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【実録】逃げ続けた先に待っていたのはタクシードライバーという仕事

はじめまして。流し(ながし)と申します。現役で都内のタクシードライバーをしております。そのかたわらタクシーの転職エージェントを活動をしています。

流しのプロフィール

平成4年生まれ。出身は神奈川県で茨城大学理学部卒業。卒論では八溝山における標高ごとのアリの分布について研究。

その後わずか4年で4回も転職を繰り返し、5社目でコロナ禍ではあったものの藁にもすがる思いでタクシードライバーという仕事に出会う。都内の道は明治通りすら知らないし、ペーパードライバーもちろんのこと未経験で始めたタクシーだったけれど、奇跡的にタクシードライバーという仕事が天職だった。人生が好転し年収もわずか2年で倍になり、生活面も精神も改善し今でも楽しくタクシードライバーの仕事をしている。

そして1人でも今現状苦しんでおられる方がタクシードライバーという仕事を通して人生が豊かになれば、または私みたいにタクシードライバーという仕事を通して救われたらと思い、X(旧Twitter)を通して2021年8月からタクシードライバーの良し悪しリアルを発信している。

冒頭にプロフィールに簡単に経歴を掲載しましたが、今回は初めての投稿となりますので自己紹介含め、タクシードライバーになるまでのいきさつを掲載していきたいと思います。

■タクシードライバーになるまでの悲惨な経歴

・大学院ではなく就活への選択

社会人になるまでは茨城大学で蟻の研究をしていました。しかし就活の時期になると同期たちが大学院への道を選択するなか、私は4年で卒業し就活を普通に選択する道を選びました。理由は2つあり、1つは早く社会に出て稼いで自立したかった。もう一つは蟻には興味があり研究自体は楽しかったのですが、やはり蟻で食っていくほど自分の頭と熱量に自信がありませんでした。就活するにあたっても業界は幼いころから家に興味があったので住宅系、また成果がダイレクトに給料に反映される(この時期から、成果がダイレクトに反映されるタクシーに向いていたのかもしれません)営業職に絞り就活をしていました。結果、ハウスメーカーから5社ほど内定を頂き、そのなかでも納得できる会社に就職することができましたし、大学4年生の時に宅地建物取引士の資格も取得し順風満帆のように思えました。

しかし、ここから思いもしなかった地獄が始まるのです。

・新卒で入社した会社を13か月で退職

入社した会社は全国展開もしており、CMも流れ一部上場企業で大きめな会社でした。私は茨城大学卒業ということで茨城の展示場に配属となりました。全国の中でも展示場の成績が10位以内に入るような成績上位の展示場です。私のほかにも同期は一人、同じ展示場に配属となり、当時新卒で一番売れるのではないかとささやかれていた方でした。案の情、その同期は最初の1年の成績は新卒(約営業40名)で1位となりルーキー賞をもらっていました。私もその同期の刺激をうけ、また上司の方々の手厚いフォローとご指導がありなんとか新卒の中で次いで2位の成績までくることができました。

成績はかなりイケイケでした。が当時成績ジャンキーになっていたのもあり自分でも焦っていました。休日にも時間を割いてポスティングをしたり、一度来場してくださったお客様に電話をしアポイントが取れたら、伺いにいき休日も返上するような日々を送っていました。また上司達は私以上に働いていました。展示場に泊まり込みしながら働かないとさばけない仕事量、月に1回も休めたらいい方、そんな環境でした。私もそんな背中を見て、当時から自分もこうなるのかという恐怖もありつつ、仕事に人生をかけている先輩方がかっこよく映っていました。自分も深夜まで先輩方と深夜まで働こうとしたら、新卒は労務厳しんだから早く帰れと怒られたことが何回もあります。今ならわかりますがほんと迷惑な新卒ですよね。我ながら阿保だと思います。

そんな状態で働いていたのもですから、無理がかかっていたのでしょう。メンタルがおかしくなっており、ある日、夕方訪問のアポイントがありそのアポイントをこなしてから展示場に戻るはずが、まるで結界が張られているかのように展示場に戻れなくなりました。足がすくむのです。その場の車の中で泣きながら一番お世話になった店長に連絡しました。「もう無理です。申し訳ございません。」と。いまでもあの場所とあの道を覚えています。「そうか。わかった。そうだよな。限界だよな。」とまるでこういった電話を予想していたかのうような回答でした。そこには冷酷さはなく温かい口ぶりでそれをきいて更に涙してしまいました。

精神科にいくと適応障害を発症しておりました。うつ病の手前だったようです。少し休養期間を頂き、最後に店長と支店長に飲み会に誘われ、「また最初から環境を変えてやりなおさないか?お前ここで辞めるのはもったいないよ。」とこの会社の2次面接でお会いし、入社当初から気にかけてくださった支店長が声をかけてくださったのですが、私はもう頑張れる気力は残っておらずお断りしました。

その際に最後に支店長が放った「お前はここで逃げる選択をするんだな。一生逃げ続ける人生になるよ。いいんだな。」という言葉が脳裏を離れませんでしたし、今でもあのシーンを覚えていて、この言葉通りの未来がやってきてしまいます。

・生活費はかつかつ。2社目までの空白の3か月

当時から、将来はカフェを作りたいという思いがあり、そしたら勉強しながらお金を貯めたいと思い飲食店にしぼって転職活動をしておりました(今思うと、この思考自体も安直ですよね。)。同時に茨城から東京の狛江市に引っ越したのもあり生活費がかつかつでした。銀行残高3万円くらいだったと思います。あまりにもかつかつなので転職活動も日雇いバイトをしながらでした。イベントの設営の日雇いバイトをやっており、あとにも先にもこの肉体労働が地獄のようにきつかったのを覚えております。雨の中、外で15時間近く重いものを運ぶというものもありました。職人さんに怒号のような指示をされました。カップラーメンをむさぼる、そんな日々でした。

・2社目もわずか8か月で退社。蓋を開けたら超絶ブラック企業

思惑どおり表参道のとある飲食店に正社員として入社することができました。勤務形態もシフト制で大学のアルバイトのような勤務形態でした。ただとにかく環境は過酷でした。月の残業時間は100時間超え。社員は月に1人は店から辞めていく。店長はアルバイトの方々から嫌われてしまいシフトに入ってくれなくなり変わりに正社員がシフトの穴を埋める。ネズミはそこら中にいて不衛生極まりない環境。料理長や店長も常にイライラしており、八つ当たりをされる。私よりも半年前に入社された新卒の先輩もメンタルをこわしてしまい、営業中に勝手に涙がでるようになり退職。私もしまいには適応障害を再発してしまい退職することに。安易な転職活動で事前に先に調べたら分かったことかもしれないと反省しています。

・3社目はホワイト企業!?しかし給料はわずか年収280万円

成果がダイレクトに給料に反映される。そんな仕事がしたい。新卒でも頭にあった軸。結果、住宅営業では暴走してしまい失敗となってしまっていましたが、この軸は相変わらず根底にありました。なので営業職。また宅地建物取引士の資格があるので不動産に関わる仕事で転職先を探していました。この時期になると短期離職が重なっていて採用のハードルが上がってきていると肌で感じていました。また次入る会社でなんとかしないと後がないと考えていました。もちろんカフェを開きたいという夢はぶら下がっていました。

そんな中で採用していただいた会社が不動産フランチャイズの本部のSV職。SVになれば仕事をしながら加盟店の店舗指導をする立場になるので独立への勉強になると考えました。また不動産ということもあり少しは経歴は活かせる、またSV職もインセンティブ要素もあり営業という観点からも嬉しく思い入社を決意。

丸の内にもオフィスを構えるさすが一部上場企業。全国展開もしており、実質かなりホワイト企業であった。残業は厳しく扱われ9時に出社して、17時30分の定時。週に2日休みがあり、今までの会社のように「殺すぞ」とか「死ね」などの怒号みたいなのは一切なく、椅子が飛ばない環境に感動していました。

とはいえ、入社面接時に書面で見せられた年収額面310万は調整給込みのものでしたようで、入社するとその調整給がカットされてしまい、一機に年収280万になってしまいました。

またこの時期になると改めて自分はポンコツなんだと認識を深めました。SV職としての加盟店様向けのセミナー講師の仕事もぱっとしないセミナーになってしまうし、今までまともにパソコンを扱ってこなかったのでパソコン業務が多く何をするにも苦戦しました。また今までの挫折の繰り返しと、自分への自信の無さから、上司とのコミュニケーションも悪くはないけれど、微妙な感じになってしまい悪循環。そんな中で当然インセンティブが発生する案件は取得できるはずもなく給料は一向にあがらない。こんな状況のなかでも結婚をしていたので(この年収だったり、この状況化で結婚をしてくれた妻に感謝しかありません。)年収をあげて少しでも楽な生活をさせてあげたいと思いはありましたが結果に結びつかない。たしかに努力に努力を重ね役職を手に入れて年収をあげられていた上司の方もおりました。けど主任クラスでも年収は400万に届かない状況。ホワイトだけど給料が低すぎて辞めてしまう方が後を絶ちませんでした。私もその一人になってしまい14か月で退職を決意しました。

・4社目は最短の1か月で退社。

もちろん適当に転職活動をしたわけではない。今までの営業経験と宅地建物取引士の資格を利用できないかということで賃貸営業に的を絞り転職活動をしました。結果内定を頂くことができ、全国的にも有名な会社に入社。しかしながら先輩たちを見ると、タイムカードを切らず、休日出勤。支店で一番成績を上げていた先輩が年収600万円。いきなり現実を突き出された気がしました。加えて住宅さながら下っ端の私ですら毎日12時間労働。メンタルが弱り切っていた私には続けることが困難になっていました。

・俺、タクシーやってみようかな。

そんな状態が続いている中で、とある日の夕飯、ふとタクシーいいんじゃない?と思ったんです。ふと降ってきたような感覚でした。そしてその場の対面で一緒に夕飯を食べていた妻に言ったんです。「俺、タクシーやってみようかな。」と。そしたら妻はあっけらかんと「いいんじゃない。やってみたら。」と答えました。私の性格を一番知っていますし、義理の父が都内でタクシードライバーをやっていたので理解が早かったのだと思います。そうと決まってからは次の日、出社して退職届を提出しました。ほんとに会社にとっては迷惑な話だと思います。ほんとに余裕がありませんでした。

こうしてその日のうちにタクシードライバーの紹介会社に登録し、すぐに電話を頂き候補の会社を3つ教えてくださいました。そのうちの1社に入社し、現在丸々3年、タクシードライバーを経験し今でも続けております。あんなに短期離職が多かった私が嘘のように続いているのです。さらにいやいや続けていません。今は仕事が楽しくて仕方ないですし、先輩や後輩、同期に恵まれ仕事も楽しく、プライベートの趣味も一緒に行い人生が遥かに充実しました。年収も入社して2年目で2倍以上増え、生活も余裕が出てきました。その甲斐があってか、第一子の娘が3か月前に生まれました。

私のように絶望的な状況にある方や、仕事が見つからない方、人間関係にもまれながら仕事をするのが苦痛な方、年収が低くて生活が苦しい方。

私のようにタクシードライバーになったら人生変わるかもしれません。大げさのように聞こえますが、私は本心で思っています。タクシードライバーという仕事に出会えていなかったらこうして発信活動をする余裕なんて到底ない生活をしていたと思います。あの時支店長が放った「お前はここで逃げる選択をするんだな。一生逃げ続ける人生になるよ。いいんだな。」という言葉はいまでも覚えています。この言葉通り逃げ続けた社会人になってしまいましたが逃げた先に偶然タクシードライバーという天職に巡り合えました。

本日の記事は以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

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