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【国際関係】東南アジアという名称が生まれるまで

ASEANに代表されるように、東南アジアの存在は昔と比較して大きくなっており現在進行形で成長を続けています。海外旅行先としても、物価がまだ安いこともあると思いますがそれを抜きにしても、観光地として日本人が選択する割合は着実に増えていると思います。

そんな東南アジアですが、「東南アジア」という名前は昔からあったものではなく比較的新しい括りであることが読書をしていて分かったので、今回は「東南アジア」という名称が生まれるまでを簡単に解説しようと思います。


第二次世界大戦下の日本の侵略

第二次世界大戦において、当時軍国主義の日本は現在の東南アジア地域を「大東亜共栄圏」という構想のもと支配下に治めようと侵略していました。それに対して英米を中心とする連合軍はセイロン(現在のスリランカ)のコロンボに「東南アジア総司令部」を作りました。

東南アジアという名前が現在は定着しているので何も引っ掛かる点が無いと思うのですが、実は当時はまだ「東南アジア」という言葉が公式に使われたことはありませんでした。ですので「自分たちは東南アジアの一員だ」という認識も勿論なかったのです。

日本の大東亜共栄圏構想による侵略と、それに対する連合軍の東南アジア総司令部の設置によって、東南アジアという括りが段々と定着していきます。

ASEANによる協力体制

ASEANとは元々東西冷戦下で、北ベトナムと南ベトナムがそれぞれ共産主義と資本主義勢力に分かれて争っていた際に、共産主義に国が生まれるとドミノ式に隣国にも広がっていくという「ドミノ理論」を恐れた東南アジア地域の資本主義国家が一緒になって防波堤を作ろうというのが始まりです。

その後、共産主義への防波堤という側面より経済協力の側面の方が強くなっていき、現在のASEANへと繋がっていきます。第二次世界大戦下の時点では東南アジアという言葉が公式で使われだしたものの、まだ一体感はおそらく無かったのですが、このASEANの流れによって次第に東南アジアの一体感や結束が生まれていきます。

自己認識は外部との区別で生まれる

今回の東南アジアという概念の定着を見てみると、認識とは外部との区別によって生じるということが分かると思います。元はアジアの南シナ海のあたりにある国々でしか無かったはずですが、日本の侵略、共産主義への抵抗という外部との関わりの中で、自分たちは東南アジアであるという認識が生まれていったと思います。

日本も戦国時代にはいくつもの勢力が国内で戦っていましたが、江戸時代には入り、ペリーが来航して開国が迫られて以降、自分たちは日本という国であるという認識が強まったと思います。開国するまで国旗も無かったですしね。

自分が何者か、という問いにおいても他社との関わりと何が違うのかといった区別を通して認識が深まるのかもしれません。

以上、東南アジアという名称が生まれるまで、についてでした。
ありがとうございました!

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