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俺バカだからよくわかんねーけどさぁ…

 頭のいい人ほど時間の大切さに気づくのが早いんやろな。時間のみならず金の使い方もわきまえとんのやろな。ついでに人付き合いも上手いんやろな。付き合う人を上手く選んでるっていうか。
 何かを成すには時間がかかる。それを理解しているから、人生の早い段階で将来設計をして、しっかり準備して、行きたい方向にどんどん進んでいく。毎日楽しいだろうな。充実してるんだろうな。

 そういうふうに自分の人生を生きていこうという覚悟が私にはずっとなかった。誰でもいいからやさしくしてほしくて、やりたくないことは避け続けて、かといってやりたいことがあるわけでもなかった。ただただ時間を持て余していて、いつだって退屈だった。何もやりたくなかった。大バカ者だった。
 そういう自分の幼さを自覚したのは本当に最近だったから、「齢32にしてようやっとですか。長かったですね。」と自分でも思う。
 だけど、どんなに周りより遅かったとしても、気づいただけよかったし、気づいたから直しようがあるわけじゃん。これから軌道修正すればいいじゃん。
 みっともない自分と対峙した日々は本当につらく苦しく、発狂寸前だったけど、爆ギレしながら泣きながら、しがみついてきたじゃん、生きることに。やめなかったじゃん。えらいじゃん。

 「察してほしかった」自分ってほんとなんだったんだろうなと今となっては思うんだよね。だけどしぬほど苦しかった時期は本気でそういう思考回路だったんだから仕方なかった。でもそれって甘え以外の何物でもなかったし、完全に子どものやることだったんだよ。
 自分の気持ちや意見を伝えることは、大人として必要なふるまいだ。他者に面倒を見させるなんてのは言語道断…とまではいかないが、「してほしいな」と思うだけで何も伝えず、「してくれない!」「なんで?!」と不機嫌になるのは、100%ガキのムーブであった。みんなたちごめん。小ガキのころに卒業しておくべきことを大人になってやっていた私は情けなくて消えたいです。
 でもまぁ自分が言われなくてもやるべき(というか、自分以外にやる人がいない)と判断して率先して動いてるのに、コイツらはテメーの仕事しかやらねぇで死ねクソ!と思ったのも事実だからな。私ばかりが悪いわけでもないんですよね。

 「世界で一番お姫様」なふるまいを許し続けられる人なんてたぶんこの地球上のどこにも存在しないと思う。単純に面倒くさいし、初めはよくてもいつか必ず疲れ果てて離れていく。だって相互の思いやりじゃないもん。一方的な搾取だもん、こんなん。ごめんねと思う。

 山月記を高2のときに習って、当時はひとつも李徴のことを理解できなかったけど、あぁ、劣等感の裏返しがプライドの高さ=傷つきたくないにつながるわけね、わかる…って感じ。
 学生のころに実感を伴ってわかることってどれほどあるだろうね。それでも毎日ちゃんと学校に通って授業を受けていたんですよね。わからないなりに聞いてはいたんだよね。そういう時期が私にも確かにあったんですね。

 思春期からの脱皮を描いた作品となると、押見修造先生の「惡の華」が思い浮かぶ。
 10年以上前の22歳ころが初読だったけれど、当時は意味のわからないところも多くて、ただ主人公とヒロインたちの関係性がどんどん切迫していくのは鬼気迫るものがあって夢中で読んだな。
 そのあとも何回か繰り返し読んだ(コミックス全巻持っているので)けど、いまいちピンとこない感覚がずっとあって。
 けれど去年しにそうになりながら必死に生きていたころ、惡の華名場面集が頭の中で何度もフラッシュバックしてさ。「あぁ、あれってこういうことだったんだ」と、「実体験を通してより深く二次元を味わう」という経験を何度もした。(今もしてる。というか、何を観ても勝手に面白さを見出してるという感覚がある。)
 惡の華に関しては、仲村さんの「どこへ行っても私は消えてくれないから」というセリフを思い出して息が止まった。
 周りがクズ、全部クズ、こんな世界なら全部壊してしまいたいと思っても、自分の厄介さが世界をそういうふうに捉えてしまうのならば、じゃあこんな自分こそ「いなくなってしまえばいい」という気持ちを、理解する日が来ようとは思わなかった。
 押見先生は惡の華の後半からはスクリーントーンを一切使わないリアル寄りの作画(絵が上手くないとできないこと)に変わっていくのですが、↑のシーンでは絵柄もマンガっぽく、スクリーントーンもふんだんに使用しており、今とはまた違った魅力のあるいい絵を描いてるんですよ。展開の盛り上がりも相まって非常に見応えがあるので是非読んでいただきたい。

 脱線したけど、過去に読んだり観たりした「好きだけどイマイチわからない箇所のあったマンガ・アニメ」を唐突に「理解る」感覚が何度もあった。
 オタクとして生きてるだけじゃ到達することのできなかったところに辿り着けたのは、思ってもみなかったことで、なんというか、「作品を理解する」ためにやってるわけではないのだけど、結果として「理解ってしまった」という感覚。

 32だよ?!もう遅いよ!!って、すごく落ち込んでいたけど、「人生が始まった感覚」が31歳である去年からなのだから、そう考えると恐ろしいほどのスピードで進んでんじゃんね、むしろ。と思い直した。
 周りと比較すれば絶対に遅い。だけど、そんなことして落ち込んでたって仕方ないし、意味がないし、非生産的だからね。

 甘えを捨てた先に何があるのか。大人として生きていった先で何をつかむのか。私は弊社を捨ててよりよい職場で働くことができるのか。素敵なパートナーと出会うことはできるのか。
 すべて自分の行動にかかってる。

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