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どうしてそんなことができるのか

凶悪事件に、若者が群がっていたということで、ワイドショー関係は盛んに話題にした。世間を驚かす殺人事件だと、時に容疑者の「心の闇」を暴こうとする世間。それは浅薄でよくないことだ、と私は常々考えており、幾度も見解を述べた。だが今回は、容疑者たち自身が浅薄であることが目を惹いている。闇バイトとでも言うのか、残酷なことでも、淡々とやってのけているという風景が、報道から見えてきたというのだ。
 
これをワイドショー関係で、その大人たちが、近ごろの若者は分からん、という角度でしきりにコメントしていた。どうしてそんなに事務的に、酷いことができるのか、という具合であった。
 
人間たちは、学んでいない。そんなことは、もう半世紀以上前に、明らかにされているではないか。確かに、アイヒマン裁判の傍聴記録としては、個人的見解を軸にしすぎたかもしれない。しかし、ハンナ・アーレントの指摘した「悪の凡庸さ」という視点は、私たちに大きな教訓を遺した。それは間違いない。
 
私たちは誰でも、きっと何らかの正当性を主張する理由を見つけて、果てしなく酷いことでも、大したことではないのだ、と自分に言い聞かせて、平気でやらかしてしまう性質を、もっているのだ。
 
交通事情から見える景色だけを拾っても、いろいろある。歩行者が横断歩道で待っていても、止まろうともしない車。それとて、同じだ。歩行者を道路の中央を通れ、と道を塞いで駐車する車もそうだ。電車で、他人の存在をまるで気にせず喋り続けることも、エスカレーターを人にぶつかりながら急ぎ歩くことも、大したことはない、とやっている。自転車の交通法規無視や、人へ与える危険性なども、やっている当人は、何の呵責も覚えずに、毎日やっている。こうして習慣になってゆくと、最初はもしも「すみません」の気持ちがあったとしても、やがて、もはや悪いという意識など微塵もなく、あたりまえのこととしてやり続けることになる。
 
だから時折、よほどのことでそれが咎められて逮捕のようなことに至ったとき、「なんであの人が」とか「そうなるまで気づかなかったのだろうか」とか、大勢の人が、傍から見下ろすことになるのである。
 
どうしてそんなことができるのか。否、人間はそのようなものである。他人の事件に驚き、自分は正義の側にいる、と安心している、その人間でさえも、自分に気づいていないだけのことなのである。あるいは、自分に気づこうともしない、とでも言えばよいだろうか。
 
人間を相手に傾聴できない人が、神に対して傾聴できるはずがないのである。

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