(240504a+) 例え間違っている自分でも、自分の悪条件でも(無条件に)認めて愛せないと、自分の間違いを認められないモノである。

色々な人が居る。

誰でも、是と認めて欲しい。
子供だけでは無い。大人だってそうである。

誰かの行動や判断を見ていて、
「この人達は、間違っている」
と気付いたとする。
それを言った処で、
言われた人は(愛してくれないから)その間違いを認めない。

要するに、「(間違っていても)認めて愛して欲しい」のだと思う。

これが満たされないばっかりに、
その間違っていて自分を愛し切れていない人達は、
更に、自分を認めて愛してもらう為に、間違いや悪を積み重ねる。

要するに、
「間違っていても、認めて愛せるかどうか」
に尽きる。

これが、満たされなければ、
当人は延々と自己正当化の理屈を積み上げて行く。
そして、それでも認めて貰えないと、更にヒドクなる。

これ(間違った自分でも認めて愛してあげる事)が、
満たされていれば、
自分が、もし、間違っていた時も、素直に、間違いを認められる様になる。

繰り返すが、
「誰でも、(間違っていても間違っていなくても)認めて愛して欲しい」
のだ。

これが自分自身で出来るかどうかが、
ほとんどの問題での、核心である。

「間違っている事やどう間違っているか?」が核心では無く、
「(当人が)(間違っていてさえ、なお)自分を自分で愛せるかどうか」
が核心である。と思う。

よくよく、
他人が間違っていると気付いた時に、
「どこが間違っているか」ではなく、
「どうやったら間違いを直してもらえるか」に焦点を当てると、

結局、大事なのは、
「(当人を)(例え間違っていても)認めてあげて愛してあげられる」
かどうかが、重要である。
繰り返しになるが、
だから、
「どこが間違っているかを指摘しても、その人は間違いを直さないだろう」
であり、
「どう間違っているか。どこが間違っているか。」
は、大して重要ではないのであろう。

グダグダと、似た様な事を書いてしまいました。

自分で自分を愛せる人。
間違っていても、罪人でも、その人を愛せるかどうか?
が大事であり、
どこが間違っているかを指摘する事は、むしろ、逆効果である。
という事。

以上です。

追加です。(2024/05/04 - 4:45 頃)

もし、ヒマであり、良かったら、
次の記事も見て下さい。


以上です。

追加です。(すぐ後だったので、省略)


以上です。