見出し画像

免罪符

「免罪符」という言葉は、特にカトリックの方面からは、適切な語ではない、と言われるかもしれない。プロテスタント側からの悪いイメージで広まった言葉だ、と見るべきだろうか。しかしそう言うと、そもそも「プロテスタント」という呼称も、いわば悪口である。だからそちらに走っていくのを一度止め、「免罪符」または「贖宥状」の、本来でないかもしれないが、一般にもたれがちな理解に戻ろうと思う(宗教的な意味から離れることを、私も「言い訳」にしているわけだ)。
 
私たちにとっては、随所で「言い訳」が必要とされるのであるが、それをいちいち「免罪符」などと呼んでいたら、きりがないと思う。
 
教会で、礼拝中に小さな子どもが騒ぐのは、厳禁だとするところは多い。否、それが当たり前だとも言える。そのため「母子室」が設けてある教会も多々ある。ガラス張りで会堂が見える。音はマイクで拾ったものが響く。子どもが騒いでも、会堂には影響がない。ひとつの知恵である。
 
いま、抵抗を覚えた方もいるだろう。「母子室」という固定観念でよいのか。そう、今どきはこの呼び方はアウトだろう。かつて、そう呼ばれていた、ということにしておこう。それはともかく、礼拝は厳粛な儀式であるから、騒音があってはならない、というのがそこで標準的な考え方になっている点は、押さえておかねばなるまい。
 
他方、子どもを隔離する、ということについて、否定的な見解の教会もある。ある教会の礼拝では驚いた。もう、子どもがやんや騒いでいる。会堂の一応後方ということになっているが、自由に遊んでいる。子どもとしても、大人が何かやっているということは認識できるようで、完全に羽目を外すような騒ぎ方はしないようだ。大人も、慣れてくれば、そういう騒ぎは気にせず、礼拝に集中することは難しくないようでもあった。電車の中で子どもが声を出していても、気にしないでいることが可能なのと同様なのかもしれない。
 
しかし、そういう礼拝においても、その子どもの親が、「子どもですから騒ぐのは当然でしょう」という態度をとるとなると、また少々事情が違ってくる。そうなると、子どもというものを免罪符にしているようなものである。
 
親としては、そういう厚かましい態度は、恐らく殆どとらないだろう。だが、そういう態度だ、と決めつけられることが、いまよくあるそうだ。子どもの病気のために、社員が突如休む。すると、子どものいない家庭、独身者が、急遽休日出勤を言い渡されるというケースである。これが幾度もなされると、この独身者たちの立場からは、不満が出る。子どもがいることを自ら免罪符にしている、というのである。
 
子どもを守る、というのは、国を挙げての大問題である。少子化はもはや、大方の人がもつイメージとは別に、深刻なのであるが、政治家の中には、若者が出会う催しに金を出せば仕事をしたことになる、などという魂胆で寝ぼけたことをいい案だと思う感性も一部にあった。そこまでいかなくても、子どものために仕事が中断する親には、なんとか守りを与えたい、というのは、ひとつの世の流れではあるだろう。だが、社内という現場は、人間関係の名の下に、険悪さを呼ぶことにもなる。
 
酔っ払っていることも、免罪符になっている。酔っ払いのグループは、夜の駅のホームで騒ごうが、電車内で大声で話をしようが、構わない、と考えているように見える。周りも、なんともできない。注意をしようにも、相手は酔っ払いである。何をされるか分からないし、そもそも理屈が通らない。論理が通るくらいなら、最初から騒がないはずである。
 
こうした点でいま目立つのは、やはりスマートフォンであろう。スマホは、何をするにしても、免罪符になっている。歩きスマホをしていれば、他人に危害を与えることも許容される。自分ではちゃんと歩いているつもりらしいが、対面の歩行者にとっては、非常にストレスになる。どちらに避けるか、図れないのである。ゲームをするためにスマホをしているのだから、自分は何をしてもよい、と勘違いしているわけだが、当人にとっては、免罪符のつもりなのであろう。
 
電車の中で、ドア側に背を向けて立ってスマホの画面に熱中する。これも、スマホをしている者は自分の好きなように何をしてもよい、という免罪符を持っていると思い込んでいる。ドア側を向いて立つのが、電車に乗るルールである。エレベーターでそうしない者は、まずいない。だが、電車では平気でする。スマホを使うのであれば、ネットでそうした態度が如何に非難されているか、一度検索してみて認識すればよい、とは思うが、そんなことをする気にもならないようである。
 
目の前に高齢の方が立ってふらふらしていても、スマホに熱中していれば、座っていて気がつかなかった言い訳が立つと考えているらしい。まだ寝たふりをしているくらいが人間味があったと言えるかもしれない。スマホはあらゆる悪者呼ばわりから自分を守る素晴らしい免罪符である――と利用しているようだ。 
 
再び教会の話に戻るが、自分は聖書を読んだ。イエス・キリストが救うという話を聞いた。これを聞いて、その通りだ、と思ったということで、自分は救われた、だから「ノンクリ」とは違い、偉いのだ、そのように勘違いしている人がいるのは事実だ。そんな気持ちになる、という心理は、理解できないものではない。私もそのような感覚をもったことが、ないわけではない。だが、聖書を読んだだけで、そんな気分になって、免罪符を得たつもりになっているという病は、なかなか治らないことが多いようだ。
 
さて、そんなおまえこそ、愛がないではないか。おまえは何を免罪符にしているのか。そういう矢が飛んできそうである。いまは、甘んじて受けることにしよう。ただ、真の「免罪」とはどういうことかを身を以て教えてくれた方を、その都度見上げるつもりではある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?