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『音楽とは何か』(田村和紀夫・講談社新書メチエ521)

タイトルが、恰も哲学の問いのようである。スケールが大きいものか、という期待を抱かせるものだが、必ずしもそうではない。サブタイトルに「ミューズの扉を開く七つの鍵」という言葉が見える。ギリシア神話の音楽の神である。実は音楽に限らず、文芸から舞踏など、広く芸術にまつわる神の名であるが、通常音楽をメインに私たちは捉えている。だからmusicなのである。但し、ギリシア語では「ムーサ」が神の名であり、9人の娘たちのことなので複数形の「ムーサイ」が適切な呼び名である。西欧語になるときに、「ミューズ」のような響きで発音されるようになったようだ。
 
このように、サブタイトルは詩的である。そのため、本書は堅い論述の本ではないということが分かる。著者は音楽学専攻で、幅広く音楽について考察し、また教授している。クラシックはもちろんのこと、ビートルズも得意な領域であるというから、西欧系かもしれないにしても、音楽を愛している方なのだろうと想像できる。「あとがき」で、「永年の音楽への思いがようやくひとつのかたちとなった感があります」と告白しているように、本書は筆者の情熱が込められていることは、読んでいけば分かる。果たしてそれが、音楽についての特別な議論や主張を私たちに提供しているか、と問われると、私はあまりピンとこなかった。しかし、著者の音楽に対する愛や、その遍歴のようなものは、よく伝わってきた。
 
ベルクソンへの熱意は、その時間論からして当然であるかもしれない。音楽は時間の芸術である。ジェイムズへの傾倒も、音楽の理論を抽象的に扱うのではなく、私たちの心にどう働きかけるか、というところに関心があるのであれば、分かるような気がする。そして、音楽をどう認知するか、受け取るか、ということについては、実に様々な角度があることも、納得できるから、著者がそのうちのある側面だけから、音楽の世界の門を叩いているということも、決して物足りない、などと言うべきではないと思う。誠実に、ひとりの人間として、音楽をどう愛してきたか、否、音楽にどう愛されてきたか、ということを語るロマンがここにある。
 
だから、音楽とは何々だ、と断定するような真似は決してしていない。それをすることができない、と分かっているからだ。だから、本書の中のいくつかの章は、各方面で述べてきた、一つひとつの論考である。それだから、本書はある意味でどこから読んでも、それなりに楽しめるものとなっているのであって、また、貫く主軸を読者にぶつけようというのではなく、いろいろな側面から音楽の魅力を紹介している、というふうに見えるのでもあるだろう。
 
だから、もしかすると「音楽とは何か」というタイトルではなく、もっと違うタイトルのほうが相応しかったのかもしれない、というふうにも思われる。但し、営業的には、このタイトルは、良かったのかもしれない。こうして私が手に入れたのであるから。
 
こうした前提めいたもので、お喋りが過ぎてしまった。肝腎の中身は、手に取った読者が愉しんでくだされば何よりである。が、その「七つの鍵」については、見出しだけをご紹介しても、営業妨害にはなるまいと判断して、ここに挙げることにする。
 
 ・音楽は魔法である
 ・音楽はシステムである
 ・音楽は表現である
 ・音楽はリズムである
 ・音楽は旋律である
 ・音楽はハーモニーである
 ・音楽はコミュニケーションである
 
何かしら魔力があると見られていること。音楽のイデアのようなものがあるのではないか、ということ。そのような観点は、なるほど著者の音楽愛がもたらした宝物であるかもしれない。もちろんリズムやメロディ、ハーモニーというのは、素人でも分かる音楽の要素である。しかし、最後のコミュニケーションというのは、これもまた著者の愛の故の結論であるのかもしれない。人と人との心のつながりを生み出す音楽の性格を読み取り、しかもそれを神からの贈り物であると理解することで、ミューズの話と結びつくことになるのだろう。但し、ミューズは複数であったと思ったが、著者が贈り物を与えたのは「神」という単数形であった。そこは少し気になった。
 
このように、著者の中ではひとつの筋が通っているとは思われるが、受け取る方は、様々な音楽についての知識や何かしらの気づきのようなものを、いろいろに感じることができるのではないか、というのが全体的な印象である。一つひとつの論考には、学ぶべきところがたくさんあるし、そういう点には同意してしまう、というような記述もたくさんあった。これらは、部分的に、同調できるものを素直に喜んで読んでいったらどうだろう。ちょうど、同じスターを推していても、ファンそれぞれに、推しのポイントが異なることがあり、あるいはまた、そこがいいよね、と好みが一致して盛り上がるところがあるように、音楽に対する様々な好みを、これほどあからさまに並べてくれる人がいたからこそ、音楽ファンは音楽談義に花を咲かせることができるのではないだろうか。本書を肴にして、音楽にまつわる酒宴でも開いたら、さぞ愉しいだろうという気がしてきた。

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