見出し画像

湘南ハワイアン倶楽部

 その日、目が覚めると近所は硫黄の匂いと湯煙に覆われていた。
「なんだ? どうなってるんだ?」
 慌てて家人に訊ねる。
「うん、温泉沸いたみたい」
 娘はしれっと大変なことを答えた。
「温泉が、沸いた?」
「うん。うちも温泉出てるよ」
「え?」
 慌てて風呂に行ってみる。
 風呂にはすでに満タンに温泉水が溜まっていた。どうやら蛇口から温泉が出るらしい。風呂の温度計によれば湯温は41度。風呂としては良いのだが、これで料理ができるのか?
 不安に思って今度はキッチンに行ってみる。
 やはりか。台所の蛇口から出てくる水も温泉水だった。
 うちの蛇口は右にひねると水、左にひねるとお湯がでる仕組みになっているのだが、残念ながらどっちからも温泉水が出る。温度も高い。
「まいったな」
 しばらく家の中をうろうろしてみたが、どの水も温泉水だった。風呂はともかく、トイレの水まで温泉とはいかがなものか。湯煙であたたかいのは結構だが、これでは冷たい水が飲めなくなってしまう。
「大丈夫だよ、パパ」
 と、娘が冷たい水をコップに入れて手渡してくれた。
 うん。うまい。
「知らなかったの? うちの飲み水、もう随分前からペットボトルだよ。水道水、美味しくなくなっちゃったから」
 そう、なのか。しかし、娘が不味いという水を僕は飲んでいたんだが。

 ともあれこういう訳で突然湘南の片隅は温泉地になってしまった。
 市がすぐに気をきかせて無償でウォーターサーバーと水のコンテナを配置してくれたおかげでとりあえず料理と水には問題がない。
 この事件はネットやメディアでも大きく取り上げられ、そしてすぐに観光客が押し寄せた。
 ところが押し寄せても行くところがない。
 仕方がないので来た客は知り合いの家で温泉を楽しむことになった。
 うちは築五十年だが無駄に広い。縁側もあるし庭もある。なので客が来ることには何の問題もない。
「やあ、わるいね」
 友人の笹沢がへらへらと笑いながら和室で自前のビールを飲んでいる。
「いや、会えるのはいいんだが、しかし急だよな」
「いや、温泉なんてもんはとつぜん湧くもんだよ。なあ、温泉卵作ってみたか?」
 温泉卵? そういえば試してなかったな。
「いや、ないよ。だいたい湯温は41度だろ? ちょっと低い」
「沸かし直せばいいんだよ。どれ、俺がやってやろう」
 笹沢はふらふらとキッチンに入ってくると、まるで自分の家のようにシンク下から小鍋を取り出した。
 ま、いいんだけどな。もうかれこれ三十年以上、あいつは兄弟みたいなもんだ。
「お湯はいったん沸かせて、その間に温めておいた卵を入れればいいんだ……」
 彼は器用に温泉卵を作ると俺が食器棚から出したお椀に卵を割り入れてくれた。
「はあ、器用だな笹沢」
「なに、好きなだけさ」

 どうやら、考えることは誰も同じなようですぐに温泉卵は湘南の名物になってしまった。
「さて、どうしたものか」
 僕は家で温泉卵を食べながら物思いに耽っていた。
 これは絶対に事業になる。
 とは言え……ただの温泉卵屋ではセブンに負けてしまう。しかし娘の学費を稼ぐためにもなんとかして温泉から収入を引き出したい。
 結局、三日三晩悶々として考えた挙句に立てたプランは「会員制温泉サロン」だった。
 うちをサロンに改築して、会員制にして金を稼ぐ。ついでに風呂も馬鹿でかくした。なにしろ無駄に広いのだ。風呂の増築は造作もない。
 これでビジネスも流れ込んで来れば儲けもの。会員はIT系に限定するか。
 僕はこのサロンの名前をあえてダサい「湘南ハワイアン倶楽部」とした。湘南ハワイアン倶楽部で湯に浸かりながらビジネスプランを語り合うって意外といい気がする。

湘南ハワイアン倶楽部は大いにウケた。あっというまに定員の千人が埋まり、予約は毎日目白押し。会費は月額10万円としたのだが、そのプレミアム感が受けたらしい。あるいは浴衣じゃないと入れないという規約のせいか。
 ともあれ僕の零細事業はすぐに毎月の売り上げが1億円という巨大事業へと変貌した。
 サロン経営は基本ヒマだ。これと言ってやることは特にはない。毎日十人限定で家に客を招くだけ。ただ、僕の人脈で色々な有名人がたまにいるということが受けて予約帳は常に満タン状態だ。
 人脈がビジネスを呼び、それが新たな事業になる。
 僕は仕事をやめるとすぐにこちらの事業に集中するようになっていった……

 ところが、である。
 事業がうまく行くとすぐにそれはM&Aのターゲットになってしまう。
 そういう訳で、あれよあれよという間に僕の事業は他人に譲渡されてしまった。
 買主はなんと僕の娘だ。どうやら月に一千万円のお小遣いを与えていたことが裏目に出てしまったらしい。
「大丈夫よ、パパ」
 あらたに購入した黒革製のハイバック・アームチェアに収まった娘はにっこりと笑った。
「今度はわたしがパパを養ってあげる。だってわたしもうCEOだもん」
 ふーん。CEOね。
 娘よ、よくぞここまで育った。
「はい、会長。ありがとうございます」
 僕は娘に深くお辞儀をすると、風呂に入るため静かに執務室を辞去した。
 ま、湯に浸かりながら次の事業案を練るとするか。実は次の事業の名前は考えてある。「湘南タマゴ」。あとはこの中身を考えるだけだ……

ー Fin ー


よろしければサポート(投げ銭)お願いします!実は自費出版ってすごくお金がかかるんです。『魔法で人は殺せない』の第二巻も出したい(ネタはあります)のですが、これに300万円くらいかかります。有料記事が多いのもそのためです。お金を貯めてぜひ第二巻を出したいのでご協力をお願いします💖