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国立ハンセン病資料館に行った。

国立ハンセン病資料館を訪れた。資料館の近くにある社会事業大学の教授から「一度は足を運んでください」と言われて2年が経ち、ようやく来ることができた。

玄関前の碑

13時頃到着したところ、思ったより人がたくさん来ていた。本日は、100名定員の朗読会があり、そのためらしい。企画展示は、多摩全生園絵画の100年であり常設展示にあわせて見る方も来ていた。

館内には、図書館も併設されている。そもそも、日本のハンセン病療養所は文芸活動が活発で、この文芸活動に関わっていた人たちが使っていたのが、1970年代半ばに作られたハンセン病図書館。
 そのハンセン病図書館も使用する人が徐々に減り、図書館の今後が協議されて出来たのが、今日訪れた国立ハンセン病資料館の前身、高松宮記念ハンセン病資料館という歴史がある。

著名な『いのちの初夜』の著者、北条民雄は、「同情など断じて求めはしない」と書いた。今日は、その意味も深く理解したい。

年頭雑感
北條民雄
 思へばここ数年来、年あらたまる毎に私の生活は苦痛を増すばかりであつた。十七の春、小林多喜二氏の「不在地主」を読んで初めて現実への夢を破られた私は、それ以来愚劣な人生と醜悪な現実を友として過して来た。夢は遠く消え失せ、残つたものは冷い鉄くづや、何の役にも立たない石ころばかりであつた。そしてエントロピーが極大限に達した瞬間を想像しては、にやにやと笑ふのであつた。それ故に癩の発病は私に対して大した力を持たなかつた。お前の病気は癩だと医者に言はれたとき、私はなんとなく滑稽になつてにやりと笑つたのを覚えてゐる。あれは四国の私の田舎の皮膚科病院の一室であつたが、その時私の体内の熱は平衡に達してゐたらしい。私は自分の体内に新しく癩菌といふ友人を発見して、恐しいといふよりも奇妙な楽しさを覚えてをかしかつたのである。しかし、この新しい友人のなんと執拗な力を持つてゐることか。私の熱平衡は徐々にくづれ、それまで私の理性の圧迫下で黙々と耐へてゐた「苦痛」といふやつが、少しづつ頭を抬げて、やがて理性に対決する力を持ち始めたのだ。そしてこれは必然私にペンを持たせた。私は文学といふものが初めて必要になつたのである。
「私は文学者、筆あるが故に筆を通じ、筆と共にゐるからこそ、ものを感じて来たのです。」
 と、ギュスタフ・フロオベルは書簡に言ふ。筆と共にゐるからこそものを感じて来た――もし小説を書かなかつたら、私は今持つてゐる唯ひとつの夢をすら持ち得なかつたであらう。さう、苦痛は私に夢を与へた。そして夢あるが故に、苦痛はますます激しさを加へて行くであらう。
 また新しい年をひとつ迎へた。二十四度目の正月である。二十三度目の正月よりも苦痛は深い。しかし苦痛が私を救つたのではないか。それなら苦痛とは何ものなのか。それは説明など出来ないものだ。ただ小説といふ武器をもつて追求して行くだけだ。これが年頭に際し、先づ私の頭に来る感想である。
「同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。」
 と私は佐柄木に言はせて置いた。同情と愛情とを混同するなかれ。私が欲しいものは愛情。同情など断じて私は求めはしない。
(未完?)

青空文庫HP

この資料館の設置された目的について事前に調べてもみた。

2012年10月24日、25日に開催された歴史保存ワークショップの場で、高松宮記念ハンセン病資料館の創設メンバーの1人で、現在の国立ハンセン病資料館の運営委員、そして積極的に語り部活動をしている平沢保治さんが語っている言葉が、理解しやすい。

「ハンセン病の歴史は自分たちが語らなければ、社会から忘れ去られてしまう。忘れ去られてしまえば、どのようにして自分たちが生きてきたのかも忘れ去られ、なぜ生きてきたのか分からない、という切実な思いが、歴史を保存しようという思いにつながった。当初はこれに賛同する人は少数。入所者の大多数が、資料館の設立には反対した。ようやく心安らかに暮らせるようになってきたのに、なぜいまさらハンセン病の歴史の資料館を作り偏見や差別を呼び起こすようなことをするのか、と反対する人が大多数だった。しかし私は資料館の運営の基本は次の3つにあると思う。我々が幸せになれる社会は、社会の皆が幸せになれる社会であること。我々の運動は我々だけの運動ではなく、社会に寄与する運動であること。共に生きる社会を作らなくてはならないこと。
ハンセン病の資料館は、ハンセン病の歴史を伝えるだけではなく、社会の進歩に役に立つための資料館であり、生きるとは何か、命とは何なのかを問いかけ、またそれを目指す資料館である」

人権を蹂躙してきた歴史の過ちがなぜ起こるのか、人はなんのために生きるか、国家と個人、当事者主権を取り戻す運動を続けることの尊さなど、重いテーマがいくつも浮かぶが、まずは知ることと胸に手を置き館に入る。

常設展示は、「国立ハンセン病資料館のあゆみ」、導入展示、展示室1「歴史展示」、展示室2「癩療養所」、展示室3「生き抜いた証」の順番になっており、時間をかけてきちんと見ることが望ましい。

ハンセン病の歴史を知ることから始まり、実際にハンセン病患者の置かれていた生活、偏見と差別から過酷な生活を強いられたこと、世間や国の犯した過ちに屈すること無く闘争し、自分たちで人としての尊厳を回復させなければならなかった事実。これらのことから目を背けずに、また自分であればそれぞれの立場に置かれた時、どのように行動したかを考える契機になる。

古代から近世まで
古代から近世までのハンセン病への認識は、時代によって、感染する病、仏罰による病、「けがれ」た病、家筋・血筋が原因の病、というように変化し重なりあっていました。そうしたなかで、患者たちは罪深い者、業を負った者として社会の底辺におかれました。ここでは家から被差別者の集落へ移り住んだ人びとや、治癒を祈り物乞いをし、放浪しながら生きた人びとの姿を追います。一方こうした時代にあっても、少数ですが、患者を排除せず、同じ人間としてつきあっていた可能性を示す事例も存在していました。

国立ハンセン病資料館HP

戦争が終わり、平和と民主主義の時代になりました。大日本帝国憲法に代わって、基本的人権の尊重を謳った日本国憲法が公布され、これまでの治療法に代わって、ハンセン病を治すことのできる化学療法が登場しました。これらの変化は多くの患者の、人間性回復への意識を目覚めさせました。このとき療養所は大きく変われるはずでしたが、国の政策と社会の態度に大きな変化はありませんでした。そのため、患者は自分たちで人間の尊厳を勝ち取っていかなければなりませんでした。

国立ハンセン病資料館HP


自分の生まれる時代、生まれる場所、家族、持って産まれた能力どれも自分では選べない。そして、生き抜いていく中で機がどこにあるかは、わからない。

山崎龍明によれば、親鸞の「時期相応」とは時代(歴史)の只中に「自己」(機)の姿を見抜き、同時に、「自己」(機)のいつわらざるありようを通して「時代」の実相を観取すること、だという。

患者になる、家族になる、近隣者になる、支援者になる、関わる専門職となる、世間として関わる、自己(機)がどこに在るかは決められないが、どの立場にあってもその本質を見抜き行動することは可能ということ。

どの時代にも、患者を排除せず、同じ人間としてつきあっていた人はいる。そして、偏見や差別と闘い、自分の持てる力をフルに使い、時代の犯した過ちを質そうと声を上げ、粘り強く活動する人たちはいる。

北条民雄が「同情など断じていらない」と叫んだのは、自分は安全地帯にいて語られる言葉は、活動の灯火に水をかけ、熱情に蓋をすることだからだと思う。優しい顔をして「諦めなさい」は無慈悲で残酷な言葉だ。


展示室3には、療養所に暮らす人たちの生き抜いた証がある。皆が命を削って作り出した作品が展示されてる。

次の歌詞もそのひとつ。


ぼくらの風 近藤宏一

健ちゃん

萎えたその手にハーモニカは持てるか

いや 持たねばならない

その唇にドレミは唄えるか

いや 唄わねばならない

 

外には風が吹いている

外を吹く風は冷たい木枯らしだ

木枯らしは萎えた手の皮膚をいため足のひびわれに血をにじませる

そして ぼくらにはぼくらの風が吹いている

 

ああ ぼくらの心を吹く風よ

それは決して冷たくない

健ちゃん

萎えたその手にハーモニカを持てるか

いや 持たねばならない

その唇にドレミは唄えるか

いや 唄わねばならない

 

たっちゃんもおなじだ

弘も五郎もみんなおなじだ

テーブルを叩いてリズムをとっているちょねさん

窓辺で手拍子をとっているのは鈴木くん

壁にもたれて天井をにらみつけている義足の輝一

 

みんないま邪魔ものを払いのけるようにして

自分の楽譜を脳裏に刻みつけている

それは ぼくらの心の中を吹く風だ

 

ドラムの川崎のおじさんよ

あなたは五十一才の足でペダルを踏む

浅井くんよ

きみは貯金と借金で買い求めた三千円のギターをはじく


ひとつの思い

ひとつの願い

ひとつの音楽

それらはぼくらの心の風だ

部屋中いっぱい渦をまき ごうごうと音をたてるハーモニカだ

 

健ちゃんよ

萎えたその手からハーモニカを落としてはならない

その唇にドレミを忘れてはならない

きのうまで部屋の片すみでじっと蹲っていた健ちゃん

 

きょうはそのくらさはどこにもない

生かされてきた昨日

生きぬこうとする明日へ

健ちゃん

ためらうな おじけるな

 

窓にはもう月が昇ったであろう

外には風が吹いている

ぼくらにはぼくらの風が吹いている

もうみんな覚えたであろう

はじめて生み出すぼくらの歌

みんなでいっしょに風の中へそれを流しだすのだ

さあ 用意はいいか スタートだ


ハンセン病の歴史、そして差別との闘いの場に響き渡るブルースに聴こえた。


企画展示、多磨全生園絵画の100年で受け取ったスピリットも一緒だった。

全生園のゴッホ
氷上恵介の友に贈る言葉
『過ぎたる幻影』長浜清
姿かたちが変わってもすべて愛です。
鈴村洋子

どんな逆境に置かれても咲く花はあり、その輝きは果てしなく遠くまで届き、眩しく美しい。

画布(キャンバス)に地塗りをしつつ
皹(あかぎれ)の治癒る春日を楽しみて待つ  三枝真咲

ハンセン病資料館に来ることができて良かった。

全国に資料館があることも知った。沖縄、宮古島の旅行の際に加えることも検討しよう。

そして、近い将来にRちゃんとも来よう。






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