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浅田真央 ≒ 長嶋茂雄 論

バンクーバーオリンピックの頃、トリプルアクセルの浅田真央、表現力のキム・ヨナという評をよく聞き、私は内心「何を馬鹿なことを! 表現こそ浅田真央ではないか」と半分憤っていましたが、最近考えを改めました。いいえ、浅田真央は表現上の魅力に乏しかった、というわけではもちろんありません。表現、美、人の心を打つもの、これらにはいくつかの種類があるのだろう、ということに最近気が付いたのです。

宇野昌磨、高橋大輔、宮原知子、荒川静香、カロリーナ・コストナー、私のごくごく少ないフィギュアスケーターの知識の中ですが、これらの方は表現力が優れていると一般的に広く理解されていると思います。私もその見解には全く異論はありません。歓び、悲しみ、憂い、希望、欲望、怒り、不安、苦悩、葛藤、人間の様々な心理や感情の表現、まさに人とは何かをそこに出現させる、そういう”表出力”が皆さんには備わっているのだと思います。そういう意味で、顔の表情に最も顕著に現れる人間の心理/感情、そういう人間的感性に鑑賞の眼のフォーカスが向かう方は、浅田真央の演技は印象が薄く感じるのかもしれません。

それでは、浅田真央はどうなのかというと、最初に言い切りますと「浅田真央は、その身体性そのものがすでに芸術である」ということなんだと思います。

浅田真央がトリプルアクセルを着氷する時、私は丹頂鶴が雪原に舞い降りる姿と重なってしまいます。衝撃を体全体で柔らかく受け止めながら、肩から腕、指先にかけて一瞬わずかに柔らかく下方にしならせバランスをとる。丹頂鶴は大きく羽ばたきスピードを落とし、雪原に両足が触れた瞬間、一つ二つと柔らかく羽ばたいた後、スッと翼を収める。

もちろん丹頂は何かを表現しようとして、その動作をしているわけではありません。ただ舞い降りただけ。浅田真央もただジャンプを降りただけ。しかし、そこには無類の美しさがあリます。もちろん、そのエッセンスは、ジャンプ以外の演技の随所に見て取れます。それは2008年頃の演技に、その極致があったのではないでしょうか。

加えて、髪をセットしメイクをし衣装を身につけ、リンクにスッとたった瞬間、その静止した姿には、ジャンプやスピンやスパイラルやステップで見せる体の動きの魅力がすでに内在されているのです。「静」のなかにすでに「動」が感じ取れるのです。

スポーツ雑誌Numberの創刊号の表紙には、ヘルメットを飛ばし、体が捻じ切れんばかりのフルスイングの空振りをした、鬼の形相の若かりし長嶋茂雄がいます。その身体のフォルムからは、獣しか発せられないような野性的な躍動美が伝わってきます。

浅田真央のトリプルアクセルと長嶋茂雄のフルスイングに、共通した感覚を私は抱いてしまうのです。私が魅了され、憧れる、ほんのわずかの人しか表現できない美しさがそこにはあります。


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