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「更生」は、ほんとうに子どもをきちんと見ることができる概念なのか

学友4人で鍋を囲った夜のこと。
私が「更生」概念を研究したい、ということを延々と語り続けた後。腕組みをして固く目を瞑り、渋い表情でY君が一言。

「なんで「更生」を研究しないといけないのかが分からない。」

それをこそ(お酒の力を借りて)つらつらと喋ってきたのに、と思いながら、
「俺は「更生」というものが、果たしてそんなに個人に帰せられるものなのか、ということを考えたいんだよ。非行少年の更生に関わるプレイヤーが大勢いて、かつ、退院後の社会復帰に多様な困難があるという現況を踏まえれば、「更生」というものは単に少年1人が背負うものではないんじゃないか。社会全体で新たな認識が形づくられなければならないんじゃないか」
と答えた。

「いやぁ…私が問題意識をうまく共有できていないだけなんだと思うんだけど…、それを研究して何になるの?」

「一つには、再犯防止につながるんじゃないか。非行少年の再犯率っていうのは一定程度あって、でもそれは単に「更生に失敗した」っていうべきものじゃなく、そこには本人にはどうしようもできないような家庭環境とか学習・就労環境、友人関係の問題があったりする。だから「更生」っていうものを当事者だけのものから、社会全体で受け止めるものにしていく方向っていうのは、そういったものを考えていくために必要になってくると思う。」

「それ。「更生」ってさ、成功したとか失敗したとか、そういうふうに言えるもんなの?」

「いや、言えないと思う。」

「そうだよね。だとすると、「更生」って子どもをちゃんと見れてないんじゃないかって。「更生」っていうのはあくまで本人以外の人が子どもを見た時に「彼は更生した/してない」っていう評価の話でしかない。でも実際には、そういう結果的な、評価的な言葉だけでは表せられないような、いろんなものがあるんじゃないかな。本人の過去っていうのはちゃんとあるわけだから、「更生」っていう言葉はそういうのをなかったことにしてそうで、すごくなんか不誠実な感じがする」

ここまで聞いて私はようやく、Y君の抱いていた引っ掛かりに気が付いた。たしかに「更生」というのは評価でしかない。それは、少年の実態に対してそれを認識し表現するために用いられる言葉であり、であるがゆえに「更生」という言葉で言い表せない事どもを捨象する。

であれば、「更生」という言葉は1人の少年の実態に対して、誠実に向き合っていると言えるのだろうか?少年の変容というものの実態を、どこまでとらえきれているのだろうか。

では「更生」という言葉の幅を広げるべきだろうか?それとも違う言葉を用いるべきだろうか。「立ち直り」「社会復帰」等々、いろいろな言葉があるが、どうだろうか。

今すぐに答えを出すことはできないが、何にせよY君の指摘の鋭さに驚かされた。温厚な彼にしては強い言葉(語気は穏やかだが)だったのにも、胸がヒヤリとする感触を覚えた。

そして何より、Y君の言葉に対する感度の高さ、当事者に対する真摯な姿勢という点に大きな感銘を受けた。

研究の向こう側にいる当事者に対して誠実であるとはどういうことか、自分自身に問い続けることを忘れないようにしたい。





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