悪は存在しない、を観て、これが”映画体験”かと思った
※ネタバレ含みます。
感じたことをそのまま、つらつらと、です。
映画の細かい技法とか、撮り方とか見せ方とか、伏線回収とかもそんなにわからないので、そういうことは言いません、言えません。
感じ方をただただ共有できたらなと書いています。
映画の世界観になじませていかされる。そんな冒頭4分間
冒頭、映画は森の中を進んでいます。誰かが植えを眺めながら歩いているような視点で、空と通り過ぎていく木々が映されていく映像が約4分ほど続く。
何を観ているんだろう。何を観させられているんだろう。
これは、後に何につながっていくんだろうか。何を意味しているんだろうか。
退屈な時間というわけではなくて、そんなことを考えずにはいられない。そんな映画に入っていくまでの”余白”をくれているように感じた。
ぼくが感じたのは、これから始まる世界観に、自らをなじませていく。そんな感覚に近かったと思う。
きっと音楽の力も大きかったのかもしれない。それだけ入っていけるように作られているんだと思った。
日本の美しさ、田舎のリアル
舞台は長野県の水挽町という架空の町。水が綺麗で、うどんがうまい。山や木々、山菜や鹿、自然が近いというよりも自然の中で、自然とともに生きている。
そんな町にグランピング施設の建設計画があがり、その説明に来た芸能事務所の社員と村人たちのやりとりを中心に話が進んでいく。コロナ禍をきっかけに芸能事務所が生きながらえるための補助金事業。そんな社会背景と、日本の田舎のリアルが混在した映画だった。
ぼくらはしばしば日本の美しさを美化する。
それは誇らしいことで、都会に住んでいる人たちは特に日常にはないものを、休日の、非日常を求めているから。それは海外に日本をPRするときのこととまったく同じことなのかもしれない。
それでもぼくは美化している。と言いたい。
グランピング施設の建設説明会で、住民が村人が言った言葉。
やはりそこには、悪は存在しない。
ぼくは都会から田舎に移り住んだ人間で。今はその中間とでもいうのか、地方都市に住んでいる。どちらかと都会寄りか。ただ大都会より田舎に近い場所とでもいうのか。はたまた大都会よりは田舎と混合している、グラデーションが薄い場所とも言える気がする。
ぼくにはただあるものがないだけで、ないものがあるだけのように思う。
あるものがあって、ないものがない。
ぼくのなかもやはりグラデーションしていると思った。
田舎も都会も「はい、ここから!」と突然切り替わるものではないんだ。
田舎の人間と、都会の人間。それはまったく違うものではなくて、同じなんだけど、確実に同じものとも言い難い。
都会の人にとっても田舎はあって、それは地続きなんだ。 地続きというその感覚、日常、非日常ではないその認識が”あるか”どうかなのかもしれない。遠い人にとっては非常に遠い。
ぼくは都会から田舎での生活を経験したから、それは日常に近いものになった。
日本は美しい。ただそれを非日常には思わない。
もちろんとても綺麗だ。だが、リアルだ。この物語は、よく知っていると思った。
あるからだ。そう思った。
ぼくが観たい映画だった
ただ見る映画と、よく観る映画があるように思う。
アクションとかは、きっとただ見ていい映画だ。ただただ爽快だったり、そこに考えることはあまり求められていない。
今回の映画は、よく観たい映画だった。
ただ見ることではない、味わい方がある映画だった。
最初から娘の花ちゃんは、どこかで危険な目に合うことが予期され続けていた。
それがいつくるのか。どうくるのか。ぼくたちにはそれを否応なしに考えさせ続けられる。
視点の違いも大きかった。
車で走る。なぜだか視点はバックドアのガラスから後ろを眺める景色になる。それを主人公が見ているとは思えない。なにを映している。
どこからか遠のいているということなのか。あるものがなくなっていくということか。下に溜まっていくということなのか。
下に溜まっていくということが自分の中では、しっくりきた。
上流に向かう。自然の中、花ちゃんが人間よりも自然により近い存在として描かれていて、それは地続きであることをまた意識させられる。
上でやったことは、下の人に影響する。
当たり前で、普通で。そこにも悪は存在しなかった。
これが映画体験か、と思った
今回の映画では、想像の世界が、映画の魅せ方となっているように感じて、ぼくには響いた。
父と娘。二人が山の中を歩くシーン。1度目はリアル。2度目は花ちゃんの想像。1度目は父が前を歩き。2度目は手を繋いで歩いていた。そこには花ちゃんの願望が映し出されていて、近くにあって、本当に大事なものを見落としてしまいがちな僕らを映し出しているように感じられた。
それから最後の最後のシーン。ぼくらは魅せられる。
行方不明になってしまった花ちゃんを探す、父である巧とグランピング計画担当者の高橋が、ついに見つける。
そこにも想像が、でも自然の、リアルが映し出される。
座る花ちゃん、手負いの鹿の親子。立ち上がって、帽子を脱ぎ、一歩ずつ近づいていく花ちゃん。そこには何があるのだろう。ただリアルだけがあった。
その一瞬ですべてを悟った巧がした行動を、ぼくらはどう思う。何を思える。
わからないことは、わからない。知らないことは、知らない。
立ち上がり、生きていた高橋は生きて帰ったのだろうか。
ぼくらには、わからなかった。
悪は存在しない
こんな感想を抱けたのも、下記2つの記事を鑑賞後すぐに読んだからだ。
↑めちゃくちゃ、しっくりきた。です。
↑観てよかったと改めて思いました。
1つ後悔があるとしたら、あれこれもっと一人で考えてから、これらの記事を読めばよかったなということでした。
一人で考えきれることを考えきってからのほうが、思考も想像も巡らせることができたと思うし、一回読んでからだともう自分だけの思考には戻れません。
悔やまれる。
でも今回は、改めて映画体験を知った感覚が一番大きかったです。
すごいものを観た、のはそうなんだけど、当たり前にある題材を通して、魅せ方による感動の仕方を知った感覚。ストーリー性とか、新たな知見とかではなく、観方、魅せ方、感動の仕方。もちろんラストは本当に衝撃で、面白かった。最後の最後に、この余韻を残すために、そういうやり方をするのか。
あとは、語らう誰かがいてほしかったです。
こうして書くことで共有もできるんだけど、一緒に観る誰か、共有できる人はいたらもっと余韻を楽しめるんだろうなと。
ぼくには妻さんがいますが、ぼくら夫婦は婚姻届を出しに行った日に映画館に行って「じゃあまたあとでねー」と別々の作品を観るくらいには、お互いの興味関心の被っていないところには侵食しようとしない関係性です。
悪は存在しないなと思いました。
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