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1950年代の女子大生

割引あり

年末年始に、娘と一緒に『この世界の片隅に』という映画を見た。戦争加害者としての自覚が欠けてるという批判もあるようだが、当時の一般人があの時代をどのように見たかを、外からではなく内側から理解するのに役立つ内容がたくさんあったから、非常に興味深く見られた。

それで思い出したのが、うちの母のことである。母は敗戦時には十歳だったので、映画の主人公すずさんよりもいくつか年下で、彼女の青春時代は戦後である。今はしわだらけのばあさんも、1950年代前半には花の女子大生であった。やはりすずさんのように純朴で多くのことに無知であった人(口の悪い人に言わせれば「意識の低い人」)、とくに一人の女が、戦後社会で過した青春はどのようなものであったか、それはぼくらの世代の青春とはどのようにちがったのか。そういうことを考えさせられた。

というのも、父のような教養主義者のインテリとちがって、母のようなフツーの人が見た世界というのはあまり文字になってない。記録されるべき偉大な行為も偉大な台詞もない。だから、話を聞いて足りない部分を想像しないと、なかなか見えてこない。あのような映画でも作られないと、次第に埋もれていってしまうような歴史である。

幸い材料がまったく欠けてるわけではない。学生時代というのは、やはり人生でもいちばん楽しい思い出がつまってる時期らしくて、母の思い出話にもよく出てくる。学生時代の友人たちは、今でもときどき電話がかかってくる。というより、母の友人らしい友人というと、いとこたち以外には、どうもこのときの元学友たちしか残ってない。まさに生涯の友である。

1950年代というとひと昔前のことのように感ずる者が多くなったが、自分にとっては「つい最近」という感覚がなかなか抜けない。むろん自分はこの時代には生まれてないんだが、40年代から60年代の音楽(洋楽だが)を同時代の音楽のように聞いて育ったし、戦前の歴史を中心に勉強してきたから、新しい時代、自分と同時代的なものという感じがいつまでたっても抜けない。

それでも、母の話を聞いて現今の女たちと比較してみると、いろいろな違いが見えてきて、「ああ、やっぱりこの70年で物ごとは大きく変わったんだな」と思わされる。むろん、あんまり変わってなさそうな部分も多いし、そっちも面白いんだが、変革を望みながらもちっとも変わってるように思えない永遠の現在に閉じ込められてるように感じてる人々には、むしろ前者の方が希望を見出せる話だろう。必ずしも昔を懐かしむ保守派だけが聞くべき話とはかぎらない。

母の生家は典型的に没落した中産階級である。地方都市で祖父が女学校を経営していたのだが、やっていけなくなった。戦争の影響もあるが、戦後に祖父、父親と一家の大黒柱を立てつづけに失って、商売を続けられなくなった。祖母も学校の先生だったが、女手だけで学校を経営できるような時代ではなかった。

そこで学校の建物や敷地を売ったり貸したりして、母が学生をやっていた時分に、祖母、母親、子供四人を連れて東京に移ることになった。遺族年金と地代で遣り繰りしていたから、かつかつの生活であったらしい。母は長女であり、弟が二人いる。進学を望んでいたようだが、父親を亡くした時点でたぶん行かせてもらえないだろうと覚悟していた。だが意外にも「行っていいよ」と言われて、喜んで東京の短大に入った。それで中目黒の寮に入って学生生活を始めたのである。

寮といっても、六畳くらいの部屋に四人が同居する。小さな机が四つ置いてあるだけで、そこで勉強する。夜になるとそれを片付けて布団を敷くんだが、四人分敷くにはちとスペースが足りない。空っぽになった押し入れの戸を開けて、室長さんはそこに足を入れて寝たらしい。

そんな質素な生活であるが、日本の東西から同じような年齢の若い女が親元を離れて、四人集まって自由を得たんだから、やっぱり楽しかったらしい。しかも、どこからやってこようとも、日本中だいたい似たような戦争体験を共有してる。夜窓を開けておしゃべりしてたら、近所からうるさくて寝られないと苦情が入って叱られたりしたらしい。

貧乏学生だなと思われるかもしれないが、ちょっと違う。当時の大学進学率は10%以下、女子の進学率はその半分だ。その時代に地方から東京の大学に娘を送り出すような家はそんなに多くない。たぶん、多くは戦争で没落した中産階級(あるいは逆に戦争で小金を儲けた家という可能性もあるが)で、ちょっと無理をしてでも女子を教育しておこうという家庭出身であったかと想像される。

その証拠に、彼女たちはかなり洗練された趣味を有してる。歌舞伎を見に行ったり、お香を習ったりしてる。それに、文学部であったから、ちょっと文学少女っぽいところがある。母は今でも自分が文学なんかの話をすると、喜んで相手をしてくれる。著名な作家や名作の名は一通り知ってる。母の友人の一人は普通の主婦だが、本を買って読んでは、どうせ捨てるからと母に送ってくれるような多読家だ。日本の古典や現代小説も読んでるけど、彼女らがいちばん興味をそそられたのは海外の小説であったらしい。

うちには扉のついた母の小さな古い書庫があって、少年時代の自分は好奇心からそれも開けて、中にある本を漁ってみたことがある。何を読んだかもうほとんど忘れたが、覚えているのは、一つは『チボー家の人々』というやたらに長い長編、もう一つはモーパッサンの『女の一生』というフランス小説である。

「へえ、日本にも教養溢れる良家のお嬢さんみたいな人たちがいたんだな」と思われるかも知れないが、それもちょっとちがう。当時はまだネットどころかテレビもない。だからイケメンの俳優さんを見たければ映画館とか歌舞伎座みたいなところに通うしかない。いちばんコスパのよい娯楽が小説(マンガはまだ女向きには描かれてなかった)で、ヒーローとかプリンスはテレビではなくて小説のなかに見出すものだったらしい。そしてまた、そういう人物を創造する作家や文人たちも、一部の少女たちの憧れとなった。

彼女たちが小説(特に海外の小説)で憧れたのは、恋愛であったらしい。想像したこともないし、おそらくこれからも遭遇するとは思えないような恋愛が、海外の小説には描かれてる。「本当にこんなことがあるのかなあ」と半信半疑ながら、「海外に行けばこんな恋愛ができるのかもしれない」という希望もかき立てられた。

色気に加えてもう一つは、ひもじい思いをして育った世代だから、食い気がある。海外の食糧事情が気になる。これは小説ではないが、米国に『ブロンディ』という『サザエさん』のような長寿マンガがあって、その亭主のダグウッドは仕事から帰宅すると、決まったように家でサンドウィッチを拵えて食べる。このサンドイッチがハムやらチーズやらが幾重にも重ねられた代物で、米国ではこんなものが毎日食えるのか、いいなあ、と憧れたそうである。

だから、『苦い米』というイタリア映画で、シルヴァーナ・マンガーノという足の長い女優さんが、フケ田みたいなところに浸かって田植えしてるのを見て、びっくらこいたそうだ。アメリカとかヨーロッパにも日本みたいに米を植えて食うような生活があるということが信じられなかった。

ちなみに、1950年代にはまだ配給制が残っていて、外食するにも米を食うには配給手帳が必要だった。大学が渋谷近辺だったので、母たちもよく渋谷で飯を食ったらしい。なんとなれば、安い食堂がたくさんあった。さすがに「渋食」(当時有名だった大衆食堂「渋谷食堂」)には行かなかったらしいが、デパートの食堂なんかで焼きそばなんか食ってた。いちばん安いメニューで、当時50円くらいだったらしい。

ついでに言うと、まだ渋谷がそんなに開けてないころで、原宿なんて文字通り原っぱだった。友だちと一緒に明治神宮に菓子なんかをもって出掛けたらしいが、暗くて人通りもほとんどなくて、女一人では怖くて歩けないところだったらしい。だから、映画を見たりウインドウショッピングしたりするには、やはり銀座に出た。

話をもどすと、要するに、彼女らには、かつての上層中産階級から受けつがれた教養も、はたまた戦後に勃興する大衆文化も、彼女たちの意識において判然と区別されずに入り交じってる。ここから戦後の新中産階級の文化みたいなのも育ってくるのだと思う。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。