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愛と献身

R. シュタイナーは、「エーテル的な意味での献身とは、他の存在あるいは事象の中で自分を体験することであり、愛とは、自分の魂の中で他者を体験することである。」と言っています。自分を含めて、「愛」と「献身」は同じようなものだと思っている人が多いと思われますが、どうも正反対のもののようです。「献身」では、他者が前提となるため、その中で自分をしっかり保つ必要があるのに対して、「愛」の場合は、あくまでも自分が前提となるため、できるだけ自分を抑制する必要があるわけです。かつて、オウム真理教の信者たちは「献身的に」教団のために働いていたけれども、自分を見失っていたのではないでしょうか。宗教や仕事に献身的に取り組むとき、自分のエゴを前面に出すならば、それはむしろ善い献身であり、自分を抑制するような献身は悪い献身であると言えるでしょう。逆に、自分を前面に出す「愛」は悪い愛であり、自分を抑制する「愛」こそが善い愛である、ということになります。このように、愛と献身が対極的なものであるとすれば、この対極性に対するものとは何か?ということになりますが、恐らく、それは自他の区別を超越したものとしての「共同体」ではないでしょうか。献身的に愛し合う二人(夫婦)でも、いつまでもそれが続くとは限りません。その後に二人が辿るべき道は二つに一つ、お互いが「自分」を取り戻すために別れる(離婚する)か、「共同体」になるかですね(^^;

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