佐藤優樹に煽られている幾たびも見返す夏の野外フェスにて 2021年12月13日、佐藤優樹がモーニング娘。'21を卒業した。卒業コンサートとなった日本武道館公演は,、台湾及び香港を含めた全国137か所でライブビューイングが実施された。当日、僕も映画館にて彼女の雄姿を見届けた。あちこちでサイリウムを振る観客のなかで落涙を許しながら。 30歳を過ぎてアイドルにハマるとは思ってもみなかった。そんな本音を今も抱えつつ、アイドルという枠では決して語りきれない唯一無二の存在、表現者と
近づくほどに遠ざかりゆく心地して(それも陳腐か)東下りぬ 高さへと先細りゆく構造のおそろしく見ゆ塔の真下に テーブルの下に隠れしたまゆらに目と目は合いてそれきりの朝 ネクタイの結び目に見ゆほの暗き原理主義的ダンディズムはも 壇上に立てばわれへと注がるる視線の冷ややかなる気配して 封筒より壱萬円を置いてゆき去りし黒瀬珂瀾うつくし 顔と名の一致せぬ人やさしかり宴のやがて閉じてゆくとき 人たらしという誉め言葉浮かびくる誰のことともつかないけれど 敗走のごとき帰路にて
春宵のポルノのごとく極まりぬ耽美的カーチェイスシーンは 以前(※)、デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』を題材に取り上げた。僕個人としては、リンチのあの気味の悪さがどうも好みには合わない、と。一方、同じデヴィッドでも、デヴィッド・クローネンバーグはというと、かなり贔屓の映画監督である。 リンチに勝るとも劣らぬ偏執狂的なクローネンバーグ作品において、『クラッシュ』(1996年)は紛れもなく頭にドのつくほどの変態的映画だ。自動車事故に性的恍惚を感じるようにな
冬天の高さを仰ぎつつきみと制空権を奪い合いたし バーバリーの格子柄がどこかほろ苦き記憶に添いてさびし聖夜は くちびるはねじれて紅き薔薇となる滅びゆくもの美しき夜に 「Z世代だなんてあなたたち新興ゾンビ映画のようね」 うちがわから削られてゆくビズリーチの広告が繰り返し流れて なまなまと胸のあたりはつかえたり「中の人は」と言うときなども 都内某所というような曖昧さもて心のなかでお茶を濁した 表向きはあなたに味方しているという声、わがうちに澱みおり わたくしから最も
話しすぎなのはわたしか彼なのか花冷えの美容院にしばらく 三月という季の巡りに幾ばくか感傷的になりながら、その感慨に身を委ねるようにして詠んだ冒頭歌。率直に言えば、心情の提示の度合いと表現上の抑制とがそれなりに上手くいったと手前味噌ながら思う一首ではあったが、ある歌会でも珍しくまずまず票の集まる結果となった。 それはさておき、件の歌会では、歌そのものの評価とは別に、冒頭歌への反応が人によって様々であったことが印象的だった。 拙歌への共感ないしは歌意をすくう意見
銃声というときの声なまなまと夜の喉は引き絞られて 椀に味噌汁の残りの冷ゆる間をガザ侵攻の報は流れつ 黒き影を帯ぶるゆえ美しき響きもつ或いはセヴァストポリという名も ニューヨークに戦車の走る恍惚をあかときの夢のなかに抱けり 廃墟よりビル群は聳え立ちてゆく逆再生のヴィデオテープに 灰色の街、血や肉や慟哭のモザイク、匂いは知る由もなく 手のひらに名前を書いてそのときをただ待つのだという人々は 天使エスメラルダひととき現れていずこへ消えてゆく声もなく 細胞と細胞の頽れ
うすれゆく記憶のなかに幾たびも恋人にオフサイドを説明する 野球かサッカーかで言えば断然に野球派なのだが、一時、深夜に海外のサッカー中継を観ていた時期がある。社会人になってまだ間もない頃だったろうか、いかにもミーハーという感じで長続きはしなかったけれど、当時はプレミアリーグのマンチェスター・シティが贔屓のチームだった。 アグエロが好きだった。小柄ながらフィジカルが強く、相手守備陣との駆け引きに長けた類まれなるストライカーだった。その内、仕事に忙殺されるようになり、いつ
金木犀の香はたおやかに十月のヒューマンエラーの多かりしこと 壁にリトグラフわずかに傾きて西の窓より薄ら陽の射す キッチンへ水捨てにゆく夕さりの肩には二羽の鳥がたわむれて 四間飛車に右四間飛車にらみ合う烏丸通は夕明かりして パウル・クレー的輪郭を秋風のなかにほどきてあなたは来たり 小糠雨は薄くエタノールの匂いして水族館の横を過ぎたり 雨が重くシティ・ポップが軽やかな窓辺にカポーティを読みおり かなしみは秋の終わりを告げてゆく移動遊園地の黄のピエロ 木星と月近き夜
落椿は雨に流れて歌集未収録といわれる歌あまたあり 冒頭歌は、およそ五年ほど前に詠んだ歌なのだが、今にして思えば随分と言い過ぎている。(言い過ぎなのは、いつものことかもしれないけれど。)自らの歌を「落椿」に喩えるという図々しさは置いておくとして、「雨に流れて」や「あまたあり」はさすがに重い。これだと、落椿は雨に流れるどころか、開き直ってその場に留まり続けていそうだ。 それはそうとして、当時は第一歌集刊行から少し時間を経た頃で、ようやく自らの歌の欠点や稚拙さを冷静に省みる
固き握手に友と別れき空港は季節あらざる記憶の扉 神にも手出しできぬ領域かと思う空港といううつくしき場所 「KIXのXはなに?」 搭乗時間の迫る夕のロビーに 蜂蜜色の機影がやがて輪郭を失うまでの夕空を見つ 空輸にて求めし古書の見返しのエクスリブリス美しき秋の夜 紐育に秋は来たりぬ恋人を追いかけてゆく夢のなかにも 恋は始まらぬ九月のうすら寒きトランジットの間の三時間 あかときの空港は薄明かりしてSpotifyにて聴くビートルズ 旅をする力を失くしゆくわれか寂然と秋
手のひらで雪を感じたあの冬の心もとないグレート・ギャツビー 甘いなあと思う。冒頭歌は、拙著『The Moon Also Rises』中の一首だが、いかにも初期作品らしい青臭さがある。詩情の強度という点ではあまりに脆く、あえて言うなら、「あの冬」の「あの」というところがすこぶる心もとない。 それはさておき、今回はそんな『グレート・ギャツビー』の作者、F・スコット・フィッツジェラルドについて。 ♭ フィッツジェラルドは贔屓の作家だが、学生時代に最初に手にし
まぐわいの果ててゆくときアメーバの分裂、薄き培養皿のなかに ラ・トマティーナまぶしかりけり肉叢は血潮のごとき朱に染まりて かぶとむしの匂いの夜の性はきらきらとLGBTQ… 高所恐怖症の人しか愛せぬと女は言えり 緑の瞳 制汗剤のにおいの蠱惑的なるをハンディファンの風が運びき スマートフォンに記憶を同期させながら人ひとり忘れゆく夏の夜か 巨人サヨナラ負けの短夜にタクシーはまだつかまらぬまま メラニー・ロランうつくしき映画を終えて眺むる窓の外の晩夏光 メロンソーダ零
金木犀の香はたおやかに十月のヒューマンエラーの多かりしこと 最近、将棋を指し始めた。これがなかなか面白くて、僕にしては珍しく長続きしている。藤井聡太八冠の活躍に羽生善治九段の将棋連盟会長就任もあって、メディアでも頻繁に話題となる将棋界だが、世間でもしばらく前から空前の将棋ブームが到来しているという。 もともとは、いわゆる〈観る将〉だった。タイトル戦など注目のプロ棋士の対局について、棋譜解説の動画配信を見始めたのがきっかけだった。そこからしばらくして、オンライン将棋
七月の窓は大きく開かれてヴィシソワーズの冷ゆるのを待つ 嫉妬深き顔をしている立葵の花の高さを過ぐるときにも FSKはフィギュアスタンドキーホルダーの略らしくそのさやけき響き たまゆらを天使が通りたるのちに騒立つ初夏の教室あわれ 屋上で待っているわと耳打ちの夢より覚めて雨の土曜日 歯科助手の声に呼ばれてわたくしの名は仄暗きところより顕つ アンドロイドの臓器のごとく静もりてウォーターサーバー水を湛えつ 『まだらの紐』読みて挿し絵のおそろしき一夜はありき夏の彼方に
うちがわから削られてゆくビズリーチの広告が繰り返し流れて 2010年代あたりだろうか、現代短歌の時流という文脈において、〈生きづらさ〉の表出というのがひとつのシーンを生み出していた。歌集としては異例の反響を得た『滑走路』の萩原慎一郎をはじめとして、いわゆる〈生きづらさ系〉の系譜にある歌人たちは、非正規やワーキングプアという現代の一側面を照射しつつ、平成後期という時代の閉塞感をあぶり出していった。こうした系譜に位置する優れた歌人あるいは歌集は、短歌という詩形において、シ
頭痛持ちふたりは眠る紫陽花の色うつりゆく雨のあわいを 雷薄くひねもす雨の図書館にカフカを返すひと借りるひと 夜すがらの雨の上がりに蜘蛛の巣は鋼の色にしずくしており 雨垂れの音を受けつつ心とは壺のかたちに鎮もるものを わたしには靡かぬひとを誘いおり雨後さやかなる夕の珈琲店へ 光らねば蛍と言えず妹を置き去りにした紺碧の森 銀縁の眼鏡をはずす愛すとは強く自動詞だと思いつつ 橋の上と鏡の中は同じだと思う月夜の橋を渡りて キリコの絵に少女の顔は見えざるをその絵のごとく