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人の歴史は瑞泉である


那覇の潮渡川(しおわたりがわ)の河口付近

沖縄に行ってきた。

前の記事が【線を引く】で「琵琶湖と淀川」について書いた。
更新がほとんどないこのnoteで、久々の更新が「沖縄の川」だというのはご愛嬌である。

沖縄本島(沖縄島)の話だ。以下、沖縄と書いてあるのは沖縄本島(特に那覇周辺)限定のこととしてご理解いただきたい。
他の島々は今回は触れない。


沖縄は意外と川が多い。
東京からの観光客目線なのでご容赦ください。

川というのは、山奥から渾々と湧き出ている水が集まって流れているものだと勝手におもっている。
しかし、沖縄は山が少ない。北部には与那覇岳(標高:498 m)という県内2位の山があることも知っているが、那覇周辺には山がない。

とはいえ、川があるから那覇は栄えている。
真水がないと人間は生きていけない。
真水があるからこそ、琉球王朝やそれ以前から人が住めているのだ。



「あれ? 山がないのに、この川はどこから流れてきてるんだ?」

Googleマップの登場だ。
文明の利器とここまで作り上げてくれた先人のおかげで楽できる。
ありがたい。

地図を指で辿っていくと、どうやら首里のあたりがスタートのようだ。
国土地理院の地図を見たら詳細が分かるのだろうけど、手元にはGoogleマップしかない。
時間はある。これはもう現地に行くしかない。

ゆいレール(沖縄のモノレール)に乗って、首里まで行く。
行けるところまで行ってみよう!


今回辿ることにした潮渡川(しおわたりがわ)は、遡ると真嘉比川(まかびがわ)と安里川(あさとがわ)が合流している。

まずは首里駅近くの真嘉比川を見に行った。

首里近くの真嘉比川(まかびがわ)
首里近くの真嘉比川 撮影場所

どうやら道路の下に川が潜り込んでいるようだ。

こんな感じで真嘉比川は道路の下に潜っている

これじゃここがスタート地点なのかよく分からない。
地図で周辺を見渡すと、多分繋がっているのではないかとおもわれる箇所があった。

左上の青い線が真嘉比川。右下に何か水源があるぞ・・・?

行ってみる🚶

地図的には源泉っぽい(((o(*゚▽゚*)o)))
あれ? 水がない。。。

真嘉比川の源泉は見つからなかった。
ならば、もうひとつの安里川を辿ってみよう。
安里川の源泉も首里近くなのだ。

安里川(あさとがわ)の源泉であろう辺り
おっと、源泉雰囲気じゃないですか!(意味不明)

期待感が高まる中…

遂に「起点」に辿り着いた!

渾々と湧き出ている様は見れなかったが、どうやらここが安里川のスタート地点のようだ。
(厳密に言えばもう少し先があるようだが、行政としてここを起点としているのだからここをゴールとしておく)



首里城の瑞泉門(沖縄県公式首里城復興サイトより)

首里城に瑞泉門という門がある。

  首里城には、清らかな水がこんこんと湧き出る「瑞泉」という名の泉が  
  ありました。その周囲には碑文があり「源遠流長(源が遠いほど流れは
  長いという意味で、水の尽きないという意味)」「霊脈流芬(よい泉に
  はよい香りがあるという意味)」などの碑文が記されていました。
                       (たのしいお酒.jp より)

今は瑞泉という泡盛が有名になっているが、名前の起源は上記の瑞泉からだそうだ。


琉球王朝が首里に城を構えたのは瑞泉が理由なのではないか?
厳密に言うと、首里に湧き水が多かったから、そこを重要拠点としたのではなかろうか?

調べてみると、首里は

  サンゴを成因とする石灰岩は雨水の透水性が高く、沖縄本島は干害に悩
  まされてきたが、首里一帯ではその下に地下水を通しにくい泥岩層があ
  る。このため那覇市で約120ヵ所ある湧水や井戸の多くが首里に所在
  し、こうした水の便が王都が築かれた理由の一つと推測されている。
                          (Wikipediaより)

とのことだ。

人は真水が無いと生きていけない。
沖縄島という周りが海に囲まれている状況では水源を押さえたものが勝ちである。
島内の争いだろうが、外敵が攻めてこようが、水源を押さえていれば絶対的に優位に立てる。

首里に首里城があることは、地理的に、政治的に、戦術的に重要な理由があったのだろう。


沖縄に比べて、僕が住んでいる東京(江戸)はどうだろうか?

江戸になる前から、坂東武者はいた。
営み自体はあったが、都として栄え始めたのは江戸時代なのでそこを基準に書き進める。

首里城の理屈で言うと、水源近くに江戸城は建つべきだ。
どこが良いのか皆目見当がつかないが、たとえば多摩川や隅田川の上流とかだろうか?
しかし、江戸城は海に近い。
埋め立てなどが行われてきたので、現在は海に接しているようには感じないが、堀が海と繋がっていた。

アプリ『大江戸今昔めぐり』で出した江戸時代と現代の地図

首里城が「水源を押さえるため」なのだとしたら、江戸城は水源を押さえていない。
江戸の水源である多摩川や隅田川、荒川の上流を押さえられてしまったら、江戸は立ち行かないのではないか?

この違いは土地の大きさと環境によるのだと推察する。

沖縄島は先述の通り、東京都より小さい島であり、周りを海に囲まれている。島内の争いだろうが、外敵から攻められようが、水源を確保することが生存を助ける。

江戸は沖縄島よりも大きい。
厳密に言うならば、江戸は関東平野の一部であり、本州はさらに大きい。
海を多少隔てるが北海道、九州、四国とも近い。
本州も島であるが、沖縄島と比べると規模が違う。

江戸は都として水源を確保することが優先なのではない。
都として、物資の流通を優先したのだ。

このことに関しては

  小田原も鎌倉も山に囲まれており、敵に攻め込まれにくい半面、そのこ
  とが都市としての発展を阻害していると見たのである。その点、関東平
  野のまん中に位置する江戸は海に面しているうえに関東に幾筋も流れる
  川の終着点でもあった。

  物資を運搬するのにこれほど都合がよい土地もなかったのだ。大坂の発
  展を見るまでもなく物資の流通が都市の発展に直結すると考えていた家
  康は、これまで氾濫を繰り返すため厄介このうえないと思われていた江
  戸の河川さえ制することができれば勝算はある、とにらんだ
      (新晴正『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より)

という説がある。
僕はこの説に賛同する。

そうすると、琉球王朝が首里に拠点を構えたことと、徳川家康が江戸に拠点を置いたことは「都の中心地を決める」上で大きく理由が異なる。

場所が変われば考え方が変わるのは当たり前だが、沖縄を旅する中で土地の構造面から沖縄と東京のことを知れたのは有意義だった。


沖縄や東京に限らず、日本中に人は住んでいる。
いや、世界中に人は生きている。
そこには何かしら理由があって、営みが続いている。
それは「源遠流長(源が遠いほど流れは長いという意味で、水の尽きないという意味)」なのだろう。
人間としての瑞泉が何処かは分からないけれど、滔々とそれぞれの土地に流れているものがあるのだ。

テクテク🚶
読んでいただきありがとうございました。

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