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ニュー・シネマ・パラダイスと四畳半の幻想

こないだ、卒業して関東に行く知り合いらと一緒に「ニュー・シネマ・パラダイス」を鑑賞した。1989年に公開された本作は、シチリアの小さな村の映画館を舞台に、人々の心温まる交流を描いた不朽の名作として知られている。主人公の幼年期が可愛かったり、映画館の観客たちのリアクションがいちいち面白かったり、キスシーンを検閲する神父、映画館の危機に一肌脱ぐナポリの男、何回も同じ映画を見ているせいで次のセリフを暗唱し出すおじさん、といった愛すべき登場人物たちがいたりと、この映画には好きなポイントが数多くある。中でも好きなのは、映画全体がそこはかとないノスタルジーで満たされているところで、見終わった後もしばらく余韻から抜け出すことができなかった。
映画から感じられる哀愁や懐かしさには、劇中の音楽も一役買っている。これらを担当したエンリオ・モリコーネは「海の上のピアニスト」の音楽も手がけているが、この映画もまたストーリーと音楽が美しく、好きな作品の一つである。

ここにいると自分が世界の中心だと感じる
何もかも不変だと感じる
だがここを出て2年もすると何もかも変わっている
頼りの糸が切れる
会いたい人もいなくなってしまう
一度村を出たら長い年月帰るな
年月を経て帰郷すれば友達や懐かしい土地に再会できる

「ニュー・シネマ・パラダイス」より、アルフレードがトトに村を出るよう諭すセリフ

映画監督として成功を収めた主人公サルヴァトーレ(トト)が、老映写技師であるアルフレードの訃報をきっかけに、故郷の村を回想する場面から物語はスタートする。映画の魅力や映写技師としての働き方をアルフレードから学ぶ主人公だったが、若きトトが自分のように、村の映写技師として一生を終えることを恐れたアルフレードは、上のような言葉でトトに村を離れるように迫る。アルフレードの言いつけを守り、映画監督として大成したサルヴァトーレは、30年ぶりに故郷の村に帰郷する。そこで、変わってしまったものと変わらず村に残っているものが何かを目にしてゆく──というのが映画の大筋になる。
トトと母親のやり取りが、物語を通して変化している様子も面白い。始めは映画にのめり込むトトを母親はよく思っていなかったが、アルフレードから映画館の仕事を任され、立派に成長していく息子を最終的には認め、夢を叶えるためにローマへと旅立つトトを静かに送り出す。物語の終盤、サルヴァトーレに「この村にあるのはまぼろしだけだ。お前の生活はあっちだよ」と語るシーンが心に強く残っている。30年も戻って来なかった息子に、このような言葉をかけられるのは凄いことだ。

ニュー・シネマ・パラダイスを観終わった私たちは、ノスタルジックな雰囲気に浸りながら、それとは対照的だった映画のメッセージを反芻していた。「自分たちの思い出を『まぼろし』とまで言い切るのは凄いよ」「え、じゃあ、東京行ったら戻って来るな…ってコト!?」「次に京都戻るのは30年後か〜」みたいな感想や冗談を言い合いながら。
他のみんなのやり取りを聞きつつも、自分は一人違うことを考え始めていた。

彼らにとっての「まぼろし」とは、この3月で幕を閉じようとする学生生活のことだろう。一方で自分のこれまでの4年間を振り返ってみると、それはそれで楽しくはあったものの、どこかで「京大的文化」の幻影というか、「おもしろいもの」を求めて彷徨う日々だった感じが拭えない。
中高生の頃、森見登美彦の小説が好きでよく読んでいた。自分と同じく、そこに広がる世界観に憧れて、京都での生活を選んだ学生も少なくないのではなかろうか。学生生活が(大学院へ行くので、正確には「学部生生活が」)終わる中で、これらの「四畳半世界」が今の自分にはどう見えるのだろうかと思い、U-NEXTでアニメを見たり、久しぶりに原作を読み直したりした。

「師匠や小津に会っていなければ、もっと有意義に暮らしていたに違いないんです。勉学に励んで、黒髪の乙女と付き合って、一点の曇りもない学生生活を思うさま満喫していたんです。(中略)
自分の可能性というものをもっとちゃんと考えるべきだった。僕は一回生の頃に選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ」

森見登美彦『四畳半神話大系』角川文庫、2005年、p.149。

2020年に入学した私たちの代は、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックに見舞われ、思い描いたものとはかけ離れた形で新生活のスタートを切ることとなった。当時の社会や大学の動きに、失望した学生たちも多いはずだ。4年経った今ではコロナ禍もようやく収まりを見せ、自分たちが1回生の頃に経験できなかった新歓も、かつてと同じ様な規模で行えることだろう。自分の学生生活を振り返ってみると、コロナ禍による不自由な2年間、実家暮らしゆえの制約もあったが、知っていることやできることの幅は増えたし、人間関係にもかなり恵まれた方だし、色々な経験もそれなりにできた気がする。だけど、何か物足りない。

果たしてこんな学生生活で良かったのか?
もっと色々なことができていたんじゃないか?

昔は面白がって読んでいた主人公の焦燥が、いつしか自分のことのように感じられる。薔薇色のキャンパスライフという幻影が作り出す苦しみへ、自分を投影できる年齢になったことに気づく。「小津」という語を別の言葉に換えて読んでみる。無駄なことだと思いながら、別の世界線や自分の持っていた可能性に思いを馳せる。
このような悩みに対し、「可能性」という言葉を無限定に使うことを諌めた上で、樋口師匠が悠然と答えるところは、「四畳半神話大系」でも屈指の名場面だ。

「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ」

森見登美彦『四畳半神話大系』、p.151。

初めて原作を読んだときは、小津や明石さん、樋口師匠といった個性的な登場人物、そして図書館警察や自転車にこやか整理軍といった組織に巻き込まれて物語が展開していく様子を、ただただ面白がって読んでいた。薔薇色のキャンパスライフを切望する主人公が、いかなるサークルを選択しても願いを叶えられないパラレルワールドもの。そのように読んでいた当時の自分は、己の大学生活も愉快な人たちに恵まれ、ものめずらしいコミュニティに所属しながら、そこでしか体験できない生活ができることに憧れていた気がする。

しかしながら、改めて読み直してみると、「いかなるサークルを選択しても薔薇色のキャンパスライフを送ることはできない」ことを主人公自身が知り、その後の行動や考え方が変わったところにこそ、物語の重要な分岐であったことに気づく。
原作でもアニメでも、最終話で主人公は並行する四畳半世界に迷い込み、無数の世界線の自分が結局は同じような学生生活を送っていることを知る。特にアニメでは、第9話「福猫飯店」にて主人公が自転車にこやか整理軍の総長として大きな権力を手にするも、どこか物足りなさを感じてしまい、延滞図書をやっと返却した樋口師匠に悩みを吐露する(引用した名言も、この場面で登場する)。そして、四畳半に閉じこもった世界線で並行世界に迷い込む中で、自身の学生生活が本当は豊かなものだったことに気づくのだった。

人生はお前が見た映画とは違う
人生はもっと困難なものだ 行け
(中略)
お前は若い 前途洋々だ

「ニュー・シネマ・パラダイス」より

再び、アルフレードがトトを送り出す言葉から。このセリフは、人生が映画や物語の通りにいかないからこそ、当てにならないものに惑わされず、自分のやりたいことに向き合ってほしいというアルフレードなりのエールだと思っている。

一方で、このセリフを「人生は映画とは違う」という言葉の通りに捉えるなら、「郷愁に惑わされるな」というこの映画のメッセージ自体も絶対化すべきではないもののように思える。ニュー・シネマ・パラダイスの登場人物たちは押し並べて、ノスタルジーを忌避すべきものとして語りがちなところがある。けれども、30年ぶりに戻ってきたサルヴァトーレが故郷を懐かしむことができたのは、村の映画館やそこでの生活を守ってきた人々がいたからであるはずだ。思い出や人間関係は、関わる人がいつまでも大事にしなければ、時と共に確実に流れ去ってしまうものであることは心に留めておくべきだと思う。

遅くなりましたが、皆さんの明日からの新生活に幸多からんことを、そして学生時代の縁がこれからも長く続くことを願って、ここに筆を置きます。

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