見出し画像

信じる故の勇気

ヨハネ16:25-33 
 
「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とイエスが言います。その「時」とはいつのことでしょう。誰の、どんな時なのでしょう。これを読む私たちにとっても、まだその「時」は来ていないのでしょうか。だったら、私たちに神のすべてが明らかになっているはずがない、というのも当たり前でしょうか。
 
ところが、イエスの十字架と復活の時を、ここでは指しているように見受けられます。そうなったとき、弟子たちは、イエスの名によって神に願うようになる、と言っているからです。この「弟子たち」とは、イエスが話している十二弟子たちのことです。父なる神自身が、イエスの名によって求める者を癒やし、共にいてくださるのだそうです。
 
その前提として、「信じる」ということがあるように見受けられます。ヨハネ伝は、「愛」ということが目立つ書き方がしているように見えます。愛に満ちているというイメージをもつ人もいるでしょう。しかし案外、この「信じる」ということが、ヨハネ伝の根柢にある、とすべてきではないか、と強く思います。
 
御子を信じる者に永遠の命を与える、という聖書の中心メッセージを思い起こしても、そこに神の愛があるにも拘らず、永遠の命は御子を信じる者が得るということになっています。いまここでも、イエスが父の許から出てきたことを信じたことが、ここでのすべての物語の始まりとなつています。信じたからこそ、神の愛を受けていることを知るのです。
 
さあ、そうしてイエスが来たのはよいが、「今、世を去って父のもとに行く」と宣言しています。いったい、これが耳に入らなかったかのように、弟子たちは妙な答えを言っています。もうたとえによらず、そのように信じます、などと。なにかオウム返しのような、またその深い神が全く分かっていないで言っただけのようではないでしょうか。
 
それでイエスは厳しい返事をします。今信じるなどと言ってよいのか、と。信じると言った、その舌の根の乾かぬうちに、君たちは散らされて逃げることになるのだよ。イエスは、独りになる、そう言いつつ、否、父なる神と共にいるのだから真に独りになるのではない、と正します。それでいて、決して弟子たちを非難するつもりはないようです。
 
私により君たちは、平和を得ることになるのだ。もう平和は与えられてるではないか。それは私たちも同じです。世にあって苦難はありますが、イエスはすでに世に勝っているからです。だから勇気を出せ。西欧思想の隠れた鍵になる概念が、私は「勇気」であると睨んでいます。イエスの励ます「勇気」は、私たちにも届いているでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?