(240506e) 僕が何故(犬社会でなく)「猫社会」という言葉を使っているか。

「猫社会」という言葉で、僕が何を考えているか?
何故「犬社会」でなく、「猫社会」なのか?

大まかに言ってしまえば、
「犬社会」では、本当に考えていて、判断しているのは、
少数の君主?(トップ)や幹部たちだけだと、考えています。
そして、巨大な数のメンバー(構成員)は、ほとんど考えていない。
と考えています。

※創価学会は、一応、構成員(学会員)も、考えている。
と主張するでしょう。でも、僕は、それは違っていると考えます。
これほどの超巨大な人数が、一人(池田大作でしょう)の事を、
信仰して(鵜呑みに言う事を訊いている)いるという事は、
これは、構成員(学会員)は、事実上は、考えていません。
最低でも、肝心な点だけは、考えていないと僕は判断しています。

そして、「犬社会」に対して、「猫社会」は、
まあ、犬社会ほど、団結は出来ない(出来にくい)という
構造的な欠陥があります。
ただし、猫社会に於いて、考えている主体は、
君主や幹部ではありません。
構成員のほとんど全員が、それなりに、独立して考えています。
その為、通常の状態は、まず、まとまった組織的行動は、
まあ、出来ないでしょう。
猫社会で、組織的な行動が出来る場合というのは、
相当に限定された危機的な状況だけです。
それ以外の事は、ほぼ組織的には動けない。
ただし、犬社会と比べて、一点だけ、優れている点があります。
それは、前述もしましたが、構成員のほとんど全員が、
自分の力で自分の力量に合わせた範囲で、精一杯自分で考えている点です。


大雑把に言うと、
犬社会は、構成員のほとんどが考えていない。
がしかし、組織的行動となると、犬社会の方が、圧倒的に優れます。
猫社会では、構成員が自分自身の力でかなり考えています。
だから、構成員の考え方は、ハッキリ言って、特に通常は、バラバラです。
ただ、不具合に対応する(処置する)能力は、
僕は猫社会の方が、圧倒的に優れていると思っています。
なぜ犬社会で不具合に対応する力が弱いか?
それは、猫社会では、
その不具合を監視し、考えてそれの防止や処理方法を考え出す確率が、
犬社会に比べて、圧倒的に、多いからです。
なぜ犬社会では、不具合に対応する力が弱いと思うか?
さっき言った様に、犬社会では実質的に考えているのが君主や幹部だけと
言ったと思います。この事に原因があります。
さっき猫社会では、考えていて、かつ、監視している人数が圧倒的に多い。
と言ったと思います。

ここら辺が、その原因や構造的な理由です。
まあ、犬社会でも、ある程度、これを改善する事は可能ではあるでしょう。
しかし、根本的には、猫社会では、不具合の抑圧能力は、圧倒的です。
そして、根本的に、犬社会では、行動する能力が、圧倒的です。

だから、別の言い方で言えば、
猫社会は「何も(不具合を)起こさせない」事に向いている構造です。

以上の様な事が、
僕が考えている内容です。


念の為に、念を押しておきますが、
創価学会は、通常の犬社会に相当改良を加えてはいるが、
犬社会は犬社会である。と考えています。
基本的な指揮権は、中央の君主や幹部に依存しています。
そう考えています。
学会員は、通常の一般人よりは、思考し考えている事は、僕も認定します。
がしかし、「肝心な点だけは、全く考えていない」と思います。
だから、創価学会は、基本的には、犬社会である。と思っています。
その根拠の一つは、組織力がハンパない腕力を持っているからです。

とりあえず、
僕の考え方を紹介しました。

以上です。