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旅人宿の作り手 「自分らしい生き方」を叶える人生観

※宣伝会議「第46期編集・ライター養成講座」の卒業制作として書いた、最初の取材記事です。

江戸時代から残る宿場町、東海道五十三次。その47番目に位置する三重県亀山市の関宿(せきじゅく)の中心に、とてもユニークな宿がある。古民家ゲストハウス「旅人宿 石垣屋(たびびとやど いしがきや)」である。
「石垣屋」という場所は、単なる宿泊施設という枠には収まらない、独特な魅力で溢れている。

宿場町の中心で異彩を放つ

三重県亀山市関宿の 古民家ゲストハウス
「旅人宿 石垣屋」

築130年の古民家ゲストハウスである石垣屋には、江戸時代から続く町屋の形がそのまま残っている。宿に着いて真っ先に目を引くのは、入口横に張られた「旅人宿 石垣屋」の大きな日除け暖簾。中に入ると、玄関から奥へと開放的な土間が続いている。玄関左側に広がる板間には、近隣の住人から寄贈されたレトロな展示物がずらりと並ぶ。
他にも、広々とした畳の談話室、見事な苔に覆われた中庭、離れに佇む茶室など、目に映る物全てに日本家屋の情緒が感じられる。
水回りなどの共用設備は使いやすいようにリノベーションされており、清潔感がある。
また、部屋の至る所に音声対応機器やスマートリモコンが導入されており、宿の外観に反して家電類のスマート化が進んでいるのがシュールなポイントである。

入口から奥の中庭へと続く土間
縁側は、中庭と茶室を眺めながらくつろげる人気スポット

日本人のノスタルジーを刺激するのは、石垣屋の中だけではない。石垣屋は、関宿のちょうど真ん中に位置している。宿の前に立つと、東海道に沿った宿場町の景観が、東西約2キロメートルにわたって続いている。人通りが少ない時間帯に町を散策していると、本当に江戸時代の旅路を歩いているかのような気分を味わえる。

東京から京都まで、東海道を徒歩で旅する途中で
石垣屋に泊まる人は多い。

町全体が趣に満ちた場所なのだが、関宿の宿場町としての知名度は、実はそれほど高くない。
国道や最寄り駅からアクセスしやすいものの、伊勢や大阪・名古屋といった主要な観光地までは遠く、何かのついでに立ち寄るという状況が起こりにくい立地なのだ。
東海道の宿場町の1つとして、これまで何度も雑誌やテレビ番組で取り上げられてきた。しかし、古民家巡りやご当地グルメだけが目的であれは、概ね日帰りで完結できるコンパクトな町である。
宿泊客が集まりにくいことから、関宿に昔からあった宿は全て廃業してしまった。
現在、石垣屋は関宿唯一の宿泊施設だ。

石垣屋を訪れる宿泊客の大多数は、旅人同士の口コミからやってくる。
宿が始まって以来、旅人が旅人を呼び込む形で少しずつ輪が広がっていった。今では、石垣屋で過ごす時間を求めて全国各地からやってくる旅人たちが、年間を通して絶えない。
 
では、旅人たちは石垣屋の何に惹かれてやってくるのだろうか。

「第2の実家」に帰るという感覚

石垣屋の最大の魅力は、圧倒的な「実家感」なのである。
ここに泊まると、誰もが家族の一員のような一体感を感じることになる。企画好きな宿主が定期的にイベントを開催するほか、夜は宿主家族とその日の宿泊客で食卓を囲み、新規客も常連客も一緒になってワイワイと過ごす。初対面の相手でも、和やかな雰囲気の中で歓談するうちに、気づけばその場に馴染んでしまっているのだ。

夏の暑い日には、中庭で沖縄風の庭宴が開かれることも。

ここで出会う人々のバックグラウンドは、実に多様だ。年齢、生まれ、性別、仕事、居住地、全てがバラバラ。普段の生活では全く接点が無さそうな人と出会い、マニアックな話題に花を咲かせることもよくある。宿で出会ったご縁から旅人同士が結婚に至り、親子2代で宿を訪れることも。
これほどに濃厚な旅人同士の交流は、他の宿では決して体験できないだろう。

筆者が初めて泊まった2019年7月は、ちょうど「関宿祇園夏まつり」の時期だった。1年で最も多くの人が、この関宿に集まるタイミングである。
江戸時代から続く祭りの熱気に、普段の閑静な宿場町の雰囲気は一変する。日が昇るにつれて、町中が活気で満ちていった。
その中でも、石垣屋はひときわ大きな賑わいを見せていた。
全国から続々と宿泊客が集まってきて、宿の中では別枠の祭りが起きているかと思う程に盛り上がっていた。
そして日中の祭りが始まると、地元住民に混ざって宿泊客も山車引きに参加することができる。夜には、提灯の幻想的な明かりに包まれた4基の山車が町内を練り歩き、実に壮観である。
祭りが終わった後は、宿で夜通し宴会が開かれた。大勢で囲む食卓はとても賑やかで、話題が尽きることが無かった。

地元の人たちと一緒に、山車を蔵から出すお手伝い
祭りに集まった人で、町全体が活気にあふれる
石垣屋の前を引かれていく山車

石垣屋という場所は、旅の非日常感と、実家のようなアットホーム感が同居する不思議な空間である。人と人との距離がとても近く、どんな時でも家族のような温かさをもって迎えてくれる。そういったものが一体となり、石垣屋は多くの旅人たちにとって「第2の実家」のような場所になっている。

筆者も石垣屋を初めて訪れて以来、「近い方の実家に帰る」という感覚で度々泊まりに行っている。たまに訪れては旅話に花を咲かせて、つい長居したくなってしまうのだ。

日本中、心赴くまま歩いた日々

「今やっていることは、これまで自分にしてもらったことを返しているだけ。これから先、旅人たちの縁が繋がるような場所になれたら、それでいいと思ってる」
 
そう語るのは、石垣屋の宿主・堤卓哉さん(45)。
旅人宿を始めた14年前から、変わらぬ思いだと言う。

(左) 宿主・堤 卓哉さん (右) 妻・暢子さん

「自分で責任をとれる範囲なら、何でもやってみればいい」という主義の両親のもと、大阪で生まれ育った卓哉さん。学生時代から様々なアルバイトに挑戦した。
高校時代、バイク旅の面白さに目覚め、高校卒業後はアルバイトをかけもちしながら旅の資金を貯めた。当時難関だった大型二輪免許試験に満を持して合格した後は、購入したバイクで日本全国各地を旅した。
 
最初は、日本一周ではなく、世界一周の旅をしようと思っていたという。その考えを変えたのは、初めて訪れた富士山の山頂付近での出会いだった。バイクの駐輪場で偶然居合わせたバイカーと、8合目から山頂まで徒歩で一緒に登山した。彼は、日本だけでなく、世界中を旅したベテランの旅人だった。道すがら、数々の旅話を聞かせてくれた。そして、同じように世界を旅したいという卓哉さんを応援してくれたが、「ただなぁ」と話を区切った。

「世界を旅するのも、もちろん良いんだけど。まずは日本をじっくり旅するのも、良いと思う。海外で日本の良さについて聞かれたとき、何も答えられなかったら、やっぱり少し寂しいと思うから」

その言葉を受けて、卓哉さんは初めて日本を旅してみようと思ったという。
「富士山でその人に会わなかったら、多分そのまま世界中をバイクで走ってた」と言って笑った。

日本中を旅した日々は、新たな出会いと別れの連続。北海道から沖縄まで、行く先々で様々なご縁を重ねながら、心の赴くままに旅先を決めた。野宿やキャンプをしながら、自分の目でその土地を見て回るのが楽しかった。そして、数えきれないほどたくさんの人と出会い、その繋がりに助けられてきた。

沖縄の離島・竹富島にて、宿なし職無しで残金わずか800円になったこともあった。しかし、その日初めて出会った地元レンタサイクルショップの「おばあ」に拾われて、宿と職を得ることができたのだという。

また、その後竹富島で出会った愛犬「ゆりこ」は、長い旅生活で得た最も大きな宝物の1つだ。

竹富島の観光ガイドとして水牛車を引く卓哉さん
竹富島で出会い、長年石垣屋の看板犬をつとめた
愛犬「ゆりこ」

日本一周の縁結び

妻・暢子さんと出会ったのは、2001年。日本最北端の有人島・礼文島の桃岩荘というユースホステルで、卓哉さんが住み込みのヘルパーをしていた時のこと。当時、暢子さんは姉と2人で車中泊をしながら、日本一周している途中だった。
元々旅好きだったわけではなく、生まれ育った東北から生涯出ることはないだろうと思っていた。
転機が訪れたのは、大学時代。姉がヨーロッパでバックパッカーを始めたことをきっかけに、徐々に旅の楽しさにはまっていった。国内だけに留まらず、海外も積極的に足を延ばすようになった。
 
出会った頃から共に旅好きだった2人。「お互い一緒に楽しめる部分を最大限楽しむ」というスタイルと、おおらかで細かいことを気にし過ぎない性格が、よく合っていたという。

理想の定住場所を探して

兵庫県尼崎市にて2年ほど同棲期間を過ごした後、2008年、2人と1匹で「住みたい場所」を探す旅に出た。
これまでの旅経験から、どんな場所でも生きていけるという自信が2人共にあった。唯一決まっていた希望条件は、「愛犬にのびのびと過ごしてほしい」という気持ちから、庭付きの家にしたいという事だけだった。
生活道具と遊び道具を車に詰め込み、再び日本全国を巡った。

日本最北端の有人島・礼文島でカヤックを漕ぐ2人と1匹

ある日、福島県の宿場町・大井宿に偶然立ち寄った。初めて見た宿場町の雰囲気を気に入って以来、旅路の道すがら宿場町に立ち寄る「宿通い(じゅくがよい)」を始めた。
旅を始めてから5か月ほど経った頃、三重県の宿場町・関宿を初めて訪れた。偶然空き家になっていた古民家のオーナーと出会い、縁あってその古民家に住むに至った。

「石垣屋」宿主夫妻の人生観

関宿に住み始めた当初は、ここで宿を開こうという考えは全くなかった。長らく空き家だった為、最初は庭の手入れや家屋の細かな修繕などに追われた。暮らし続けるにつれて徐々に住環境が整い、古民家での暮らしにも慣れてきた頃。家を、宿として活用したいと思うようになった。

「日本の旅人たちを支援する場所を作りたいと思って。喫茶店とか飲み屋でもよかったの。でも、その頃、関宿に泊まれる場所が無かったから、宿にしようってことになって」
 
当時を振り返りながら、暢子さんは語った。
旅時代に得られた宝物は、やはり旅人同士の繋がり。それを作る場を提供したいという思いは、旅人として出会った夫婦2人に通じる熱意だった。

各地から遊びに来る旅仲間の協力もあり、2009年3月に「旅人宿 石垣屋」をオープンした。
最初の2年ほどは、新規の宿泊客はほとんど訪れず、宿としての収益は決して多くは無かった。そんな中でも、宿の基本的な形は、「昔も今も、変えたことはない」と言う。
石垣屋のホームページには、宿泊客に向けた独自ルール「宿泊心得」が、宿のオープン当時からが掲載されている。一般的な宿泊施設とは一味違った内容に、驚かれることは珍しくない。中には、宿泊客のレビューで、否定的な意見を書かれることも。
それでもなお、変わらずに続く宿の在り方の根底には、ここで生まれる人と人との出会いを、心ゆくまで楽しんでほしいという願いがある。今の石垣屋を形作っているのは、ここに集う人と人の繋がりであり、その繋がりがもたらす「第2の実家感」であり、なによりも宿主夫妻が旅で得た人生観そのものなのである。

石垣屋で出会った旅人2人の結婚披露宴。宿で繋がった旅人たちが、各地から大勢集まった

コロナ禍を経て得たもの

2020年、コロナ禍で人々の外出が長らく制限されたことで、全国の観光業は大打撃を受けた。石垣屋も営業自粛を余儀なくされ、関宿は火が消えたような静けさに包まれた。これまで経験したことのない、閉塞感に満ちた日々が続いた。

しかし、この状況になって得られたものもある。石垣屋に、宿泊以外で多くの問い合わせが入るようになったのだ。
結婚式は無理でもフォトウエディングだけは叶えたいという新郎新婦、時代物の写真撮影がしたいコスプレイヤー、泊まりこみで映画を撮影したい映画監督など、問い合わせ内容は驚くほど幅広い。宿泊以外で、石垣屋にこれほど多くのニーズがあるということを、宿主夫妻はコロナ禍になって初めて知ったという。

この新たな気づきは、「石垣屋という場所をより広く活用する転機になった」と、宿主夫妻は肯定的に捉えている。人が繋がる場所を提供するアプローチとして、新たな挑戦を始めることに、ためらいは見られない。
そして、これから宿を訪れる人たちの、新たな挑戦を応援したいという。
 
「一度きりの人生だから。大事なことは、これまでもこれからも変わらない。一言でいうなら、『人生、やったもん勝ち』ってことかな」
 
そう語られた言葉は、血の通った重みをもって響いた。

縁側でのフォトウエディングの様子

三重の古民家ゲストハウス 旅人宿 石垣屋

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