見出し画像

『すばらしき世界』は何処に

先日、昭和の名残がある極楽寺街道(勝手に命名)を通り、気儘に稲村ヶ崎までの散歩を堪能した。気に入った場所では、シャッターを押し記録を残した。潮風が吹いてくる細い路地のような道をくぐると眼前に現れたのは抜けるような青空と輝く海。すばらしき世界があった。

『すばらしき世界』と云えば、三上正男。未来の翼さんの書いたレビューを読んだ。

ヘッダーの写真の光景がまぶたに蘇った。これ三上と一緒の気持ちかも知らん、と少しだけもやもやが晴れた。

あの恍惚の表情、晴れ渡った空。

翼さんが、何がすばらしいのだろうと考えているので、私も考えてみた。

西川監督がインタビューで語っていたようであるが、「すばらしい」の語源は、小さくなる、狭くなるという意味の動詞「すばる(窄)」からだという説があるそう。 「すばる」には「すぼる」という語形もあり、その形容詞形「すぼし」は古くから、みすぼらしい、肩身が狭いという意味で使われていたそう。その「す」と「晴れる」が結びついて、すばらしいが良い意味に転じた。

抑圧された世間での暮らし、社会から追われるような三上の生き様。彼の頭には彼の縛られている(狭い意味での)正義が埋め込まれている。その正義から逃れられずに振るう蛮勇。皆から、敬遠されるが彼自身はその意味がわからない。狭い世界に閉じ込められていて息苦しく肩身が狭いことだけを感じる。彼があの碧空へと抜ける道がどこにあるのか。

映画を観た人が思い思いに答えを出せばいいのだろう。

私は、極楽街道を通りながら、鎌倉時代に生きた市井の人々の毎日に思いを馳せた。明日も生きられるかわからない日々を生き抜く苦しさはそれだけで精いっぱいだったかもしれない。直視できないような非道いことが日常に起こっただろう。

西方浄土に答えを見い出せれば、あちら側には極楽が待っているはず。彼岸にはきっと苦しみから逃れて幸せに溢れた世界がある。その希望を胸に秘め、今日という日を生きていたのではなかろうか、と想像する。

細い路地から抜けた青空と海は、日々の雑念からいっとき心を開放してくれる。

三上のそばには、いろいろな人が集まってきていた。きっと、つつましやかな葬儀が執り行われただろう。参列者は皆、三上の一握りの何かを共有している。忘れてしまったかもしれないが、自分の中にも内在する純粋なるもの。純粋は時に破壊的になり衝動性を制御できないが、美しい。その美が見える人たちは、自分の罪の許しを乞うように三上のそばに集まる。自分の罪も洗い流したいから。

人は誰しも小さなすぼまった世界に生きている。心の片隅には、そこから逃れたい、自由に生きたい、という希望を持っているにせよ。そして、現実の世では、己の器に収まるようにしつけられ、従順に生きるように教育される。大多数の人は自分のエネルギーをコントロールしながら生を全うするのだろう。

しかしながら、道から逸れた人、それが正しいと信じてしまった人もいる。親鸞は機があれば人はどんなことでも犯してしまうという。そうであれば、罪は本当に個人にあるのだろうか?

宿命と運命は少しだけニュアンスが違うらしい。宿命は、私たちがこの世の中に命を授かったときに、既に私たちの中に宿っていたものをさし、運命は、自分の意思で、授かった命を運んでゆくという意味がある。

宿命は変えられないが、運命は変えることができる。だから、人は藻掻いたり足掻いたり、諦めたりして一人ひとりの時を過ごしていく。

彼岸から帰った人はいないので検証する術は無いが、あちらではずっと青空が広がってるらしい。

しかしながら、此岸でも目を凝らしていさえすれば、毎日一瞬の晴れ間くらいは訪れる。それほど神さまは意地悪ではない。

そう、あの極楽街道から覗いていた青い世界。毎日一瞬くらいは感じることのできるブルー。

こちら岸では、日々その色をほんの一瞬だけでも感じることができれば幸せなのかもなぁ、とまたもや平凡な結論に至る。 

たぶん三上にも生きてるうちに青空が見えてたと思う。そう思う。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?