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来たれ聖霊よ

ペンテコステ礼拝である。教会の三大祝祭日の一つとされている。弟子たちに聖霊が降臨したことを記念する。が、後から身近な教会の説教題などをちらちら見てみたが、真っ向から聖霊の話をしている教会は、あまり見かけなかった。しかしここには、ルカの描いた事件を辿ることなくして、いまここに働く聖霊の力を届ける説教があった。
 
聖霊降臨の有名な場面は、ルカと称される記者だけが記録する。しばしばそこから、ペンテコステの説教が語られる。弟子たちは、心を一新することになる。黙示録の講解説教が続けられるため、それにエゼキエル書を重ねることによって、聖霊の恵みが豊かに語られることとなった。
 
聖霊は、聖なる「霊」である。この語は、新約聖書のギリシア語でも、旧約聖書のヘブライ語でも、「霊」の他の訳語を適用することのある語である。つまり、「霊」のほかに「風」や「息」を表す語なのである。
 
使徒言行録2章の、いわゆる聖霊降臨の場面では、しばしば「炎のような舌」が大きく取り上げられるが、そのまえに「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たことが記録されている。台風のときに、不安な気持ちにさせる風の音を聞くことがあるが、そうしたものだろうか。この「風」は、かの語とは少し違う。だが結果的に、この後に「一同は聖霊に満たされ」ている。
 
説教者は強調する。命の風は、外から吹いてくるのだ、と。私たち人間が、自分の中から何かを絞り出すようなことをするのではない。私たちは生きるために息を吸う。賛美を歌うにも、息を吸わなければならない。そして、ここからもう一つ強調されることがあった。この聖霊は、いまもここに吹いている。いまここに満ちているのだ。聖霊は、いま私たちを生かしているのだ。
 
それは、神の言葉が語られるという中で顕著である。このことは説教者は敢えて言っていない。だが、聖霊を受けて神の言葉を取り次ぎ、命の言葉を語るこの説教という場面で、命の風が吹いているに違いない。神の言葉が私たちを生かす物語をつくる。私たちは、いまも同じ物語の中にいる。その当事者なのである。
 
黙示録に先立ち、開かれたのはエゼキエル書37章の初めの箇所だった。いわゆる「枯れた骨」の幻想的な場面である。これは確かに幻であるに違いない。谷間に積もった骨の数々。そこへ連れて行かれた預言者エゼキエルは、主から質問を受ける。「これらの骨は生き返ることができるか。」
 
この問いを、説教者はいまここで引き受ける。私たちはどうだろうか、と。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」というのは、少しはぐらかしたようなところもある返事であったが、神に判断を委ねる姿勢のようにも感じられる。事実、主はここから、エゼキエルに「預言せよ」と命じることが始まる。
 
やがて骨と骨が組み合い、肉が生まれ、皮膚で覆われた体となる。但し、それだけのものでしかなく、「その中に霊はなかった」。そこで主は、預言者に命ずる。「霊に預言せよ」と、かの肉体にではなく、霊に向かって叫ぶことになる。「霊よ、四方から吹き来れ。」
 
今回の説教は、この「霊よ、四方から吹き来れ」を巡って展開する。これを、讃美歌の題にもあるように、「来たれ聖霊よ」という形で、この後幾度か説教の中で繰り返されることになる。
 
エゼキエルの目の前で、霊が体の中に入り、骨骨は生き返る。こうしてイスラエルが復活するということなのであろう。彼らは、自分の足で立った。この自分の足で立つということは、自力で、という意味のほかに、神の霊によって、という意味があることを、エゼキエル書2章の初めの部分で私は実は感じていた。
 
エゼキエルは、霊に向かって叫んでいた。このことを説教者は、「神へ説教する」という表現で突きつけた。そして、歴代の教会は、これを繰り返してきたのだ、と証しした。その力は正にいまこの礼拝によっても、繰り返していることになる。
 
さて、連続講解説教としての黙示録に場を移すが、そこにあったのは、バビロンの滅亡の描写である。当然「バビロン」という名で、ローマ帝国のことを言いたいのだ。残念ながら、このとき直ちに現実のローマ帝国が滅亡するようなことにはならない。むしろ、ローマ帝国は「ローマの平和」と呼ばれる、非常に栄えた時代を迎えることになる。その後、キリスト教がローマ帝国に公認され、また国教となるにあたり、何かしら歪みが生じていくようなことにもなり、その後そこそこ長期にわたって国が続いたが、やがて歴史上から消え去り、人間中心の時代へと流れ落ちてゆくのであった。
 
少なくとも霊的には、ローマ帝国の時代、人々はあの枯れた骨のような状態であった。この都は、実質滅んでいる、というのが、記者の見立てであった。「お前はもう死んでいる」状態である(ある人の情報によると『北斗の拳』の原作にこれと同じセリフは、なんと1度しかなかったという)。
 
黙示録18章の20節までがこの朝読まれたが、その中に、「不幸だ、不幸だ、大いなる都」という言い回しが、三度登場する。かつて黙示録8:13に登場したときにも、説教者は紹介していた。ギリシア語の響きで「ウーアイ」という、この「不幸だ」は、呻くような音からできたのではないか、とも想像されるが、実に倦怠感の伴う、また絶望的な溜息すら感じさせるような、口から出る音である。イエスもまた、ファリサイ派の人々や律法学者を中心にして、おまえたちは不幸だ、と幾度もぶつけている。こうしたやりきれないような気持ちが伴っていたのだろうか。
 
さて、説教者はチャールズ・L・キャンベルの名を出して、その説教の中にあった物語を紹介するのに、少しばかり時間をかけた(説教の中の小説であった、と理解したが、正確さは保証できない)。詳細を再現する暇はないが、要するに、どこかに「悪魔の巣窟」がある、ということだった。教会が、そして説教が戦っているのは、この悪霊に対してである。
 
人間界には、こうだからこうしなければならない、という論理が、必然的であるかのようにまかり通っている。だが、私たちはその論理で押し切ろうとする世の流れに対して、「はて?」と首を傾げなければならない。ただ、キリスト者はえてして素直な羊でもあることから、案外、周りの声に流されて動かされてゆく危険の中にあるように私は感じる。そして、教会組織もまた、立場の偉い人が何かを言ったら、なんとなくそれが正しいことのように、一つの方向に事が動いてゆく。そして、それに警鐘を鳴らす声を、異端呼ばわりし、排除することを正義とするようになることがあるのだ。
 
説教者は幾度か「悪魔の巣窟」という言葉を印象づけた。私たちは、この言葉を心して憶えておかなければならない。まるで、ウイルスに対する抗体を体内に有しておくことで、体内ならざるものとしての外敵を見極め、それに乗っ取られてゆくようなことを避けることができるように、私たちは、「悪魔の巣窟」とその魂胆について、十分に警戒しておかなければならないのだ。
 
大学の中には、神学部として存立していながら、「悪魔の巣窟」などと呼ばれるようなところもあるらしい。そこでその自由主義神学者が、自分たちを「悪魔の巣窟」と呼ぶ者がいるが、そういう狂信こそが退けられるべきだ、というように反論するなどもしている。互いに悪口を言い合うのも喜ばしいことではないが、そのどちらが正しいかということよりも、そのどちらもが、自身気づいていないような形で、悪魔に支配されているかもしれないことを、警戒しなければならない、ということである。
 
説教者のモットーであり、また私も全くその通りだといつも強く言っていることなのだが、聖書に描かれていることは、過去の話ではない。この黙示録は、未来の話であるように描いているが、私たちは安易に、それを過去の遺物のように処理してしまう心理をもっている。だが、それは過去の物語でもないし、まして幻想小説でもない。
 
そのため、説教者は壇上で聞いていた。「ウーアイ」という嘆きの声を。それは、神が泣いている、というのだ。黙示録の記者が想定したように、ローマ帝国が直ちに滅んだのではなかった。だが、私たちはいま、大国の滅亡を歴史の中に、いくらでも見て知っている。それが、いまの自分の国に起こらないと、誰が保証できようか。一部の者の利益が多大であるからこそ、戦争は終わらない、というからくりさえ分かっていて、誰も止めることができないのは何故か。神の嘆きの声が、聞こえてこないだろうか。
 
人生に傷つき、苦しんだ人々が、教会に救いを求めてくることがある。死んだような顔をして、泣きながら、教会にすがってくることもある。しかしいつしか、教会に居場所を見つけ、教会生活で安心できるようになると、「ローマの平和」のような安らぎに酔うようになってしまうかもしれない。宗教的な満足の心が与えられるが、時にそれが麻薬のように作用することもある。世間で問題になるカルト宗教の姿は、他山の石なのである。
 
説教者は、「慰めを知る者は、かなしみを知る」というようなことを言った。「慰め」という言葉を強調することはなかったが、突然登場したことは、教会員には十分伝わるメッセージであったと思われる。加藤常昭先生のもたらす福音の、ひとつのキーワードである。私は偶々いま、クリスティアン・メラーの『慰めのほとりの教会』をちょうど読んでいるところである。加藤常昭先生の訳である。これには、もう教会のありとあらゆる事柄が、「慰め」というキーワードで織り込まれているのである。
 
では「かなしみ」とは何だろう。古語での「かなし」は、元々「悲しい」というよりも、「愛し」として「しみじみいとしい」ようなことを表した。説教者は悲しく叫ぶ「ウーアイ」の意味で、そのようなことを口にしたのだと思うが、私はその言葉の中に、腸がちぎれそうなほどに腹の底から生じる激情に加え、それでもなお胸が締め付けられるほどにいとしい、あるいは愛する、といった気持ちを重ねてみたい。それでいながら、「ウーアイ」と叫ぶのだ。
 
それはもう、ただの「不幸だ」ではない。「来たれ聖霊よ」という風が、希望をももたらすものとして吹き寄せる。説教者は、自分を聖霊の風の「通気口」に変えてください、という祈りが始まることを告げた。私は母教会の牧師に倣い、礼拝司式ではよくこう祈った。「説教を語る牧師が、良き通り管となりますように。」神からの言葉を、神の霊を、この説教が伝えるものであるように、との祈りであるが、そのためには、語る者が、人間からのものを吐き出すのではなく、ただ神からのものを通す管となってください、ということである。
 
その祈りは、この説教でも、叶えられた。「来たれ聖霊よ」という神への叫びが、「慰め」を知る心から発されていた。そう言えば、「聖霊」は別名、邦訳では「弁護者」とも称されるが、「助け主」あるいは「慰め主」とも呼ばれることがある。突如用いられた「慰め」ということは、説教としての完成を示しはしなかったが、ここから私たちは、新たな世界への入口を与えられたものとして、それを引き受けてゆくべきなのである。聖霊を受けたからには、慰めを知る者として、いまここから歩み始めよう、と。

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