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「時代」だけが悪いんじゃない。では、「時代」に付随した何が悪いのか。

わたしは音楽フェスが大好きで、数年前、彼がステージで曲を披露している姿を見ながら、その独特な音楽に、静かに耳をすませていた。

小山田さんを巡る様々な報道や記事。その全てを目にしたわけではないから、これから書くことは「今」の時点で、わたしが知りうる限りの全ての情報から書いていることである。これから様々なことが分かれば、ここに書いたことからまた、変化をするだろう。
最初は、こうして文章にしようとは思っていなかった。みんながそれぞれの意見や価値観があって、それをぶつけられるのが怖かったからだ。今だって怖い。だけど、Twitterでこちらの記事

を読ませていただいて、何かしらわたしも今思っていることを言わなくては、という気持ちになって、文章にする勇気をもらえました。

わたしは以前、子どもを虐待から救う仕事をしていた。
体調を崩し第一線は離れたけれど、今も、複雑な家庭環境で生活していたり、壮絶な体験をしてきた子どもたちを見守り、彼らの話に耳を傾けている。そういう、仕事をしている。

ー時代の変化

しつけは虐待と言われるようになって、
いじめや体罰は暴力であると定義づけられるようになった。
さらに言えば、虐待だって暴力である。

90年代、わたしがJPOPばかりを聴いていた頃。
金八先生でも荒れた中学校とかは話題になっていて、わたしが通っていた中学も、「リアル金八先生」みたいな光景だった。
中学校へ行くことは、戦場へ行くかのような思いだった。
コンプレックスを弄られたり、暴言を吐かれたり。自転車に細工をされたり。
先生は荒れた生徒をひっぱたいたり、時には放置していた。
家の中でも、親が子どもを叩いたりすること、夜になっても親が家にいないこと、そういうことは結構あって、今ほど厳しい目で見られていなかった。

けれど、時代に伴ってそれらが問題視されるようになり、法制度が整い、暴力に対する見方も変わってきた。
だから、今の時代のものさしで過去の出来事を見る際に、時代の変化だけではなく、それに伴う人々の価値観の変化、それぞれに目を向けないといけない。

例えば、昔は仕事中にデスクで煙草を吸うことは普通だった。煙草の煙が苦手な人の声なんて誰も聴いてなかった。
でも今は、煙草による病気や煙草の煙を吸わされる人の意見が優勢になり、煙草そのものが時代にそぐわなくなり、時代の経過とともに、価値観そのものがセットで変化をしたことで、社会全体の価値観が変容したのである。
しかし、例えばジェンダーにまつわることは、いくら時代を経てもそれぞれの価値観がぶつかる部分もあって、時代×価値観セットで変化をしないから社会全体での価値観の変容にはつながっていないような気がしている。

ー人間は、変化する生き物だ

生きていく中で出会った人やモノ、それらに触れて、大きく価値観が変わる。
時代の変化も大きい。
だからそれを、時代の変化だけで片付けるのではなく、時代に付随した何が変化したのかを考える必要がある。
今の自分が過去の自分をふり返った時、「よくないことしちゃってたな」と思うことって、誰にでもあるんじゃないか。
わたしだってそうだ。

やっとの思いで中学を卒業し、ようやく安定しかけた高校生活。
暴力とは無縁の生活。けれど、突然、友人のクラスで飛び交う教科書と、その光景を何も見なかったかのようにしている人達を目の当たりにした。
友人曰く、日常化したいじめだった。教師も知っていた。
わたしは、久々に目にしたその暴力にすくんでしまい、どうすることもできなかった。ただただ、傍観することしかできなかった。

傍観者は加害者と同じ。それもわかってる。でも、あの頃の自分に、止める勇気なんてなかった。
まだまだ子どもだった。田舎の高校生にとって、所属していること、友人がいること、そのことを失うことは死も同然。今だったら、全然違う対応ができる。そう、今のものさしで見れば。でも、あの頃の自分は、あの頃の自分でしかなくて、今のわたしにできることは、その時に何もできなかったことを悔いて、向き合って、謝罪することだ。
そこにあったのは、ただの「未成熟」だった。

もう一度言う。
人は、変わっていく。(もちろん中には変わらない人もいるんだろうけど。)

人生の中で、いじめを受けていた子が、いじめをしていた子が、どう変わっていくか。転機となる出来事や出会いによって、どう変わっていくか。その変化の中で、過去の出来事をどんな風に捉えて、現在の自分が何をすべきか。この変化は、いじめた側、いじめられた側双方に起こりうる。

わたしの変化は、自分が中学校で見てきたもの・されてきたことは異常だったという気付きと、同じ思いをしているのは自分だけじゃないという思いが生じたことだ。だから今、戦場に行くような思いで学校に行っている子どもたちに、無理に学校へ行く必要はないんだと、一生懸命伝えている。

この変化があった今、わざわざ制裁を求めてはいない。過去の経験から自分にできる仕事をすること。それは、変わる機会があったからだ。コンプレックスを解消したり、様々な人との出会いがあったり、たくさんの本に触れたり、成熟の機会を持つことができたのだ。それによって、過去の「痛み」を、赦してあげることができた。(でも、今こう思うのは、きっとわたしに重度のトラウマが残っていないからなんだろう。現在も月イチで通うカウンセリングが、このことと関係があるのか否か、正直言って、判断はつけられない。)
しかしあくまで、赦せたのは痛みだけである。あの経験をしてよかった、とは決して思わない。踏みにじられたものはたくさんあった。楽しい学生生活を、平穏な生活を奪われた。結局、学校が戦場だったことに変わりはない。

だから、小山田さんがしたことを、それが本当なら、被害者側はそれを許さなくたっていいと思っている。
そう、ここで大事になってくるのは、主語が「被害者側は」という点だ。
小山田さんと、その被害にあったとされる方。
わたしと、わたしの学生時代の平穏を奪った奴ら。
その二者の関係性の中において、被害者が加害者を許さないということはあって当然である。

過去の失敗(という表現は妥当ではないかもいれないけれど)は誰にでもあって、でもそれでも生きていかないといけなくて、やりたいことができるようになって、それでもそれを、当事者ではなく、全く当時の事情を知らない人たちがよってたかって正義感面して制裁を与えるというのは、なんだかちょっと違和感がある。
そもそも当時、小山田さんと、被害を受けたとされている方に、実際にどんなことがあったのかは、上記の記事だけでは本当のところはわからない。

それなのに、「今の時代」のものさしだけで「過去」の「自分」の「未成熟」さを、何も知らない「他人」が「大勢」で攻撃する。そして、社会的に制裁する。

今の時代のものさしで、過去の未成熟をこんな風に制裁できるのなら。今のわたしだったらどうするか。
過去に子どもを叩いたことのある親を、子どもに暴言を吐いたことのある親を、その出来事だけを切り取って、その時の事情なんて聴かずに、今のその人の生活をひっくり返してもいいということになりますよね。そんなことしたら、今の政治家さん、ほっとんどいなくなるんじゃない?まあ、今は第一線でそういう仕事してないからできないししないけど。

ーこのような制裁は、過去の過ちを顧みることの促しではなく、鼻をへし折ってやる、という悪意の方が、どうにも強い気がするのだ

この悪意自体は、あってもいい。ただ、その悪意を暴走させてOKと言わんばかりの怖さが、このニュースにあったように思う。
過去、その頃は誰だって「未成熟」だし、だけどその時の最大だ。
だから、その最大の時の罪はもちろん罪だ。

この、過去の未成熟な頃の犯罪(ここではあえてこう言おう)に対して、のちに成熟した本人が謝罪をしているにも関わらず辞任に追い込まれる事態というのは、犯罪者に更生の機会を与えないのと同様の圧力を感じる。
反省を述べても、それを社会が許さないのだとしたら、社会的な制裁をしてもいい、それはつまり、犯罪に対して社会的な制裁が許されてしまうということだ。
これは怖い。

だけど。わたしが高校の頃にしてしまったいじめの傍観や、今も職場の中で日々見ないふりをしている仕事の数々。そして、見ないふりまでもいかない、自分では決して気付かない、でも他人からしたら悪意にまみれているかもしれない自分の何らかが、日常の中には溢れかえっている。Twitterに転がっている言葉の中には、誰にも見られることなく、ただ愚痴が吐き出されるだけのアカウントだってある。

そんな日々の中でわたしたちは生きていて、反省したり向きあったりして変わっていく。その中で、過去にしてしまったことをふと思い出したり、過去にされたことをふと思い出したりして、つまり傷ついたり傷つけられたり、そんな風にして生きている。
だからと言って人を傷つけていいとは言ってない。
だけど、全く意図せず人を傷つけてしまうことだってあるし、そこから学んだり気づいたりすることだってるはずだ。これからも、そういう事があるはずだ。そうやって人は変わっていくんだ。

そうやって変わった「今」がその人の最大だ。
その「今」の最大を、磨き続けていくしかない。

ーその最大を認めてあげなかったら、わたしたちはどうやって生きていったらいいんだろう

オリンピックには、子どもも出演・出場する。
わたしたち大人は、せめて、子どもに恥じない大人になろう。
大人も、子どもも、失敗する。それは人間である以上、起こりうる。
その失敗を、責め立てるのではなく、どうしたら次に同じことが起こらないか、認めあって話し合うことはできないだろうか。

それこそが、今回のオリンピックのテーマ「多様性と調和」ではないだろうか。

多様性を認めることは、ある種、調和を乱すことなのかもしれない。
しかし、多様性を認めるなら小山田さんの辞任は違和感があるし、調和性を認めたら排除に繋がり、辞任は妥当ということになってしまった。
もっと、別の方法がなかっただろうか。

令和になって、一人一台スマホを持つようになって、基本的には人に聞くよりGoogle先生に聞くことのほうが多くなったわたしたち。そして、独り言のように、遠い存在の方へ簡単に言葉を伝えられるようになった。
その先にいるのが、リアルなその人ではないような感覚、ファンレターを送るためにポストの前でするドキドキや、目の前にいる人にかける言葉を一生懸命考えている大切な瞬間であることなんて希薄になって、人差し指は迷うことなく「➤」をタップする。その独り言は、本人はもちろんのこと、世界へ発信される。

ー今後、SNSでのトラブルを「そういう時代だった」と未来の子どもたちに言わせないように

令和に発生しているこのいじめを、時代だけのせいにしちゃいけない。今回の小山田さんのことは、SNSが発達したこの「時代」に付随した、その活用法を知らなかったわたしたちの「未成熟」さが引き起こしたものであると、わたしは思っている。誰だって、未成熟を経て成熟する。だから、この未成熟をいかに成熟へ持っていくか。考えるべきは、そこな気がする。

※この記事は、あくまでわたしが思って、わたしが経験してきたことの窓から見えた景色です。
わたしよりも酷いいじめを受けた方もたくさんいるだろうし、今も苦しんでいる人もいると思います。
その方々にとっては見苦しい文章だったかもしれません。
それは発信したわたしの想像力不足によるものです。
でもこれが、今のわたしの最大です。
不足部分は、今後も磨き続けていこうと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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