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『現代思想04 2024vol.52-5 特集・<子ども>を考える』(青土社)

曲がりなりにも教育を生業としている以上、「子ども」が特集されたら、読まねばなるまい。「現代思想」は、多くの論者の声を集め、内容的にも水準が高い。そして同じことを何人もが述べるのではなく、多角的な視点を紹介してくれる。「こどもの日」ということで、こどもへ眼差しを向けてみよう。
 
確かに多角的だった。全般的な対談に続いては、「家族」「法律」「制度」「学び」「未来」といった概略に沿った形で、論述が進んでゆく。
 
「親ガチャ」という言葉についても、マスコミがセンセーショナルに、また無責任に取り上げるのとは違い、自分の生まれを呪うようなことへと関連付けるべきものではなく、むしろここで社会が「自己責任論」を当然のものとして扱っているからくりを知ラ根羽ならない、とするレベルの高い議論となっていた。社会保障をも蔑ろにしてゆく姿勢が、歪んだ見方を当たり前のものにしてゆくのである。
 
それにしても、様々な親子の形が実例としてあることにも、驚くものである。私の身の回りには直接ないために、どこか絵空事であるかのようにさえ思いかねないような、親と子どもの姿が、時折レポートされている。もちろんそれは、例示するだけではなくて、そこから社会的責任の追究など、社会的な問題としてゆくためである。
 
ちょうど本書が出た頃に、「共同親権」が国会を通過成立しそうな勢いである。だがこれについても、短いながら鋭く斬り込んだ論文がこの中にある。いまテレビでこれについて軽々しく話すコメンテーターたちは、ぜひとも一読して戴きたいものだ。
 
こうして一つひとつ挙げていくときりがないから、私の目に留ったものをわずか、もう少し取り上げることとしよう。個人的に非常に興味深かったのは、「日記」という国語教育についての論文である。明治期の子どもの日記を直接取り上げるが、「日記」が教育の手段になった経緯を辿るものである。考えてみれば、日記というものは、他人に見せることを想定していない。文学者の中にはそれを踏まえて書いた人もいるが、一般の人間が、そして子どもが、他人のために日記を書くことはないであろう。だが、国語の作文でそれを書かせ、発表させる。それはどういうわけなのだろうか。これによると、休暇中の生徒の監視の役割を果たしていたのだという。そして、大逆事件が契機となり、さらに思想管理へと駆り立てられてゆく。
 
痛々しいのは、先般、いじめられて死にたいというメッセージをこめて先生に日記ノートとして出したら、先生が花マルをつけて「やればできる」と励まして終わり、という「事件」が話題になっていた。これは論外であろうが、日記を書かせる教育とは何なのか、もっと社会が考えてよいような気がする。そもそも他人に見せる日記には、きっと「書けないこと」があるのだ。書くとは何だろう。日記とは何だろう。
 
また、国語の教科書の中で扱われる「戦争」を考察したものもあった。そのために、子どもないし学生が、実のところ最も熱心な戦争協力者であった、ということを指摘する。これは当然そうなのだが、私もまた改めて指摘することのなかった事実である。
 
戦争を教育の現場にもたらすための定番の教材が、近年どんどん教科書から削られている。「はだしのゲン」が教材からすらも削除されたということが昨年大きく報道されていた。人の生活がどう変わるのか、それを教えることがどんどん遠のいている。決して戦場には行かない一部の権力者が、国民を駒として使う戦略がいくら扱われても、それは私たちにとっての「戦争」ではない。
 
この論で取り上げられていた、米原万里の短篇『バグダッドの靴磨き』も衝撃的だった。また、大岡昇平の『野火』も取り上げられた。私は思わず、その本を探して買ったくらいだ。こういう意味では、再び私たちは「実存」ということについて、考え直してよいのではないか、という気がしてならない。
 
もうひとつ、「AI」と子どもについて扱ったものが、心に残った。子どもに関して、AIはいまどうなっているのか、を考察していたのである。AIだけの言葉には、出会いがない、と指摘する。迷いなく言い放つAIの姿勢は、いつしかそれが真理であると思いこむような危険をもつ。ほかにもまだ考えるべきことがあるのではないか。人間は常にそう考える力をもつ。しかし、そもそもAIの時代以前から、「ほかにもまだ」ということを、私たちは忘れていたのではないか。右へ倣え、寄らば大樹の陰、とばかりに、「みんなやってるから」自分もやってよいのだ、という空気を、私は日々ひしひしと感じている。
 
現実の法律や制度について、子どもを支える政策とその意義や欠点などを、次々と指摘するものもあった。教育保障について、歴史を辿る地味な文章もあったが、これを弁えておくことは、社会共通で大切なことではないか、と思わされた。単にいま目の前の出来事にどう対処するか、と思いつき合戦をしている日本社会が、何か間違った方向へ誘っているのではないか、と思えるからだ。政党の立場を守る選挙のため、人気の出る方策をいまだけやっておけばよい、という色で塗られた社会の中で、長期計画が生まれるはずがない。少子化についても、実に表面的なことしか考えられないし、提示できない大人たち。私もまた、その一人である。
 
子どもは未来である。私たちは、未来に対する責任を、考えないことに決めたように見える。そこは判断中止すべきところではないはずなのに、なるようになる、という程度の態度しかとれないのである。繰り返すが、子どもは未来である。まだ見ぬ子どもたちも、見えているだろうか。見えていないと、いけないのだ。「子ども」を考えなければならない。

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