アポなし訪問

アポなしが最良?

 我が家というか、私の親戚の一部には謎の思考がある。「アポなし訪問が一番良い」というものだ。
 「誰かの家を訪問する際に、いちいち前もって連絡するなんて水くさい。第一、前もって連絡したら、掃除をしたり茶菓子を用意したり、大変ではないか。いきなり訪問した方が、お互いに気をつかわずにすんでよいのだ」というのである。

 本当ですか? 本当に突然誰かが訪問してきて、気をつかわずにいられますか? そんなわけがないでしょう。

 突然「これから行くけど」と連絡が来る。びっくりしていると5分とたたずにやってくる。我が家のすぐ近くまで来てから連絡してきたのだ。部屋は散らかったままだ。会いたがっていた肝心の家人が外出していることもある。食事時に来たのに何の用意もないこともある。
 帰っていく親戚を見送りながら、「せめて朝のうちに連絡してくれたらよかったのに」と何度恨めしい気持ちになったことか。
 
 しかし、同じことを同じ理屈で我が家もやった。
 夕飯後、急に「◯◯◯に行くぞ」と言う。◯◯◯は祖父の兄一家である。車で1時間くらいのところに住んでいる。えっ、これから行くの? 連絡してないよね。
 行ってしまうのだ。当然、向こうはびっくりする。ありあわせの茶菓子で歓待してくれる。ただの茶飲み話をする。明日は出勤だというのに。
 我が家が帰った後、◯◯◯家ではどんな話をしていたのだろう。

祖父は突然思いつく

 私が大学1年の正月のことだったと思う。冬休みも終わり、明日には大学の寮に戻ろうという日の夜、祖父が突然言い出した。「明日はお前の大学を見に行くぞ」「ついでに◯◯◯や✕✕✕にも会いたい」
 ◯◯◯さんは祖父の親しい親戚で、私が通っている大学近くに勤めている。✕✕✕さんは祖父の遠い親戚で、高齢のおばあさまである。長いこと疎遠になっていた。私の進学を機に交流が再開した。
 いやいやいや、大学を見に行くのは大丈夫だとしても、◯◯◯さんや✕✕✕さんに会いに行くのはどんなもんだろう。学生はともかく、世間は仕事が始まっている。急に行ったら大変だ。もっとゆっくりできる時に出かければいいのに。
 しかし「アポなし訪問が一番良い」という、いつもの思考が炸裂した。誰も止められない。祖父は私に同行することになった。いくらなんでも到着の5分前に連絡するのは失礼だということになり、急遽◯◯◯さんと✕✕✕さんにも連絡をとった。

祖父は強い

 翌日、祖父は私に同行し、大学を見学したり親戚に会ったりしたのだが、どういう順番だったのかよく覚えていない。断片的に覚えていることを書き留めておく。
 私は祖父を図書館に連れて行き、臨時の許可証を発行してもらった。祖父は大学図書館の大きさに感動し、前から探していた文献がこの図書館にあることを突き止め、コピーをとった。「黄石公三略」に関するものだった。(これを書いていてふっと思い出した。忘れているようで記憶の襞に入っているものってあるものだ。)

 食事をどこでとるか迷った。祖父は偏食なのだ。何にすればよいのか。わりと評判のよい定食屋を選んだ。口にあったようでほっとしたが、会計の時に「ここの料理は美味いが量が多すぎる。これはたいそうもったいない。今後は客にあわせて料理の量を加減すべきである」とお店の人に延々と説教を始め、はらはらした。祖父のこういうところが大変なのだ。

 ◯◯◯さんにも会った。◯◯◯さんは急遽仕事を休んで待っていてくれた。しかも、祖父のために職場の見学コーナーを予約しておいてくれた。ふだんは小中学生がいっぱいいるのだろうが、こんな日に見学に来る学校はない。人の少ない見学コーナーを見てまわった。◯◯◯さん自ら説明してくれた。私も一緒に聴くことができて貴重な機会となった。

 ✕✕✕さんのところも、無理やり休みを数時間もらって対応してくれた。✕✕✕のおばあさまと祖父が会うのは何年ぶりだったのだろう。数十年ぶりかもしれない。2人にしかわからない話題で盛り上がっていた。祖父は2人の共通の故郷の写真を持ってきていて、それをおばあさまに見せていた。今度来るときはまた違う写真を持ってくるとも言っていた。

 まったく大変だった。祖父の突然の思いつきのために皆さんにご迷惑をおかけした。それでもおばあさまと再会できたのはよかった。今度はもっと前もって連絡しておかなければ……
 などと思っていたのだが。

アポなしは続く

 その年の5月、✕✕✕のおばあさまは亡くなってしまった。体調を崩していた祖父は葬儀に参列できなかった。せっかく再会できたのに。祖父はどんなに残念だっただろう。
 しかし、そのことについて祖父と話す前に、祖父も亡くなってしまった。5月の末のことだった。あまりに急なことで本人もびっくりしたと思う。

 祖父が亡くなった後も、我が家は「アポなし訪問」をしたりされたりしている。そのたびに大変な思いをするのだが、祖父の大学訪問(と親戚訪問)はアポなしでもあの時思い立って実行しておいてよかった。「アポなしの方が気をつかわない」ということはないけれど、思ったら実行に移すことが大切なこともある。

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