボリジニが精霊と交信する祭儀で使う楽器ということもあって、儀式や祝祭をイメージしたセッションを行います。
例によって、サックス、ボーカル、ディジュリドゥ、クリスタルボウルという、謎の編成。でもって、瞑想、祝祭、インスピレーション、って、かなり怪しい…。どんなカオスになるのか予想がつきませんが、既存のフレームにとらわれない音楽との自由な関わり方、楽しみ方を共有することができれば嬉しく思います。

以下は、“音景”の3人の対談です。



“Return To Your Body”


イヤホンでは、お囃子は聴かない。」

てん 「身体で聴く」ことが今回のテーマだけど、奏者にとっての身体、または音と身体について聞かせてくれますか。
いずみ 歌い手として感じるのは、声を出すことで、自分の身体の存在を思い出させられるということ。声が全身の骨や筋肉に響くのを味わうことで、ああ身体を使ってるんだな、と実感する。
あず 私は楽器を使うけど、やっぱり、体ごと全身で演奏しているという感じはある。無意識にだけど、いかに楽器と一体になれるかを目指してるかな。
 あと、最近、改めて感じるのは、人間の体から発せられる肉声の持つ力。どんな人の声にも幅と深みがあって、必ず心に引っかかるものがあるなって。
 声は最高の楽器と言われるしね。
 ちなみに、サックスの音色は、人間の声に近い音とよく言われるよ。
 あ、何となくわかる。
 それに、奏者によってこれほど音が変わる楽器は他になかなかないと思う。吹く人によって全然違うんだよね。
 それはどうしてだろう?
 うーん、リード楽器の中でも、サックスは「鳴るポイント」が広くて割と無理のない息で音が出せるから、もともと持ってる個性が出やすいのかも。管楽器としては新しい楽器だし、いろいろ改良され、近代の加工技術が生かされているゆえ、操作の許容値が広いというか。
 ああ、古い時代の楽器は、鳴らすだけでも大変なものが多いよね。
 管だけじゃなく体もまた音を増幅させるから体格も関係するのだけど、サックスは自然に体に沿う形だし、楽器との距離が近い気もする。
 なるほど。たしかに、話しかけられているような気がする時があるな。
 でしょう。サックスの音はすごく心に沁みる時がある。それがこの楽器を選んだ理由の一つでもあるんだけど。
 ところで今回は、サックスとは対極のようなディジュリドゥという超原始的な民族楽器が加わるけど。
 まさに、管楽器の元祖ともいえる楽器。私が最初に思ったのは、結構意外な音が出るんだなって。
 というと?
 大地の響きのような一方、何というかエレクトロニックな音って感じもあって。あと、単音しか出ないのに、すごい可能性があるなと。音色もいろいろ変わるし、パーカッシブな要素もあって。
 なるほど、奥が深い。
 私は、ディジュリドゥを吹くのって、むしろ歌とかよりも動物が吠るみたいに自然な行為のような気がした。で、音はその人の生命そのものっていうか。
 ああ、呼吸とか鼓動といった生理現象のような。
 そうそう、増幅された生理現象の振動がこちらの身体に向かってくる感じは、迫力と同時に神聖さも感じる。
 そもそも祭儀で使うものだしね。アボリジニが精霊と交信するための。
 たしかに、セッションしてると何かスピリチュアルなものを感じたりもするよ。呪術的でもあり、瞑想的でもあり。
 祭儀と言うと大袈裟だけど、何も特別なことじゃなく、もとは音楽ってそういうものなんだろうね。ライブはお祭りみたいなものだし。
 音を奏でることはそれ自体に、祈りの要素があるし、宗教的な儀式とかお祭りの音楽は「身体で聴く」極みでもあるよね。身体ごと巻き込まれる。
 まさに「体験」だよね。ディジュリドゥもそうだけどお囃子とか絶対イヤホンじゃ聴かないし。
 はは、たしかに。
 もはや、そういう音の「体験」をするのが、ライブの意義だと思う。だからここ最近になって、身体性と結びついた伝統音楽に興味が出てきた。
 祭儀的な音楽というと、解放的で激しいのを想像しがちだけど、ゆるい音の波に乗ることで、感覚を研ぎ澄ませてゆくタイプのもあって、それもいいよね。
 そう、音の波に乗るといえばだけど、私にとって旋律に乗って歌うのは、まさに乗り物に乗っているような感じかも。安心感とドキドキ感が同時にある。うまく乗れている時は、ちゃんと自分の身体を信頼できていて。
 わかる。音と自分自身を信頼できているときの演奏は、気持ちいい。
 私は奏者じゃないから、そういう感覚を持てるのが羨ましい。素晴らしい演奏を聴くとむしろ疎外感を感じたりもするし。でも本来は、音楽を通して、自分の身体や外側と繋がることはステージ上の奏者の特権ではなくて、すべての人が可能なはずなんだよね。
 そう。本当にそのことを伝えたい。私は、むしろそのために音楽活動をしているようなもの。たとえば、肉声は誰もが持ってるし、声を出すことは、自分の身体と繋がりをつくる良い作業。ライブもワークショップも、誰もが、恥ずかしさとか恐れなしに自分を響かせるガイドになれたらと思ってやってる。
 私が即興をやっていて実感するのは、その場にいる全員が音に関係してるということ。声を出したりしなくても、空間や、私のインスピレーションに何かの影響を与えてる。だから、誰しもそこに居るだけで、その場限りの音楽を作ることができるっていう。
 それ、すごくわかる。サウンドバスも毎回ちがうものになるから、受ける人と一緒に作ってるのを感じる。
 一方的に聴くのでも無理に参加するでもなく、ただいるだけで、気がついたら自分も音の一部になってると感じられる場が作れたらいいね。
 音という「生きた乗り物」に乗り、運転する楽しさを共有しましょう。




INSPIRATION SOUND vol.2
身体で聴く、日常のなかの祝祭

音の導きで感覚を研ぎ澄ませ、
音の波に乗って身体を解放する。
音楽は、日常のなかの祝祭です。

クリスタルボウルによる音の瞑想、
楽譜のない、一期一会の即興音楽、
ディジュリドゥの原始の響きを、
身体で感じる、音の場へようこそ。

2023.6.11 sun     15:30 - 17:30(会場15:00)
カノンハウス鎌倉(248-0003 鎌倉市浄明寺3-10-37)


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