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エロとエロス(禁欲派とエロ派の対立とその向こう)

割引あり

エロの(エロくない)話をする理由

「なんだまたその話かよ」と思われそうだが、またエロの話である。しかも、またしてもあんまりエロくない話である。わざわざエロをとりあげながらも解剖台にのせてその妖しい魅力を取り除いてしまうんだから、そんな話はエロ好きにもエロ嫌いにも喜ばれないぜ。そう言われても仕方ないし、エロスについて語るのに自分ほど不向きな人間もそうはいないとわかってるつもりだ。だがどういうわけか、性の問題を扱う記事を集めてマガジンを作れるほどたくさん書いてしまってるし、まだまだ書くことがありそう。

責任の一端は読者のみなさんにあって、これがけっこう読まれる。閲覧数が多い記事が多い。だが、たんに客の趣味に迎合しただけでない。ここ数年、自分自身にとっても性の問題の重要度が上がってる。一つには文学に親しむようになって、近代人の自己理解には恋愛がかなり重要なテーマであることに気づいたからだ。だが、もう一つはネット世間の影響である。意識しないまでも、やっぱり自分も世論の影響を被ってる。やはり精神の栄養は他の精神から摂ってこられるんで、交わってるうちに否が応でもどこか似てくる。

他の人は知らんが、自分のツイッター(今のX)のタイムラインは性犯罪とかいかがわしい性癖に関する記事で埋められてることが多くて、ちょっと見るに堪えない代物になってる。しかし、人目をひくための誇張を差し引いてみても、自分が思っていた以上に、世のなかには性の問題で悩んだり苦しんだりする人が多いんだな、ということにも気づかされた。それで、ヘテロな男の一人として反省を迫られるところがあった。

性の問題を考える際に用いられる認識枠組みとして禁欲派とエロ派みたいなものが用意されていて、この二つが対立してるような図式がある。禁欲派はエロへの欲求は厳しく理性によって統御されるべきだし、そうすることが可能であると主張する。そうしない人はやりたくないかやろうとしてもできないかであって、そうなると悪人であるか健常者とはちがう異常者だ。刑務所か病院がそういう連中のいるべき場所だ。そう思ってるような節がある。だから狭量な不寛容さが目立つんだが、性犯罪や嫌がらせの被害者は圧倒的に女であろうから、性的弱者である女性の権利や尊厳の保護としての一面ももってる。

他方でエロ派は、エロは自然なものであって、いくら厳しく規制したところで根絶することはできないと考えてる。仮に病気にしたって持病みたいなもので、これを下手に取り去ったら本人が死んじゃう。あんまり厳しく統制すると、行き場を失った性的エネルギーが性犯罪みたいなかたちで暴発して、かえってよろしくない。統制は緩めにして、道徳的に望ましくない性的願望でも、実害が少ないかたちで満たす余地を残しておくべき。そう考える寛容な人たちである。だけど、性欲充足の帰結において貧乏くじを引かされるのは女が圧倒的に多いという事実に照らすと、女性の権利や尊厳を軽視してるというそしりを受けやすい一面がある。

うんざりさせられながらも自分に性の問題ついて真面目に考えるよう強いたのは、やはりこのネットの禁欲派とエロ派の功績であった。そうでもなければ、自分も性の問題に向き合わなかったかもしれないから、不毛に見える論争にもなにか生産的な面がある。だがその生産性は「どちらにも一理を見いだすがゆえに、どちらにも満足がいかない」と思うことから生じていて、そこから「何か第三の道みたいなものはないものか」という悩みが生じた。

今週、ある本を読んでいるときに、新しい発見というか思考上のブレイクスルーが生じたのは、そういう悩みを抱えていたから。むろん、自分だけの発見ではないと思うんだが、まだ世間にはあまり知られてないようだから、こんなところで繰り返すのも無意味ではないかと思う。ちなみに、自分が読んでいたのはチャールズ・テイラーという人の『世俗の時代』という本だが、同じ人が書いた『自我の源泉』のほうがエロスにとって直接の関連があるかもしれない(ただし、自分が借りたのはテイラーさんの「距離を置く理性」とか「緩衝材に覆われた存在」の歴史で、むろんエロの解釈の文責は自分にある)。

エロスに満ちた世界

エロスというのは元はギリシャ語を語源とする言葉だが、日本語であると「エロ」とか「エロい」という別の言い方があって、使い分けがされてる。「エロス」の方には教養主義的な文芸臭が強くて、通俗的な性愛とか性欲に関するものは「エロ」である。英語圏でも「エロティック」という形容詞には両義的な意味があるけど、日本の「エロ」は「ポルノグラフィック」(ポルノの語源はやはりギリシャ語で売春婦のことらしい)という形容詞で言い表わされるものの領域に重なる部分が大きそうだ。

だから、エロスに比べてエロというのは野蛮なもの、卑俗なものという印象があるし、自分もそう思ってた。だけども、自分の今回の発見は、それが間違いかもしれない、むしろそれと逆のものであるかもしれない、ということである。

なぜなら、エロというのは獣的な本能の幼稚で素朴な現れではなくて、どうやら理性がエロスから距離を置こうとするところに生じたものである。近代においては、エロスが宇宙を貫く生命の流れ、全体性への回帰願望、原罪への罰、悪魔の誘惑とかいった意味を全く剥ぎ取られて、非人格的な法則に支配される機械的宇宙にある因果関係の一つにすぎなくなった。それがエロである。

別の言い方をすれば、エロは人間が思うところとは独立して存在する所与の現実の一つにすぎず、個々人がそれを上手く利用したり、あるいはそれがもたらす害を避けたりする対象にすぎない。平たく言えば、エロは快楽や子孫をもたらすが、望まない妊娠をしたり、性病に感染したりする危険を伴うものであり、それ以上でもそれ以下でもない。そういうものになった。

だから合理的な人は、エロスの危険を最小化しながら、エロスがもたらす便益を最大限享受しようとする。そんなの当り前じゃないか。そう思われるかもしれないが、たぶんこれが「当り前」になったのは、人類の歴史ではつい最近のことに属する。わかりやすさのために歴史の複雑さを犠牲にして図式化すると、かつてエロスは人間の統御を越えるもの、その前では人間の意志は圧倒されるしかない力として認識されていた。それに立ち向かうためには、神の助けなど、やはり自分の外にある力が必要とされた。

近代以前(あるいは近代以外)に生きる人々の想像においては、世界は神秘的な精霊や諸力に満ちている。その中には邪悪な霊や力も存在してる。いな、同じ力が恩恵も害ももたらす。善でも悪でもありうる。人間はそのような霊や力に対して脆弱である。体の孔という孔からそうした力が侵入してきて、人を乗っ取ってしまう。言ってみれば、人は統一された人格、拡がりもたない点ではなく、そうした諸力が交差する空間であると見られる。エロスもそのような諸力の一つであり、ハートを貫くキューピッドの矢は、まったくの比喩表現ではなかった。

たとえば、以前書いたが、多くの民族が鼻や耳や口に飾りをつけるのは、どうも魔除けの意味がある。日本で玄関にしめ飾りをしたりヒイラギの枝やイワシの頭を刺したりするのと同じ発想で、魔はやっぱり戸が開いてるところから入って来る。玄関とは限らず、井戸の穴とか水道の蛇口とかからも入ってくる。同じように、鼻孔とか耳穴とか口も戸締りを不用心にしてると、そこから侵入してくるのは細菌とかウィルスにかぎられなかった。様々な刺青とか飾りは、元はこの魔の侵入を防ぐためのもであったと考えられる。

もう一つ例をあげれば、イスラム圏の小説なんかを読んでると、「邪眼」ということばが出てくる。これに見られると悪いことが起きる。そういう恐ろしい眼だが、なんのことはない、男がいやらしい目で女を見ることをこう呼ぶ。見られた方が性的対象として消費されたような気分にさせられるから、邪な眼なんだろう。そうわれわれは解釈する。しかし、イスラム世界で生活する人々にとっては、そういう意味ではない。比喩ではなく文字通りに邪眼であって、この眼で見られると客観的な災いが女の方に起こる(おそらく催淫効果があって、女の方にもまたエロい気分が生じる)。一種の呪術であって、この力から守るために女は男たちの視線から隠されないとならない。現代科学では説明できない現象だが、これを男も女も身をもって体験している。だから、そう信じることができるし、それに代わるもっとよい説明が与えられなかぎりは、これを信じないと説明できない。

「エロ」の誕生

ラテン=キリスト教圏と呼ばれる国々に生じて広まった近代思想は、世界を脱魔術化したと言われる。つまり、そのような霊や諸力の存在を否定した。宇宙というのは神さまが作った機械にすぎない。それは時計のように決まった法則によって律せられてる。そこには隠された意味や目的はない。であるから、人間もまたそうした霊や諸力に侵入されることはない。人間は「孔だらけの存在」ではなく、「緩衝材に覆われた存在」である。エロスもまた外から作用する力ではない。あるとすれば人間の内側から働きかける肉欲の一つにすぎない。そういうことになった。

それでも、なんぼ近代化してもエロスには突き動かされる。だから、統御すべき野蛮な獣性とか幼稚なエゴイズムとして、理性によって距離を置いて見られるようになる。自分自身を律する理性や意志の力によってそういう獣性やエゴイズムを統御していくのが、「文明化」である。エロスは緩衝材に守られた自己への潜在的脅威であり続けるが、今やそのエロスをエロに転じて笑いものにすることができるようになった。これが自分の考えた「エロの誕生」である。

この「距離を置く理性」とか「緩衝材に覆われた自己」などという概念がわかりにくいだろうから、もう少し説明しておこう。たまたま自分は去年から芥川龍之介の全集を読んでいるんだが、まさにこの「距離を置く理性」の典型みたいなものを示してくれている。芥川の作品への批評には、「技術はあるけども魂がない」、「上手いなと感心させられるけど心に響いてこない」、「頭の中で理屈をこねまわしてるだけで、作家自身の内にあるものが伝わってこない」というのが多い。友人であった菊池寛のことばによれば、「もう少し裸になれたらいいのに」という作品が多い。本人も批評家たちに反発しながらも苦にしていて、それがひとつ自殺に至る原因にもなった。

なぜそのようなことになったかというと、自分の心の平穏を乱すようなものは、自分の内面の深い淵から湧き上がってくるものであろうとも、外から襲いかかって来るものであろうとも、徹底的に距離を置こうとする。たとえば、芥川は女嫌いで知られてるが(女は実際的なことしか考えず、嘘に長けてるというのが芥川の女性観)、先般紹介した雌蜘蛛の話(「女」)に見られるように、心の奥底ではたぶん女性を恐れかつ畏敬の念をいだいてる。だけども、これを認めるのを潔しとせずに、わざと斜に構えて、女の悪い面を客観的にあげつらうようなところがある。理性が女性という存在から距離を取らせるんだが、実はそれは女性に対する感受性が人一倍強いからでもある。ちょうど理性が、魔の侵入を防ぐ緩衝材のような役割を果たしてる。

しかし、そういう批判をする批評家たちにもわりかし評判がよいのが、「蜜柑」という短篇である。エロスではないんだが、芥川の理性がひょいと警戒を解いてるようなところがある。生活に疲れて厭世的になってる男が、見すぼらしく愚鈍そうな田舎の少女と汽車で乗り合わせる。三等車両にいるべき娘に自分だけの空間を邪魔された苛立ちは、彼女がトンネルに入る直前に窓を開けて車内を煙だらけにすることによって、「なんだってそんな無意味なことをするんだ」という怒りに変わる。だが、トンネルを抜けて踏切に差し掛かると、そこに子どもたちが集まっている。娘がもっていた包みから蜜柑をとり出して、次々と窓からその子らに投げたときに、彼には無意味に見えたものの深い意味が、突如として光に照らし出される。娘は町に奉公に出されたのだが、もたされた蜜柑を見送りにくる妹弟たちに分けるために、わざわざ窓を開けて待っていたのだ。

作り話にしてはよくできているから、たぶん芥川が実体験したことがもとになってるんじゃないかと思われる。芥川の理性の鎧が、目の前に展開された光景によって突如として打ち破られて、彼の内面の奥深いところに触れた。それが何であったかは書かれていないし、おそらく書き尽くせないんだが、人間に対する冷笑や悲観によって守られていたものは、どうやら裏切られることを恐れる仁愛への渇望みたいなものだった。理性の鎧が打ち破られることによって、この隠された真実が束の間であるが光にさらされた。そういう小品であったから、彼に批判的な批評家たちも評価したらしい。

エロスもまた、人間の内面の奥底に隠され守られているものを動揺させる力として想像される。一例として、漱石の『それから』の主人公である代助を考えてみよう。自分の愛した女を友情から親友に譲った代助は、その負い目を隠すために「高等遊民」をうそぶき、冷静な美の愛好者を気取っている。だが三千代と再会し彼女が幸福でないことを知ったとき、彼は自分を騙していたことに気づかされる(「気づく」のではなく「気づかされる」と受動態であることに注意)。芥川の「蜜柑」のように突然のエピファニーではないが、じわじわと三千代への愛(エロス)が理性の鎧の隙間から染み入って、代助に高等遊民の生活を放棄させる(自分で「する」ではなく、何かが「させる」)。

代助の高等遊民的生活にも理解を示してきた兄誠吾が諭すように、彼の判断は合理的に見えない。女が欲しければ金で買えるし、結婚したければ見合いの相手などいくらでも世話してやる。何を好き好んで人妻に手を出さんとならんのか。そんなことをすれば世間から非難され、親兄弟から勘当されて、生活費を自分で稼がないとならなくなる。バカな真似はやめて、もとのお前に戻れ。そういう親切な助言をしてくれる。だが、代助はもうエロスに内奥まで差し込まれてる。誠吾は「お前はもう少し利巧(≒理性的)かと思ってたよ」と言い残して、代助を見放すしかなかった。

エロスというのはこういう危険な作用をもつ力であることが認められているからこそ、近代の規律社会においては、理性によって距離を置き、自己の奥底にある感じやすい部分からは遠ざけておく必要がまた感じられたのである。であるから、近代人が誇りとする個人の自律性、内面の自己完結性は、その反面では理性という番人によって厳しく管理されずにはいられないほど脆いということの裏返しの表現でもあった。

エロ派にも禁欲派にも欠けてるもの

かつては聖なる領域に属していたエロスが、今日ではもっとも卑俗なものと見なされるようになってるのは、こういう近代的な「距離を置く理性」と関係があって、それは禁欲派のみならずエロ派にも言えるのである。むろん近代以前にもエロスをエロにして笑ってしまう機智はあっただろうし(たとえば民衆文化に見られる卑猥な冗談など)、今日のエロもその伝統を受け継いでる部分がある。でも、それは抗いがたい力への道化の反抗に近いもので、エロスの格下げが「当り前」になったのは近代もかなり進んでからのことではないかと思う。

他の自然の諸力と同じように、エロスが人間にとってもつ意味もまた両義的である。完全に統御できないから恐怖を呼び起こすと同時に、自分たちと密接な関係のあるものであるという親近性も感じさせる。そういうものであるから、自分たちの外から侵入してくるようにも、また自分自身の奥底から湧いて出るかのようにもとれる。エロい気分は純粋にエゴイスティックな感情とも取れるし、逆に自我を喪失した状態ともとれる。人間と自然の区別が相対化されてしまい、文明の真っ只中でさえ文明の意義が否定されかねない契機が含まれてる。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。